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タロットの「∞」と別時間

まず、お知らせです。

近いうちに、4月からのマルセイユタロット基礎講座の募集開始の告知をいたします。これは春と秋に行っている定期的なもので、今回春期は大阪で行います。関東圏では、東京で6月から始める予定で準備しております。本格的にマルセイユタロットを学びたい方は、どうぞ、この機会にご検討ください。

さて、このところ、ずいぶん前にタロットを教えていた生徒さんから連絡をいただくことが続いています。また、プライベートでも、本当に久しぶりの友人と再会したり、メール等でコンタクトがあったりするなどのことがありました。言わば、何かが蘇ったり、期間をおいて繰り返したりしてきていることの証です。

こういう時は、大きく変わる前触れのことがあります。そういえば、インフルエンザに今年罹患しましたが、3年前にも罹っており、その時も個人的には変動の時期で、こういうことがリンク・シンクロしていることを実感します。

そして、そのようなことを思っていますと、前にも書いたことがありますが、時間の進み方は直線(だけ)ではないこと、さらには、時間経緯に起こる事件(人生の出来事)も、単純に上重ねや直線的に増加していくようなものではないということが洞察されます。

それは、同じことの繰り返しだったり、大きなもの(スパン)と小さなものの反映だったり、二元的なものの対称性だったりするものです。

要するに、時間(それに付随する経験・記憶)は、過去・現在・未来にまっすぐ進んでいくと思っている以外の、別の「形」の時間があるということです。

その別の形とは、「円」と言ってもよいでしょう。

つまり、私たちには、時間や記憶を直接的に感じる自分と、円的に感じる自分とがいて、それがせめぎ合ったり、時々顔を覗かせたりして(特に「円」的なもののほうが)いるものと考えられます。

円的に時間を見た場合、繰り返し、対称性、繋がりという性質が見て取れます。

円のどこのポイント(点)を取っても、それと反対側の点の場所があり、それは自動的に対称性を持ちます。同時に、補完でもあります。

また、円周は点の集まりであり、中心点からコンパスで円を描くように、中心からの距離が等しい点が集合して線となりますが、ということは、それら(円周上の点)は、すべて中心点から見れば等しい関係(平等な関係)を持ちます。もし中心が自分の本質で、円周がその時々の出来事だとすれば、どれも自分にとっては等しいもの(意味)になります。

それから、円は始まりと終わりが、どこの(円周上の)点をとっても始まりであり、終わりであると言えるので、どこでも繰り返しが起きていると見ることも可能です。

私たちが、どこかで、このような円的な形として、時間と経験(記憶)を持っている(認識している)とすれば、それは直線的に見た場合の、過去・現在・未来とか、増える・減るという量的なものの概念が通じなく性質(世界)を持っていることがわかります。

マルセイユタロットでは、大アルカナの、ある何枚かのカードに「∞」の象徴図レムニスケー(ト)と呼ばれるものが描写されています。この象徴を持つカードたちは、重要な起点と終点的な意味を持ち、タロットの数の順番に従って配置しても、それがわかります。

ただ、同時に、数の順番は、「1,2,3,4,5・・・」という直線的なことを想像させるので、そのまま見れば、過去・現在・未来→と、まっすぐ進んでいく通常意識での成長、モノの増減というように映ります。

とろこが、先述した「∞」の象徴図を持つカードを、数の順番で置いた場合でも、特別な位置を占めるような並べ方ができるのです。

これはつまり、「∞」の象徴図を持つカードが、特別な位置になるような配置自体が、通常意識から離れ、円環的な時間や意識を表出するための図案になっているということなのです。

ですから、ただ単純に大アルカナを1番から21番まで直線的に並べたところで、直線的・常識的なものが表現されるだけで、タロットを現実的な観点で見てしまうことにもなるのです。

逆に言うと、私たちがなかなか普段は気づかない意識層時間の流れ(別の時間感覚)は、タロットの秘伝を受け継いだり、特殊な配置をしたり、象徴の極意に気づいたりすることなどによって、自分の前に現れることにもなります。

それ(現れるもの)は言ってしまえば、霊的な階層であり、肉体感覚と現実時空に縛られた状態では見えてこない、感じられないものなのでしょう。(しかし縛られることは、地上で人間として生きる上で大切でもあります)

普通の時間の世界では、時間経過とともに衰えや変化があります。ひとつひとつのものが変化している、動いているように見えていると言ってもいいでしょう。言わばアニメーションの世界です。

