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タロットカードを見ての印象
タロットを習うと、最初のあたりで、カードの印象を聞かれるということがあるかもしれません。
何の知識もない段階での、言ってみれば第一印象での感想のようなものです。
しかし、案外、この時の印象が重要なこともあります。カードの意味がわかってくると、素朴で純粋な時の印象がなくなってしまうからです。「知識」というフィルターがかかるわけです。(そうすると、フィルターが悪いと思う人もいるかもしれせんが、フィルターがあるからこそ、物事を把握することもできるということを忘れてはなりません)
そして最初の見方で、よくあるのが、好きなカードとか嫌いなカードというものです。マルセイユ版の場合は、小アルカナの数カード(数札)が記号的なものになっていますので、カードの印象と言っても、大アルカナで見るのがよいでしょう。
それはともかく、主に大アルカナ22枚を見て、自分にとっての第一印象を見るわけです。
この時、おそらくは心理(学)的用語でいうならば(厳密には違いますが)、カードに自分を「投影」することが働きます。カードの絵柄が象徴であり、自分の感情や内面がカードに投影されることで、逆に自分の内側が反射してあぶりだされくるわけです。
ですから、好きなカードは、好ましいと思う自分ポジティブな部分であったり、理想的だと思う状態であったりしますし、嫌いなカードは、抑圧しているネガティブな感情であったり、価値観的に嫌悪しているものであったりするのです。
これは個別(個人)レベルでの話で、もちろん、人によって好きなカードや嫌いなカードの違いはあり、もっと言えば、カードそれぞれによって、全員感想は異なると言ってもいいでしょう。
しかし、タロットカードの象徴性は個別レベルに留まらず、人間に共通な普遍的なシンボル性(パターン)を持つとも考えられています。従って、見ている皆に共通の意識や、心情のパターンが働くとも言えるのです。
まあ、もっとシンプルに言いますと、誰もが「怖い」と思うカードもあれば、「楽しそう」と思えるカードがあるということです。それでも、それさえも、実はもっと根源的に遡れば、人類に植え付けられた、あるいは、歴史の積み重なりで残っているデータパターンの傾向だと考えることもできます。
ですから、カードの見え方、感じ方(印象)というのは、ライトにとらえることもできれば、相当根深いものがあると見ることもでき、結構面白いものなのです。
そして、あまり言われていないことですが、カードの印象は、心理的な投影や普遍的な象徴性のパターンによるものだけではなく、ある特殊な領域の影響を感じとっていることもあるのです。
これは言葉では表現しにくいのですが、強いて言うならば、サイキック次元や霊的次元と関係するようなものと言えるでしょうか。スピリチュアルといえば、スピリチュアルな話です。
別の言い方をすれば、魂の反応としてのカードの印象があるということです。それにも個別的なものと普遍的なものがあると考えられます。
さて、話は少し変わりますが、同じカードへの印象というテーマには関係します。
これは自分にとって縁のあるカードはどれか?という話です。このことについては、また日を改めて詳しく話したいと思いますが、今日は、カードへの印象の関係で、少しだけふれておきたいと思います。
自分にとって(特別に)縁のあるカードというのは、数秘的な技術によって生年月日から割り出すものもありますが、それとは違って、やはりカードの印象から導かれるもの、または、タロット使うようになってから、リーディング等でよく登場するカードで判断するものがあげられます。
印象からのものというのは、そのまま「何か気になる」というものが多いです。
ただ、最初の印象の時では、何とも思わないカードというのが、得てして自分と関係が深いことがあります。むしろ好きだとか、嫌いだとか思うものは、普遍的(誰しも思うよう)な印象のものだったり、インパクトが強かったりするだけで、(特別な)縁とはあまり関係ないことのほうが多いように思います。
