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自由と責任 責任と自由
自由と責任ということはよく言われます。
(マルセイユ)タロットにおいても、そのどちらも表すカードは存在しています。
例えば、「正義」とか「皇帝」とかのカードは、端的には「責任」というものを表すカードと言えますし、逆に「愚者」や「世界」などは、「自由」を象徴しているカードと見ることができます。
しかし、これはカード単体の意味で見た場合のことであり、究極的には、どのカードにおいても、自由と責任ということは、そのレベルの範囲で象徴されていると言えます。
先に挙げた「正義」にも自由はありますし、「愚者」にも責任はあります。(ただし、「愚者」の責任というのは、常識的には考えつくことが難しいものではありますが)
この、どのカードにも自由と責任が象徴されているという考えは、実は現実的にも適応できるものです。
言ってみれば、その考え方を持てば、生きる上で混乱することが少なくなり、人と意見が違ったり、争うようなことになっても、感情的になり過ぎずに済むという利点があります。
それは簡単に言えば、世界を色分けして見る、区別して見るというようなものに近いです。
もう少し別の言い方すると、ある常識・正しいとされている共通したルールを持つ世界が、それぞれにあるという風に見る方法です。
例えば、法律的なことで言えば、憲法レベルで言っているのか、条例レベルで言っているのか、というものでも、その世界観は違うわけです。
人は結局のところ、自分(の認めた、信じた)ルールに従って行動したり、主義・主張したりするわけですが、それでも、明文化された法律とか、その職場や学校、クラス、仲間うちで通用するような常識、慣用、習慣みたいなものがあるわけです。
まあ、他人様がいるのがこの世界ですから、自分のわがままだけ押し通すわけにはいかないのは当たり前です。
スピリチュアルなものを志向したり、心理的なものを解決や解放の根拠に置く人の傾向にはありがちの考えですが、「人は本来自由であり、何も縛られるものはなく、従って、いいも悪いもなく、それを決めているのは、自分や他人のジャッジだ」というのがあります。
確かに究極的には、私もその通りかなとは思います。
しかし、人の世界、共通したルールに基づいて形成したり、合意したりしている世界それぞれにおいては、そこに優劣や正誤、良い・悪いという線引きは確かにあるのです。
法的なものが整備されている国において、その国の法律で犯罪だとされているものは、その国おいては、やはり悪いことで、犯罪なのです。
要するに、人間として現実生活を行う限り、レベルや次元の違いはありますが、どの層・世界においても、あるルールや守るべきもの、法則が存在し、その意味において、責任が生じたり、いい・悪いという二元の判断はあるということです。
もし、そのいい・悪いの判断(ジャッジ)から逃れたいのなら、自分の自由度と責任を、その世界観のものとは別にしていくこと(世界観が適用される範囲から、はずれること)が求められます。
ひとつには、単純に、その世界(観)から、移動する、別の場所に行くという方法があります。
日本ではダメだけれども、別の国に行けば認められるとか、この仲間うち、職場のルール(掟)では自分が苦しい、自由になれないので、別の仕事に変える、そのグループから離れるというやり方です。
しかし、非常に広範囲に設定されているルール・規則・法則のもとでは、逃れること自体、現実的には困難で不可能な場合もあります。
例えば、物理法則から逃れるとか、普通に裁かれずに法律から逃れられるのも難しいことでしょう。人間としての機能・感覚から逃れるのも、超人にならないと無理です。(笑)
しかし、物理的なことも、工夫したり、身体を鍛えたりして、ある程度自由度を増すこともできますし、明文化されていないルール・規則、つまり、内的なことや、思い・感情的なことなどは、自分自身で自由度を上げていくことが可能です。
いわば、自分ルールを変えることによって、自分の自由度、選択度を上げていくということです。
肉体的には確かに限界があるかもしれませんが、心の自由度は、かなりのところで可変でき、心の縛りのようなものを解いていくことで、気持ちは解放され、その分、自分の囚われも少なくなり、今まで見えなかったことが見えてきたり、できなかったことができたりするようになります。心理的アプローチで現実を変える根拠は、こんなところにもあるのです。
ただ、注意点があります。
自由と責任と書いてきたように、自由には常に相応の責任が生じます。
これは自動的にそうなるようなものなのですが、その広がった自由分の責任を取らないと、違うことでのバランス調整が働き、拡大した自由が奪われたり(つまり責任が取れないので、元に戻される)、その自由をコントロールできずに、失敗したり、身の破滅に向かったり(これも、自分が本当に責任が取れる自由度の状態に調整される作用と考えられます)します。