結局のところ、印象だけではなかなか判断がつかないので、使っていくうちにわかってくるということになるでしょう。
また、そのカードが、先述したような心理的な投影とも関係していることもありますが、単純な投影と異なるところは、その投影されているデータが、自分一人の(一代の)個の心理・内面を超えることがあるということです。
それは「縁」なのですから、信じる信じないは別として、今の自分一人の世界だけではない、前世的・霊的なものも入っている可能性があるということです。
言い方を換えれば、自分にとって縁のあるカードとは、今生のテーマのような、カルマや因縁、あるいは使命とか、魂的な自己表現に関係しているかもしれないと想像されるものなのです。
と言っても、最終的には、どのカードとも縁があると言え、つまりは、すべては自分の内にあることを見出す、思い出す、統合するのが、タロット活用の目的とも述べられるのです。
最初のカードの印象にしても、タロットのことを知り、タロットを使っていくようになりますと、それが変化していくのが普通であり、投影されていたものもフラットになったり、浄化されたりしていくようになります。
つまりは、自己の浄化、成長のバロメータとして、カードの印象も変化していくのです。
すべてのカードがいいも悪いもなく、等しく価値があり、また等しく価値がない(笑)と思えるようになれば、それは自分の眠っていた内なる可能性が開花してきた証拠とも言えるでしょう。
小アルカナ、4の世界の分類と学び。
タロットの小アルカナの原理として貫かれている法則に、4つの質によってシステム化されているところがあります。
いわゆる四大元素であり、スート(組)としての4組のことです。
タロットは伝統的な構成であるものは、78枚のもとに、大アルカナ22枚と小アルカナ56枚で構成されています。4で割り切れるのは、小アルカナの世界ということになります。
4という数は、いろいろな考えはありますが、ある根拠に基づけば、精神や霊的な世界より、現実(形のある世界)を示すものになります。(特に3と対比されます)
小アルカナの宮廷カード(コートカード)16枚と、数カード(スート・数札)40枚もともに、4を基本数として構成されていますので、それぞれも、そして合わせた56枚も、4で割り切れることになります。
さきほど、4は現実を示す数であると言いましたが、そうすると、小アルカナは現実で割り切れる世界、言い換えれば現実に適応する世界だと述べることができます。
逆に22枚の大アルカナは、4では割り切れないので、文字通り、現実では割り切れない世界(現実的な観点ではとらえきれない世界)だと言えるわけです。(仮に数を持たない「愚者」をあえて除いたとしても、21枚であるので、やはり4では割り切れません)
このことからも、適応範囲や次元が、大と小では違うことがわかります。マルセイユタロットの場合、それを明確にするために、特に数カードは大アルカナの絵図のデザインとは大きく異なったものにされています。
さて、4で割り切る世界の小アルカナは、それが現実の世界(を象徴するもの)であるならば、私たちの通常の認識では、物事と人間は4つの世界・性質で分類されることになります。
スピリチュアルな世界では、統合や融合が要請されることが多いですが、現実問題、私たちは分離した世界の中で生きているわけです。
分離は、相争えば競争や差別、戦いということになりますが、適材適所という言葉もあるように、お互いの性質の違いを認め合えれば、それはまた個性の活かし合い、助け合いとして、有意義なものともなります。
分析や分類は時に大切なもので、いきなりで強引な統合化・一体化というものは、混濁や混乱を呼ぶことがあります。
例えば、私たち日本人にはあまり問題に上がりませんが、ヨーロッパなど海外では、(現在の)国というより、地域・民族に自分のアイデンティティが強固であり、「ああいうやつらと一緒にされてたまるか!」と分離・独立の運動が激しいところがあります。
もちろん歴史的な経緯とか、宗教性とか、ずっと争ってきた領地・戦争等のことでの先祖からの因縁もあって、感情的にも簡単には融合することが難しいこともあるでしょう。ともかく、統合することが「和」として正しいのだという正義は、場合によっては横暴にもなるわけです。
それでも、いつか統合を果たしていくことを目指すには、逆に、それぞれの独立性、個性を互いに認める必要があるでしょう。そのうえで、融和していく過程を迎えるのです。
これは、一人の人間の中にも言えることで、私たちは先に述べた4つの性質で分けられるとともに、さらに、一人一人にも4つの性質が内包されているのです。
四大、つまり風・水・火・地の性質全部が、自分にもあの人にもあるのです。
有名な分類(あてはめ)の仕方では、風が知性・思考、水が感情・愛情、火が情熱(直感・創造性)、地が肉体(感覚・物質)というものがあります。これらは誰にでもあるセンサーであり、欲求・欲望の源泉のもとでもあります。
例えば、恋愛にしても、それが肉体的なものが中心なのか、情的なものなのか、計算によるものなのか、運命的なものとして、情熱にかられているものなのか・・・など恋の形、傾向があります。またそれらは、刻々と中心の位置が変化していきます。
恋においても、4のポイントによって動かされていることがわかってくると、恋を通した自己の体験を、本当の成長(変容)へと変えていくことができます。つまりはそれが統合(死と再生でもある)なのです。
4つの視点で、この現実の世界とそこに住まう人間たちを観察・洞察することは、4つの分離眼を持つに等しいことです。
先述したように、小アルカナの世界は現実を表すのには適している構成となっています。むしろ、4を中心とした観察で、分離した世界を把握することが、小アルカナの課題やテーマと言ってもよいでしょう。
この4つの性質を徹底的に把握し、分類し、その個性を理解することができた時(言い換えれば、4つを葛藤させるのではなく、有機的に関連した全体の中の個性だと認められた時)、真の統合に向かって飛躍していきます。その(向かう)世界は、錬金術的には第5元素の世界と言われるものです。
つまり、統合のための前段階、分離による整理が、小アルカナを使う世界観・段階だと表現できます。
これを、私たちは通常の生活、人の現実における一生の様々な出来事として経験し、学びます。すなわち、4大に分かれた性質世界の現実体験です。
おそらく亡くなってから、第5元素の世界に少しふれることができるシステムになっており、そこで、自分の生きていた現実世界の四大の仕組みを本当に知るのです。
しかしタロットは、生きながらにして、生前にもっとその世界を知っておこうというものであり、大アルカナの割り切れない世界観に参入し、魂の解放を目指そうというものでもあるのです。
普通に生きるているだけでも、多くの四大の学びを体験をしていくわけですが、その上部概念の第5元素の世界観にふれない限り、なかなか四大分離の世界のループから逃れることも難しいわけです。
確かに、人生の中で、悟りのような境地を抱くことが、誰しも一瞬とは言え、あると思います。
困難な仕事を成し遂げた時、恋人と心から愛し合った時、家族と幸せな時間を過ごした時、大自然や偉大な建築物などを見て感動した時・・・それは本当に色々で、人それぞれですが、人生を真剣に、あるいは楽しく、またはとても頑張って生きている時に訪れるものです。
それでも、第5元素的な学びも並行していると、また今生は違った意識になることができるかもしれません。そういうもの(人)のために、マルセイユタロットは存在しているとも言えるのです。
自分と世界との関係を三枚のカードで見る
今日はマルセイユタロットの、「吊るし」「悪魔」「世界」に関するお話をします。
この三枚は、自分と世界(外側・他人など)との関係性を象徴するカードとして(整理するために)使えます。
まあ、「世界」はそのまんま名前が「世界」ですから、何となくわかると思いますが、ほかの二枚は意外かもしれません。
ではカード別に見ていきます。
まず、「吊るし」