例えば、「自分は自由に恋人を何人も持ってつきあうんだ、それが俺流、わたし流」と、自分の心の自由度を上げたと思っている人でも、その、何人もの人とつき合うための「責任」ということも拡大されるのです。
複数の人とおつきあいするわけですから、皆さんがいがみあったり、嫉妬したりせず、満足させる状態になければなりませんし、世間的な常識(というひとつの世界観の世界)の自由度の人たちからは、非常識だと非難される恐れも高くなります。
それらのことに対して、心を乱したり、うまく対応できなかったりするようでは、本当の意味で、自由を獲得した(自由度を上げた)とは言い難いわけです。
自由と責任が、ひとつの世界の中で、ある形のような感じで決まっており、それはもちろん一定ではなく、世界(観)が変われば、それに応じて、自由と責任も変化していくのですが、世界(観)を混同して、すべて同じレベルとルールのように思って「自由」を主張していくと、属している世界それぞれのルールによって、正しさの争いが起き、混沌・殺伐とした状態になってしまいます。
自分が主張しているものは、どの世界観・レベルで言っているのか、また相手も、どのような世界観で言って来ているのか、よく見極めることです。
それを把握しないと、話し合いは平行線のままに終わりますし、ともに「自由」の認識も異なって、それに伴う「責任」も不明確になります。
わがままな人は総じて、世界観を飛び越えた究極の自由、あるいは自分ルールばかりを拠点とした自由のみを主張し、それに伴う責任にはついて無自覚か、あえて(わざと)避けようとします。
逆に、必要以上に、本来、その世界観では取らないでいい責任まで自分に課して、自由を自ら奪っている人もいます。
人は、一人で何でもできるわけではなく、また一人の人は、逆にそれほど無力でもありません。
自由と責任、それには階層種類、レベルの違いもありますが、どこにおいてもバランスは常に働き、そこからはずれていると、自動調整されたり、自ら責任を取るように働いてきたりします。
だから、逆説的になりますが、もっと伸び伸びと自由を求めてよいのです。
なぜなら、先述したように、自由になった分、責任は自動的に働いて来るからで、最初から自由に対する責任の恐れを持ちすぎて、解放をためらうのはもったいないからです。
しかし、同時に、「拡大する自由の選択は、その応分の責任が働く」ことも、(過剰にではなく)自覚しておくと、成長や解放の道も、よりスムースに進むことができるでしょう。
時には愚者になってみる
マルセイユタロットでも、ほかのタロットでも、「愚者」というカードがあります。
このカードは、基本、数をもっていませんので、ある意味、すべてのカードの代表と考えることができ、また、どのカードにも変化(へんげ)できる特殊なカードとも言えます。
通常、ほかの大アルカナカードで数を示す部分は、「愚者」では空白であり、擬人的にたとえれば、「愚者」自らによって数を書き込んだり、書き換えたりすることができるかもしれないわけです。(笑)
トランプにも、ジョーカーという存在(カード)がいて、ゲーム上、たいてい、オールマイティーな力が付与されています。諸説ありますが、トランプのジョーカーとタロットの「愚者」は同じものと見ることができます。
ここで、私たちの人生も、自分(今の自覚意識を持っている自分)という人間で、ある人生ゲームを行っていると考えてみましょう。
そうすると、タロット的、あるいはトランプ的には、自分に今回(の人生で)配られた持ち札が自分の個性とか能力とかになり、それは(ゲーム)シーンによっては、長所にもなりますし、欠点にもなります。
カードゲームでは、いわゆる「切り札」と呼ばれる、とっておきのカード、つまりは得点力や効果の高いカードがあります。
トランプもタロットも「絵札」が強く、そしてジョーカー、「愚者」も切り札になり得ます。(そもそも「トランプ」という名前自体が「切り札」を指し、日本ではプレイングカードが、トランプという言葉になってしまった経緯があります)
自分にはトランプ(切り札)が配られていないと思う人がいるかもしれませんが、タロット的に考えるならば、枚数の確率的に見て、配られていると見るほうがいいでしょう。
と言うのは、タロットの絵札は、全78枚のうち、42枚(数札エースも入れると)もあるからです。これを半分くらいの確率しかないととらえるか、半分以上もあると見るかですが・・・ただ、私が思うに、人生においての切り札として、全員に「愚者」は配られているのではないかということです。(もしかすると、一定の絵札は、種類は違っても、全員配られるというルールのゲームかもしれません)
ですから、「愚者」としての切り札は必ず、誰でも持っていると見るのが妥当に思います。