このカードは、逆さまの吊された人物が描かれているカードです。私たちの解釈では、吊されているのではなく、自分が吊っている、このスタイルを取っていると能動的にとられえますが・・・。とにかく、特徴としては、囲いの中に入っているように見えること、そしてやはり逆さまであることです。
ということは、狭い世界、あるいは自分だけの世界(人とは違った観点)にいることがわかります。
問題性として見た場合、いわゆる引きこもり、まさに自分中心でありつつ、外に開かれていない、外と関係を持とうとしないところです。しかも、逆さまなので、独善的、天の邪鬼、ひねくれている、素直に受け取ろうとしない、穿った考えにとらわれているなどと指摘することもできます。
ただ、物事には両面ありますので、よい点として見れば、外の世界と隔絶させることで、自分らしさを知ったり、静寂な落ち着きの中に自分を安定させることができます。他人や企業・組織からの広告・宣伝などに翻弄される(影響される)ことも少なくなります。孤独ながらも、自分の世界(観)を保つという感じでしょう。
「吊るし」の状態に自分がある時、世界は自分が中心となり、さらに、交流は内的なものに限られ、実際の人間や外側の世界観とは離れたものになります。我関せず、ゆえに我の世界に遊ぶ(あるいは囚われる)という印象です。
「あの人、変わっているよねぇ」と人から言われても、気にならないか、そのような噂があることすら知らない世界にいるか、そもそも、他人に理解してもらおうという態度でもないと言えましょう。
次に「悪魔」です。
「悪魔」のカードの絵柄の特徴は、悪魔を中心にして、ほかの二人の小さな人物をつなげてしまっていること、二人の人物から見れば、つながれてしまっていることです。これを束縛と取るか、強い絆と取るかは、状況や考え方次第です。
そして、自分と世界との関係性で見ると、自分が悪魔となるのか、つながれている人物たちと見るかで立場が変わってきます。
自分が悪魔の場合、人を魅了するカリスマ的な強烈なパワー、世界観を持っており、言ってみれば“ワールドイズマイン”、世界は私(のもの)というくらいの気持ちを持っていると言えます。
従って、人々はこの悪魔の人物を、モデルや理想、活き活きと自分を表現している人と見なし、その人の世界に魅力を感じ、引き寄せられていくのです。この引き寄せられている側がつながれている人物たちです
自分と世界の関係について戻りますと、「悪魔」のカードは、「吊るし」と同じく、自分の世界というものの中にいますが、「吊るし」と違うのは、それが他人にも開かれているということです。むしろ、自分の外の人やモノにを抱き込んで(巻き込んで)、自分の世界に引き入れてしまう状態とも言えます。自分自身が外側に拡大(問題の場合は肥大)しているわけです。
自分が悪魔になれば、多くの人からの支援や賛同も得られるでしょうし、人気者になったり、持ち上げられたりして、時代の寵児としてもてはやされることもあるでしょう。精神的・物質的にも豊かになる可能性があります。
少なくとも、自分の考え・行動そのものが世界みたいになってきますから、「世界は私のためにある」「私こそが世界」のような、強い自信にあふれ、自分と賛同する人物たちの人生は楽しくなるはずです。
最後に「世界」です。
「世界」のカードは、マルセイユタロット的にも、ほかのカードにおいても、最後の到達点・心境・完成点と言われることの多いカードです。
つまりは最高度の状態を示すと言ってもよいものです。ということは、自分と世界との関係においても、理想的なものと見ることもできます。
「世界」のカードの構造は、4つの生き物に囲まれた、リース状の中で踊っている人物が特徴的です。
よく見ますと、「世界」の人物と「吊るし」の人物が、そのスタイルにおいて、よく似ているのがわかります。(マルセイユタロットの場合)
ただ、違いもあって、「世界」の中央の人物は、手足が外に広がっており、「吊るし」は手足が縛られているように見えることです。踊っているか(動的)、逆さまに耐えているか(静的)の違いと言ってもいいでしょう。そして、ともに足が「4の字」を組んでいることが共通していますが、これは秘伝・口伝に関わりますので、ここでは述べません。