先述したよにうに、トランプではジョーカーに当たる「愚者」なのですから、「愚者」はオールマイティーな力を持ちます。
ただ、実際に、人生においての「愚者」(の力)とは何か? です。
これに気づくと、「愚者」を、本当に人生の切り札にすることができるのではないかと思います。
ここで私が回答を述べたとしても、あくまで私のひとつの意見・考え方に過ぎませんから、それはあまり意味をなしません。「愚者」はオールマイティーであるだけに、一人ひとりにとってもオールマイティーであり、つまりは、その人自身の力の現れがあるのです。
しかし、タロット、特にマルセイユタロットにふれた(学んだ)人は、「愚者」の力について、思いを馳せるとよいでしょう。
対比的に言いますと、あること(わからないこと)を浮かび上がせるには、逆のものや違うもの、知っているものを思い浮かべるとよいです。マルセイユタロットを学んでいるのなら、それができるはずだからです。
「愚者」とは別の大アルカナ(や絵札など切り札と呼ばれるカード)を想像することで、「愚者」の力が何なのか、見えてくるということです。
ところで、話が変わるようで、実はつながっているのですが、タロットリーディングにおいて、この前の記事ではありませんが、先生についてタロットを習っている人には、その先生から教えられる方法・考え方で、読もう(リーディングしよう)とすると思います。
それは人に習っているからこその当然の行為で、初期のうち、特に基礎を固めていく時には、王道ともいえる方法であり、技術向上の道としてはよいかと思います。
しかし、ある程度自分でできるようになってきた時、また、プロとして不特定多数の人に実践していく時、それら(先生から伝えられるセオリーのようなもの)を守り続けていると、かえってうまくできなくなってくることがあります。
守破離という言葉もあるように、何事も、自分のものにしていくには、過程としても最後にしても、いつか型を破り、それまでのものから離れることが求められます。
その時、必要なのが、「愚者」の力です。いや、実は初期の段階からでも、常に「愚者」は寄り添っており、いつでも自由と解放の旅に出られるように準備をしています。
いろいろと小難しいことや理屈を考えていても、始まらない時があります。また、読めないことを理屈づけ(理由づけ)する(つまるところ、それは弁解)という奇妙なことも起きます。
たまには、パターンやセオリー、先生の言われることなどふっとばして(笑)、自由な読み、自分の直感からわき起こる読みをしてみるのもよいです。これは反骨とか、抵抗でするのではなく、我(自我)も外(他人)も忘れるかのように、何も気にせず、その場を楽しんだり、ダンスしたりするかのような気持ちです。一言で言いますと、“守らない読み方”です。
私も、最近、このような「愚者」が舞い降りてきたことがありました。
それは、ふと、自分以外のタロット講師とか、マルセイユタロット以外の講義とか、どんなものだろうかと思い、動画で上がっているものをいろいろと視聴してみたのです。
すると、自分、あるいはマルセイユタロットとのあまりの違いに驚愕したのでした。ああ、世間ではこんな風にタロットを扱い、教えているんだと・・・ただ、同じ系統のマルセイユタロット講師は、似たようなところはありましたが。
最初は自分の中で批評したり、この教え方はどうなんだ?みたいに思ったりしたのですが、段々そうしている自分自身がばからしくなってきて、逆にタロットの世界の面白さに笑えてくるようになりました。
タロットには、まさにいろいろな世界、ゲームがあるということで、そこに「愚者」の存在が感じられました。
「どうだ? お前のやっているタロットとは違う世界だろ?、これもタロットなんだぜ?これも楽しいもんだぜ」みたいな感じです。(笑)
これは、人生のどのシーンでも実は言えることです。
難しく考えすぎたり、理屈が通っていないと動けないと思ったり、正しいものが見つからないと信用できないと考えたりしていると、「人生」というゲームを楽しめず、切り札も温存したまま、ゲームが終わってしまうことがあります。
もちろん、「正義」や「斎王」、「隠者」や「皇帝」などのカード(手札)もありますので、正しさを見極めたり、勉強したり、現実や常識を重んじたりすることも人生には必要です。
しかし、それらを超えるオールマイティーなカードとして、「愚者」があることを忘れないようにしていると、(人生)ゲームにおいて一発逆転もあり得ます。
そして、もしかすると、私たち一人ひとりの人生も、「愚者」の見ている夢なのかもしれません。まあ、それはそれで、面白いところもあり、そう考える場合は、マルセイユタロットに流れる根幹的な思想にふれてくることになるでしょう。
恋人とは別れることになっている。
今日のタイトルはなかなか強烈かもしれません。
また、「そんなこと、信じない」「そんなわけない」「ずっとこの人と一緒にいる」と、今、恋愛モード真っ最中の人には思えるでしょう。
それでも、マルセイユタロットの「恋人」カード、そして、魂の成長を示唆するともいわれるカードの並びの中で、このカードと強く関連するカードたちを見ていると、そう思えるところが出てくるのです。
現実的に見ましても、好きになった人とおつきあいし、お互いに恋愛状態となってピークを迎えていくものの、最終的には二人(の関係)はどうなっていくか、考えてみてください。
結果的には、次の三つです。
ひとつは同棲や結婚など、二人が一緒に暮らしていくような新しい形態に移ること、もうひとつは、気持ちが冷めて(嫌になって)か、好き同士であっても死別するかで、二人が別れること、そして三つ目は、何かの事情(気持ち以外の事情)で中途半端なまま(別れていても、別れていなくても)になってしまうことです。
時間の質の概念で言いますと、新しいことや別れることになるのが「未来」的なもの、新しくなるのでもなく、また別れるのでもなく、中途半端なままの状態になっているのが「過去」的なもの、そして今恋人同士として、つきあっている状態がまさに「現在」と言えます。
ただ、未来的な状態も、新しい状態に移行した時点で、現在感覚となると考えられます。
人は「現在」に集中して生きる時、もっともパワーや生きているという実感を得ると言われますが、恋愛で見ますと、残念ながら、中途半端なままになったものは過去に生きるようなことになり、生きている実感から遠くなる状態になるのではないかと推測されます。
このことの問題はあとで述べます。
二人の恋愛関係が行き着く先は、今述べたように、主に三つが考えられるわけですが、中途半端なままになったものを除き、それは見方によれば、別の状態に移行した、変化したと言えます。
別れず結婚に至ったものなどは当然として、たとえ別れてしまったものでも、それはひとつの恋が終わり、お互いに新しい状態になったということでもあるので、やはり新モードに変わったわけです。
そして結婚した場合でも、なるほど二人は別れていませんし、ハッピーな状態ではありますが、それは恋愛の時の二人とは違います。今度は家族になるわけですから、恋人同士の時とは違うパートナー感覚でもって生きていくことになります。
また生活をともにする場合は、恋愛・気持ちだけでは済まない、現実の様々な局面に対応していくことになるので、やはり変わって行かざるを得なくなります。
ということは、恋愛の時の二人ではなくなる(なくならざるを得ない)わけで、それは次元や世界観というもので見れば、ある種の別離なのです。この場合の別離は、二人が存在として別れるというのではなく、恋人同士、恋愛という世界からの別離です。
しかし、お互いに見れば、恋人であった相手は夫・妻というものに変化(変容)したので、それは昔の相手との別離とも言えます。
従って、実際に別れることがなくても、また、たとえ二人が結婚しても、前の自分たちとの(見えない)意識・状態による別離はあることから、今回のタイトルである「恋人とは別れることになっている」と言っているのです。
人間の感情、あるいは表面的なことで見れば、実際に別れての変化は不幸で悲しいもの、結婚や一緒に暮らし行くようになったりする、別れない変化は、幸福でよいものとされますが、本質的には変化・変容しての別離の意味では同じです。
ただ、不幸と思える別れにあっても、交際した時間、一緒に恋人として愛し合い、共感して過ごした濃密な時間というか、エネルギーがあり、それは形としては見えないものの、お互いの中に残って、存在し続けます。それは二人の結合と変容への過程でもあります。
次の人に出会い、また新しい恋人同士になることはあっても、自分の自覚的な気持ちとは別に、かつて別れた存在が結合したエネルギーとして生きており、相手も自分も、そうした見えない人たちを含んで、愛し合うことになっているのです。
その人を形成しているのは、その人自身だけではなく、今まで関わり、愛し、経験してきた(恋愛だけではなく、つまりは人生すべて)ものがあってのことであり、交際は、それぞれのこれまでの人生との交流であり、変容する過程でもあるのです。
一方、恋愛の行く着く先の三つ目として、中途半端なものがありました。これだけは特殊で、過去を主体として生きてしまうようなこともお話しました。
この状態のものは、恋人モードが終わっておらず、また精神的に(双方かどちらかに)継続している状態です。別れてしまった関係の中でも、どちらが未練として強く思いを残している場合は、新モードへの移行とならず、やはり中途半端な状態になっていることもあります。
言わば、精神的には別れておらず、しかし新しい状態へも変化変容することもできずに、囚われの状態で、堂々巡りしているようなものと言えます。そして、幻想の中に閉じ込められている(閉じこもっている)ので、時間は切り離され、止まったままになっているのです。