とにかく、「世界」は、中(の人物)は動的であり、リースの中にいながら、外に広がっているということは、内外との交流があるということです。
4つの生き物が見守っているかのように静的であるのも、中の動的な人物と比較して興味深いところで、「悪魔」の二人の人物たちとは違って、4つ生き物はつながれていません。自他の関係性においては、それぞれ自立性と自由性があるとも言えます。
「悪魔」は魅力とパワーがある者ではありますが、他人を自分の世界に必要としており、つなげておかなければなりません。また、つながれているほうも、つながれなければならない理由が、いい・悪いに関係なくあります。
一方、「世界」はつなげる必要はないのです。つなげるということでは、「吊るし」にも“ひも”があり、枠のような横木に足を結びつけています。つまり、「吊るし」も木に結びつける(つなげる・つながれる)必要性があるのです。
自分と世界との関係で見た場合、「世界」では、自他、内と外、理想的な状態で自助と共助と公助が調和しているものと考えられます。
いわば、自分が世界でありながら、人が(の)世界であることも認めている状態と言えます。人の世界と他人の世界の両方を統合した世界観・関係性と言ってもよいでしょう。
ただ、理想的であるがために、そのバランスが難しく、他人と自分の立ち位置、あり方、自我の優先と他者への気遣い、貢献や奉仕との兼ね合いに悩む状況も生まれます。
結局、これら三枚は、どれが悪いとかいいとかを言っているわけではありません。
自分と世界との関係をどうとらえるか、どのような状態に現在いるのか、自分にとって、どの状態が今必要とされているのか、そういうことをタロットの象徴を通して把握する、理解することが大事です。
「吊るし」である時も、「悪魔」である時も、「世界」である時も、場合によって必要なのです。
すべてのカードの中立的な象徴性の状態が、意識の偏り、囚われ、無知(この無知は知識のことではなく、自分のことに気づいてない無知です)によって、「問題」となっているのだと言えます。
依存の中にある光
私が以前うつ病や不安神経症になり、大変だった時期は、普通より、かなり依存的になっていました。
平常な精神状態でいる時より、人・モノ・場所などに対して、つまり自分より外側のものへ頼りたがる傾向になっていたのです。
ただ、うつ病でも最初のうちは、通常のこと(仕事や作業等)ができない自分を責めることもあります。私も初期はそうでした。
しかし、次第に自分を責めるという感じから、とにかく助けてほしい、この状態から逃れたいという気持ちに変わってきました。
責める状態の時は、まだ余裕があったというか、どこかに自他(の領域・責任範囲)を分けて見ることのできる冷静さが残っていたと言えますが、うつ病だけならまだしも、不安やパニック的なものも病的に生じて、ものずごい苦痛や恐怖のようなものが実感として押し寄せるようになってきますと、まったく自分のことしか考えることができなくなり、だからこそ逆に、自分以外のものに対して、何でもいいから自分に救いをもたらしてくれることを求めるようになってしまうのだと分析できます。(あくまで自分の体験からの考察においてですが)
要するに、病的な精神状態になりますと、通常時の物事への認識のバランスを欠き、何事も極端に見てしまうようになるということです。すべてが大げさ・大ごとになってしまう(しかし、当人にとっての実感は本当にそう感じている)わけです。
このことから、人は物事に対して、自分の心次第で、その認識が変化してしまうと言えます。まさに、心(の状態)が変われば、物事の意味も変わり、深刻さ・軽さの度合いも変わるのです。
ということは、物事を、厳密な公平(中立)さ・ありのまま・素の状態で見るのは、誰においても、純粋な意味で難しいのかもしれません。
ここに、環境も大切ですが、外側のものに働きかけるよりも、自分の心・思い方を変えたほうが、全体認識の変化には効果的であることがわかります。
さて、今までの話と関連しつつも、ここからは少し内容が変わります。
外側(の何か)に極端に依存するようになってしまった時、これはまともな精神状態ではないと言えますが、人の性(さが)として、時に何かに依存してしまうような事態もあり得ます。