人は現実(意識)おいて、時間が過去から未来に流れている、向かっている(進んでいる)というものがないと、いい意味でも、悪い意味でも現実を生きている感じがしません。(いい意味というのは、現実時間からの囚われから解放された、無の境地のような自由や、万物とひとつになったかのような一体感を味わうようなことです)
時間が止まってしまったかのような中途半端な恋愛モードが続いてしまっている人は、妄想の世界に生きるか、現実との葛藤で、とてもつらい状態になっているかになります。
ところが、自然の摂理は、すべてのものは移り変わり、変容していくものになっています。そのため、終わっていないものでも、強制的に終わらせる圧力がかかったり、環境の変化が訪れたりします。時間自体も外は動いていて、風化していくように働きます。
つまりは、中途半端なものでも、いつかは終わる時を迎えるのです。それは死かもしれませんし、ほかの何かかもしれません。自分の一代の人生では終わらせなかったものは、もし輪廻転生や死後の世界を想定するとすれば、そうした世界での処理ということも考えられます。
そして、やはりその場合でも、おそらく恋人と過ごしたエネルギーは自分に残り、お互いに相手は、それぞれの内に結合して、別の状態へと変容していくのだと考えられます。それが早いか遅いかの違いです。
長く想い続けた関係は、それだけ終わらすことは難しいかもしれませんし、中途半端な状態で閉じ込められてしまっていたものならば、なおさらでしょう。
それでも、それがいつかは終わった(完結した)時、その想い続けたパワー・エネルギーは強大なものとなり、あなたを守護したり、大きな新しい変容エネルギーとして昇華されて行ったりすることになるでしょう。天使はそのサポートに働きます。
こうして、すべての恋人同士の関係は別れることになり、しかし、実は別れず、変容した永遠の人(エネルギー)として存在し続けるのです。
皆さん、素敵な恋をしましょう。
タロットに聞くこと、聞かないこと
西日本を中心に、かなり大雨が続いて各地に被害が出ました。災害に遭われました方々にお見舞い申し上げ、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。
さて、今日の記事です。
タロットの活用を考える場合、なんでもタロットを引いて、聞いて(聴いて)みるという態度には問題があると言えます。
まず、そもそもタロットに聞くまでもない話や、タロットを引く以前に、聞く人や尋ねるべきところがあるのではという問いがあるでしょう。
メールしたり、電話したりして、行動して確認すれば済む話とか、医者に行ったほうが確実に体調と治療のことはわかるとか、そういう類のものが意外にたくさんあります。
また場合によっては、天候なども、占ってみるのは面白いかもしれませんが、今は天気予報を見るほうが正確な情報を得られそうです。
これはタロットを習い始めて、とにかくタロットを使いたいという時や、タロットに慣れてしまって、疑問や質問があると、タロットを引く癖になってしまっている人のタイプでいます。
それから、極端に物質的・現実的問題、端的に言えば、お金の問題で緊急を要するような時も、タロットで回答を得ようとするのは難しいでしょう。
例えば、借金がかなりあり、明日までにすぐ返さないと大変なことになる、何とかできないか?という問いでタロットを引いても、なかなか実際的な回答を得ることは厳しいと思います。
これは極端な例でしたが、必ずしも、お金に関することではなくても、現実的で切迫した問題の場合は、タロットを引くより、やるべきことが先にある、ほかにあるということが常識的に言えます。
さて、昔と今とでは、かなり文明の発達度合い、生活環境も大きく変わっています。便利な道具・機器、コミュニケーション・移動のツールも、格段に進化、増えている状態です。精度やスピードも昔とは次元の違うレベルになっています。
そして、それに伴い、人々の理解や情報の扱いも濃密で大量になり、かつては未知だったもの、奥義や神秘だったものも、今や常識となったり、誰でも理解できるレベルになったりしています。
例えば占いにおいても諸説ありますが、占いができたり、活用されたりした背景のひとつには、今のような科学的機器やツールがなく、あるいはあっても精度が悪かったため、占うことで、情報の正確さを上げようとしていたことがあります。
ということは、逆に言えば、もう占いや、そのようなツール・技術で情報を得ようとする分野は、現代ではかなり縮小されていると考えていいわけです。
では現代において、何を占ったり、タロットでリーディングすればよいのか?です。
これも、いろいろと考え方はあると思いますが、ひとつには、情報の取得そのもの(回答そのものを得ること)を目的とするよりも、情報の確認、念押し、または、違う観点からの見方を得るために活用する(タロットで見る)ということです。
この時代にあって、情報はあふれかえっており、しかもネット検索もあるように、ほとんどのことは調べればわかります。
しかし、それでも私たちは安心したり、確認したりするために、別の何かを知りたがります。それが、いわゆる運命とか、見えないつながりとか、相手の気持ち、自分の様々な心とかになっってくるわけです。
また、自分で調べて、確かにわからないことの情報は得たものの、今一つ、腑に落ちない、気持ちが納得しない、誰かや何かに後押ししてほしい、同意を得たいという状態があります。
情報が氾濫しているだけに、選択にもかえって困り、回答がまるで選び放題であったり、逆に正しいとわかっていても、自分がそれを選択してもよいのかどうか、自分以外、常識以外のものからお墨付きもしてほしいわけです。
君は、あなたは正しい、それで行け!みたいな後押しがほしいのです。いわば、自分の選択の整理、確認、念押しです。
ということは、タロットで見るものとは、本質的には心の問題が大半だということです。
人の心模様、動き方、反応の仕方は、喜怒哀楽と言われるように、昔も今も同じです。
このことは、私のことで言えば、民俗学をやっていた時に、昔と今の暮らしを調べていて、結局、環境が違うだけで、人々の意識の状態・パターンは同じだと実感したことでも言えます。(情報と知識の度合いは違いますが、人としてはやはり反応は同じなのです)
ですから、タロットは、心の分野として、今も、おそらく未来(まったく意識構造が変化した場合は別ですが)も使えるものです。
占ったり、リーディングしたりする質問自体は、なるほど、なになにをいつ始めればよいのか?とか、好きな仕事で成功するにはどうすればよいか?など、現実的な問題・具体的問題であることも多いです。
しかし、結局のところ、科学的に回答を出すわけでもなく、本当にほしい答えは、いくら人が正しいと言っても、自分(クライアント・相談者)が納得するものでなければなりません。この「納得するもの」というのが、必ずしも、論理的・科学的ではないのです。つまりは、気持ちや心の問題なのです。
言い換えれば、タロットで出す答えは、万人に納得する客観的なデータとか、普遍的な数学的(誰がやっても、あるいは何度やっても同じ答えになるものの類の)回答ではなく、その人個人が気持ちで納得するものなのです。(他人が正しいというものも、自分の気持ちを納得させるひとつの手段となります)
と言ってしまえば、タロットにロジックも、何もまともなものはなく、思い込みの回答でいいということにもなりそうですが、実は、そうでもないのが、タロットの面白いところです。
タロットにもそれなりの論理・ロジックがあり、それは常識分野での科学とか論理とは違う種類のものなのです。(しかし、真には相通じるものでもあります)
だから、実は本人が納得すればいい、というだけの話でもないのです。
ややこしくなりましたが、基本は、タロットで見ることというのは、心を納得させるための一種の念押しや確認であり、それはいわゆる現実世界で求められる確固とした科学的・論理的答えではないものの、背景には霊的・神性的ともいえる論理(真理といっていいもの)が隠されており、それも作用することもあるのかタロット(の回答)というわけです。
前にも書いたように、タロットリーダー、タロットを扱い、タロットを活用する者には、タロットへの絶対的信頼が必要です。これは無理して信じるというようなものではなく、タロットを学び、使っていく中で、自然に出てくる信頼感です。
しかし、それは妄信や依存、文明進化の否定・後退、非科学への酔心というものでもないのです。
現代人として普通に常識で生きる部分も大切にし、それだけでは解決しない部分、納得いかない部分に対しては、特に見えない心の分野において、タロットという象徴ツールを使うことにより、心を意識化、健在化させ、問題の解決や癒し、整理に使っていくことができるのです。
このあたりをバランスよく、そして混乱させないように区別していくと、タロット(だけではなく、占い・心理・スピリチュアルの様々なツール、技術)もうまく活用していくことができるでしょう。
先生・師を持つか、持たないか。
前回の続きの記事ですが、厳密には同じテーマではありません。
前回は、いわゆる創始者とか発明者の立場・タイプと、それを受け継ぎ、一般に広める立場の人たちとの間では、発想も行動もタイプも違ってくるので、教え・教えられる関係性においても、そのことが考慮されるという話でした。
今日は、学び・教えの中で、先生や師のような人を持ったほうがいいのか、あるいは独学で学んで行ったり、技術を身につけて行ったりするのがいいのかということを、特にタロットの学習においてということで、取り上げたいと思います。
まず、ここにも、前回のテーマで語ったタイプ的な違い、立場的な違いによって言えることがあります。