依存が必ずしも悪いわけではなく、依存している人を責めたり、批判したりしても根本的な解決にはならず、依存たらしめている要因・状態を探る必要もあります。
そして、やはり依存しているもの(人とかモノ)そのものが与えられても、その人が真に助かるわけではなく、依存物とは違う別の助けと、依存から脱却する境地の訪れが要請されるものです。
やはり思うのは、自分が依存的になっている時、自立の道から遠ざかっていることの警告だと思えます。
しかし、逆説的ですが、一方で、だからこそ自立というテーマが今起こっているのだと、依存(状態)を通して、その真の意味に気づくこともできるのです。
私がうつ病や不安神経症から回復したのは、休養したことや、仕事そのものを変えたことも大きいのですが、結局、いろいろなこと(それは普通の医学もあれば代替医療もあり、さらには占いやスピリチュアル、サイキックも含めた様々なこと)を治療過程でやってきて、結局、誰かや何かに治してもらおうと思っていたことの気持ちを変えた時(以降)だったからです。
つまり、依存から自立への精神の変容です。
マルセイユタロットでも、「13」という変容を如実に示すカードがあり、その次の数を持つカードは、天使姿の救済を意味する「節制」で、このふたつを並べると、向き合うような形になります。
言ってみれば、自立への変容を遂げた時に、本当の救済が訪れるという象徴とも考えられます。
しかし、だからと言って、自立を決意すれば依存は何でも脱却できるというわけでは、当然ありません。
自立精神を、すぐ立てることができれば苦労はないわけです。
苦しみながら、もがきながら、時に人やモノに依存しながら、グルグル回って私たちはやっと自立の道に進むことができます。
その過程においては、依存心を利用してだまそうという人もいれば、手を差し伸べて、きちんと援助してくれる人もいます。
注意したいのは、優しいばかりが援助とは限らず、反対に依存状態の停滞(「マルセイユタロットの「悪魔」のカードには、ひもでつなげられた人たちが描かれています)を助長するものかもしれないのです。
本当に苦しい時は、助けを求めて、一時的にでも楽になりたいと願うものです。
それでも、その苦しさと依存の状態には、心の奥底で自立を願う自分の精神があるのです。大変なのはわかりますが、すべてを依存させてしまわず(自分を捨ててしまわず)、独立・自立・真の自分の心があるのだと、心の片隅にでも願っておき、誰かや何かに助けを求めるとよいでしょう。
一言で言えば、救済は求めても、自分の本当の魂は売らないということです。自分自身への尊厳と言ってもいいでしょう。
「こんなに堕落した自分が・・・」「依存で振り回されている自分が・・・」情けないとか、「本当に苦しい、大変だ」「何でもいいから、誰でもいいから助けくれ・・・」とか、そういう状態になっている人もいらっしゃると思います。
そんな自分にも残されているかすかな光、生きたい、幸せになりたい、成長したい、自分を救いたい・・・このように思う光の部分があるはずです。その一点だけでも大切にしていると、救済の天使は(あなたのその光が合図となり)訪れるでしょう。
絶望の中にも希望はあるものです。
タロットリーディングの力
今日はタロットリーディングの話です。
タロットリーディングには、いろいろな力(能力)が働きます。そして、それらの混合、バランス、さじ加減によって、その回の、または自分流のリーディングが形成されると言っていいでしょう。
いろいろな力とは何かと言えば、大きくわけて、3つの要素があります。
ひとつは、タロット自身の力。もうひとつは、自分(タロットリーダー)の力。さらには、環境(場・フィールド)の力です。
ちょっと「天」のニュアンスは違いますが、天・地・人の要素みたいなものでしょうか。
まず、タロットの力。これは、タロット自身に由来するもので、端的に言えば、タロットの種類による色分け、一種のエネルギーや質の違いと言えます。