従来のタロットや、すでに一般に売られていたり、流布したりしているタロットではなく、自分で創作するタロットを使って活動したいという人は、当たり前ですが、自分がオリジナルになるので、そもそも誰も学ぶ人がいません。いきなり自分が創始者・創造者になるわけで、つまりは最初から生徒ではなく、先生になる運命です。(笑)
ですが、こういう人でも、タロットのタの字も知らない段階では、創作しようにも、タロットカードというシステム(タロットカードという概念そのもの)の発想が知識としてもありませんので、タロットに接する機会は必要てす。言ってみれば、タロットは何か、どんなものかを知る機会です。
それが、ある先生から(知る)という場合もあれば、書籍やネットから知るということもあるでしょう。しかし、このようなタイプの人は、一時的に先生はいても、あくまで自分の発想のための刺激やきっかけに過ぎず、師という感じは持ちにくいでしょう。
従って、創造者タイプの人には先生や師は必要ないと言っても過言ではないですし、下手に自分の主義主張を押し付ける先生に当たれば、むしろ自分の良さを打ち消される弊害さえあるかもしれず、基本、独学の立場でよいのではないかと考えられます。
一方、これは言うまでもないことでしょうが、最初からきちんと順を踏んで教わりたい、その道(すでにあるタロット)の専門家に詳しく教えてもらいたいという人は、やはり、先生・師を持ったほうが学びやすいでしょう。
また、独学でやってきたものの、壁に当たってなかなか越えられなかったり、やればやるほど混沌としてきたりした人も、初心に戻り、基礎から専門の人に学び直すのも手です。
結局、自分だけではわからないところがあるから、壁にもなっているわけで、質問・疑問に答えてもらい、客観的目線で指導してもらえる人が必要となってきます。
次に、タロットの使う目的による観点です。
タロットを趣味や手軽な遊び的目的で使うだけなら、別に先生もいらないでしょう。カルチャーセンター程度の先生から学んでもいいですが、特に師事するとか、本格的に先生ついて教わっていくというのも、目的が異なりますから、先生を持つのはお金と時間の無駄になることもあります。
逆に、タロットを象徴ツールとして、深く学んでいきたい、自分や他者にタロットリーディングなどを行い、問題解決や人生のサポートをしたいという目的の場合は、やはり先生・師を持って学んだほうがいいかと思います。
また、タロットを通じて霊的成長を求める人、西洋魔法的な道に入る人は、最初は人間の師匠を持って、次には自分の高次の(人の次元とは異なる)師匠が現れると言います。
ただ、場合によっては、占い師で実践活動・営業活動したいという人は、必ずしも、タロットの先生を持つことがいいとは限りません。それは当てる才能や直感性が、教えられる類のものではないからです。(トレーニング方法はありますが)
これはカードとともに、自分の直感性・才能を磨いたほうがよく、それは人から教えられるより、自分のやり方のほうが合っていることもあるのです。
そして何よりも、基本がわかれば、実践をどんどんしていく中で、占い師としての蓄積と成果を上げて行くことで、自分の独自性・ウリが確立されるようになります。
先生の二番煎じとか、マネでは、その世界では売れないわけで、つまりは、強烈な個性、オリジナリティが求められ、それは前の記事のテーマでいう、「創始者・創造者」タイプに近くなってくるのです。
だから、先生に学んだとしても、こういう場での活躍を期待する人は、早く先生から離れたほうがいいこともあるのです。
しかしながら、カウンセリング的な方法で、特に心理分野にフォーカスしてタロットを使って相談する場合は、占い世界とはまた別になってきますので、こちらはカウンセラーへのスーパーバイザーが必要なように、先生から指導してもらえる環境があったほうが、自分を中立に見たり、また相談者として成長していくことの指針を与えてもらったりできます。
それから、将来的にタロットを教えたいという目的を持つ場合、これもいろいろと意見はあるとは思いますが、個人的には、先生・師がいたほうがいいと思っています。
その最大の理由は、先生としてのモデルがあるからということです。最悪、自分の学んだ先生に問題があったとしても、反面教師という言葉があるように、自分が教える立場になった時には、それを改善してよくすることもできます。
教えること、伝えることというのは、前にも書いたことがありますが、マルセイユタロットで言えば、「法皇」にあたるもので、タロットを読むのが「斎王」だとすれば、それぞれのカードが違うように、そのふたつには技術的にも精神的にも違いがあるのです。
いくら自分がタロットリーダーとしてよく読めるとか、実践経験を踏んできたと言っても、教える側、伝える側に回った時は、また別種のものが必要なことを痛感します。
そういう時、先生から教わってきたことを思い出し、先生はあのように教えていた、あのように指導していたと、モデリングすることによって、自分の教える道・方法を自ら作っていけるようになります。また先生によっては、教えることを教えてもらえる場合もあります。
アニメや実写化もされた競技かるたの漫画のシーンで、師匠のいない天才的な競技者を見て、ある先生が「師を持たない者は、誰の師にもなれない」とつぶやくものがあったのですが、先生・師のいない人、モデルのない人とは、まさにこれだと言えましょう。
天才型の人は、前の記事でも述べたように、独自のものを創設する力に満ちていますが、反面、それを伝えていくというのは苦手なところもありますし、破滅型として、無茶や特殊なことをやって終わってしまうこともあります。
しかし、こういう人においても、師があれば(いれば)、それなりにモデルや伝え方の方法がわかり、何とか、次代の人に継続して行ってもらえる可能性や、すばらしい弟子たちを作り上げる期待もでき、さらには、師から戒めとか愛を送られて、破滅から救われることもあるでしょう。
それから、先生が複数いるのがいいのか、一人の人のほうがいいのかですが、これもどちらがいいかは、一概には言えないと思います。
タロットにおいて考えると、知識(技術の知識も含む)を入れることをメインにすると、複数の先生でもいいと言いますか、そうなることが多いかと思います。
例えば、マルセイユタロットを知識的に探究したい、あらゆることを知りたいとなれば、Aさんというマルセイユタロットの講師から学び、Bというマルセイユタロットを教えている学校の先生から学び・・・ということも考えられます。
一人の先生だけではどうしても視野やパターンが同じになりますし、先生それぞれが独自の研究もされていて、発見や解釈もまた異なるものがあり、生徒としての立場からすれば、いろいろな方から学ぶことがで、知識として、より広くしていくことができます。
けれども、逆に言えば、統一的、段階的に学ぶことができず、バラバラな感じで散漫な状態にもなる危険性があり、知識はついたものの、実際には使えないとか、本質的には何もわかっていない状態となることもあります。
また先生によっては、他所で学ぶことを嫌がる人もいます。(それは感情的・ビジネス的なことで言っている人もいますが、論理的に統一性が取れないとを危惧している場合もあるでしょう)
その道の専門家で、しっかりとした先生であれば、その人のもとだけで学んでいても、十分なものは得られると思います。むしろ、混乱せずに済んで、ぶれなく学べ、よいこともあります。
ただ、あまりに先生・師を尊重し過ぎて、もはや崇拝の状態、心酔しきってしまうようでは、「悪魔」のカードでたとえられるような、依存や囚われの身と言えますから、それは危険でもあります。
「先生のおっしゃることはすべて正しい」「先生の言うことは絶対服従」「先生の指示・命令は必ず聞かなくてはならない」・・・みたいな状態です。
「そんなことには私はならない」と思っていても、意外に気が付かないまま、尊敬が崇拝になっていることがあるので、時に冷静に自分を振り返ってみることです。
先生から嫌われたくない(普通の感情以上に思う場合)、先生のグループから排除されるのは怖い・・・という感情が出てきている時は、すでに崇拝や依存の世界に入っていると見てください。(これは心理的には、先生を親やパートナーとして扱っている構造が隠されていることがあります、しかし段階的には、必ずしもそれも悪いわけではありません)
反対に、先生側がやたらと、これをしろ、あれをしろとか命令・強制してきたり、特に金銭的なものやセクシャル的なものを要求してくるような場合は、注意する必要があり、離れたほうがよいでしょう。
一言でいえば、先生・師に愛があるか、であり、支配や強制ではなく、成長や自由のためを思って生徒さんに接しているかになります。しかし、盲目の愛や、甘い言葉、慰め、耳によい言葉(だけ)ではなく、愛にも表裏の表現方法があり、自分にとって時には痛いことや、厳しさで表されることもあるのです。
そこに愛があるかは、受ける側の神性・魂なら判断できることで、間違いやすいのは、感情・心で判断し、結局、心地よいか悪いかで愛を見てしまうことに曲解のおそれがあります。
まあ、先生も人間ですので、感情もあれば、論理もあり、いい面・悪い面は必ずあるものです。そいうバランス性を大切にして、見ておくことでしょう。
それはともかく、普通はやはり、先生や師がいたほうがよく、反対に、早くから独立心があり、オリジナリティが問われる競争フィールドで活躍したいという人は、独学もよい場合があるということです。
マルセイユタロットの絵柄と象徴性で見ても、人の成長のルートとして、「法皇」や「隠者」が待ち構えていますので、先生・師を持つことの意味は、大きなものがあると考えられるのです。