サイキック的な言い方をすれば、それぞれのタロットの霊と、それが属する世界のようなものと表せます。おとぎ話風に例えれば、タロットには国があって、それぞれ違うみたいな感じです。
正直言いまして、タロットの力が、全部同じとは考えられません。やはり、強い力を持つものもあれば、さしたる影響(力)を持たないタロットもあると言えます。
さらに言えば、働きかける層やポイント(影響や効果が現れる性質)が、タロットの種類によって変わってくるところもあります。占いに向いているカードもあれば、ゲーム向けのもの、メンタルケアに向いているカードもあるということです。
相談・リーディングをするという意味においては、タロットの持つ力が強ければよいわけでもなく、それだけコントロールや使いこなしも難しくなり、やはりこれは自分との相性のようなものがあると思います。
次に、タロットリーダーの力です。
これは、技術や知識的なものから生まれる力と、もともとその人自身が持つ(超能力的な)力とがあると言えます。前者は学習し、訓練すれば向上しますが、後者は生来の素質のようなものなので、練習すれば身に付くというものでもありません。
誤解されやすいのが、道徳的な意味での人間性です。
必ずしも、いい人、まじめな人、道徳的に優れて人間性が高い人が、すばらしいリーディングをするとは限らないわけです。ただし、人徳と言われるように、「徳」の力というものも確かにありますので、それが力になることもあります。
それでも、タロットリーディングの場合は、一般的な意味での善悪や人間性の良し悪しにこだわっていては、純粋な意味でのフラットな見方ができないこともありますから、人間性の良さがリーディングの力になるとは言い切れないものがあるのです。
最後に、場の力があります。
タロットリーディングを実践的に行うようになった方ならばわかると思いますが、リーディングは結構環境に影響されやすいところがあります。
そもそもタロットリーディングは、通常の意識とは異なるものに移行して行われるところがあり、それには特定の儀式であったり、場の静寂性や清浄性を保つための工夫を必要としたりします。
あまりにも雑多で、人の声が飛び交うような場所で意識を集中させることは難しく、よいリーディングができるのは厳しいと言えます。また、サイキック的に強い不浄や念が残っている場所などもやりにくいでしょう。
ほかに、(周囲にある)モノによっても、タロット(リーディング)のエネルギーを乱される(介入してくる)ことがあり、非常にタロットが読みにくくなる場合があります。
具体的には、持ち主や売り主が意識を強く投影している宝石などの鉱物、ペンダント・指輪などの装飾品、サイキック的な護符のようなもの、結界陣、シンボル、強く念を注がれた人形類、スマホなど電磁波を強く感じさせるものなどです。
とはいえ、これも「人」の力によっては、あまり干渉させなくすることも可能ですし、気にならない人には何も問題ないこともあります。
何より、人の力が優れていれば、場を支配することもできるからです。支配と言うと、聞こえが悪いですが、要は場のコントロールです。これがリーディングにおいても、案外と大切なことでもあるのです。
ということで、最初に戻りますが、結局、タロットの力、タロットリーダーの力、場の力が混ざり合い、その人の総合的なリーディングとして表現されるわけです。
「和音」という言葉があるように、それぞれによっての調和がなければ、不協和音として響きますし、調和が保たれていれば、よいハーモニーを奏でることになるでしょう。
また、それぞれの力の強い弱いをカバーしあうことも可能です。
まあしかし、私自身が感じるのは、何よりも、現実に存在する人、つまりタロットリーダーの力が一番重要かと思います。
タロットリーダー(の力)がしっかりしていれば、おおむね、リーディングの力も強くなります。
それと、タロットとタロットリーダーの相性、関係性(ラポール)も力を発揮するうえでは重要でしょう。まさにお互いに相棒であり、相棒が信頼できなければ、よいリーディングはできません。
タロットとのラポールが相乗効果を生み、タロットとあなた(リーダー)から力を呼ぶ起こすのです。