一方特殊な時間の世界は、アニメーションで言えば、ひとつひとつの絵(セル)が並行的に置かれている状態とでも言いましょうか。

その状態は、換言すれば、「永遠」「不変」に近いものです。

その不変的なものに変化を起こすには、アニメーションで言えば、意図(ストーリー)をもとに、ひとつひとつの絵を撮影し、連続して見た時です。つまり、過去・現在・未来のような設定(意図)をして、つなげた時に、ひとつの物語のようになるわけです。

現実時間の設定がストーリーや面白さを生むのは、こうした理由から当然だと思いますが、それらに囚われすぎると、真の永遠なるもの、高次の世界、イデアを把握することは難しくなるのかもしれません。

別時間を感覚(認識)化する方法は、別の自分や別の素材(状態)の世界を認識することと同意の部分もあり、おそらく古代の密儀修行体系では必須だったと感じます。

オーラやエーテル体の実感から始まる修行も、そういったところと関係しているでしょう。タロットにも、そうしたもののツールという側面があるものと考えられるのです。

 


タロットへの向き不向きと壁。

タロットの(タロットを読んだり、扱ったりする)才能や、タロットに対する向き不向きについて、受講生の間で話題になることがあります。

たいてい、皆さん、「私には才能がない」「タロットに向いていない」と言われるのですね。(笑)

まあ、自分自身で「自分は特別なタロットの才能がある」「自分はタロットに向いている」と言っている人は、ほとんど聞いたことがないですから、安心していただきたいと思います。たいていは、他人が言ってくれるものです。

そして、受講生でも、どういう時に「向いていない」とか、「才能がない」と嘆くのかと言えば、タロットリーディングの壁にぶつかった時リーディングがなかなかスムースに行かない時です。

普通に考えればわかりますが、何事においても、障壁や停滞もなく、スーと上達していくことはありません。

どんな天才の方でも、高みを目指すとなれば、一度は壁にぶつかったり、進化がないと思うことがあるはずです。

むしろ、壁に当たった時というのは、裏を返せば、今までその壁の存在・レベルさえ気づいていなかったわけですから、そこまで到達した証でもあるのです。

タロット、特にタロットリーディングにおいて、私の経験から言わせていただければ、リーディングが上達・進化・発展する際には、以下のようなことが現れやすいかと思います。

 

●壁や限界を感じる

これは先述の「壁」にぶち当たったように感じる状態です。ひどい時には、さきほど述べたように、「自分はタロットには向いていない」「やめよう」と思うこともあります。

しかし、これもすでに説明したように、その時点での知識と技術、感性に限界が見えた時であり、またこれまで積み重ねて来たものが開花したり、ブレイクしたりする直前状態とも言えます。言い換えれば、変容する前の停滞・準備です。タロットで言えば、「吊るし」の状態です。

ここで何とか踏みとどまり、苦しいけれども、タロット(リーディング)を継続していくことにブレイクのチャンスも訪れます。

また、この状態の人で、一時的にはタロットから離れてもよいこともあります。一種の気分転換・リセットをすることで、急にアイデアや覚醒が起こることもあるからです。精神が疲弊すると、その回復自体に時間を要しますので、思いきってタロットからしばらく離れてみるのも一案です。

 

●これまでのやり方が通じない、積み上げたものが崩壊した感じがする

この状態は、壁に当たるようなものよりも、さらに深いものです。言わば、大変革の前触れです。

壁に当たったと感じるものは、小さな段階別の障壁と言ってよく、これはこれで大変ではありますが、まだましなほうなのです。その段階でタロットから離れても、また戻ってくる可能性も高く、戻ってきたら、案外、またスムースに続けられる場合も多いのです。

しかし、この、「すべてが通じない」「もう終わり」「ガラガラと崩れてしまった・・・」という大きな衝撃を感じる状態の時は、とても強烈なものであり、完全にタロットから離れてしまう危険性が大です。タロットから離れるというより、自分自身や人生に対しての疑問や喪失という感じさえあります。

私は二度ほど、これを経験しております。もうこの時は、本当に大変でした。信頼していたものが何だったのか、自分のやってきたことは間違っていて、すべてが空しいと感じるほどでした。

何とか、この衝撃的体験、奈落に落ちるような境地を越えると、回復、いや回復というより、死からの再生(蘇生、新しい命が宿る)というイメージで復活します。タロットで言うと、「審判」でしょうか。

この時、ステージというものが明らかに変わり、リーディングは別物として、新たなものが出現します。一見、やっていることは同じでも、質が違うという状態です。これは実は、大きな喜びでもあります。

 

●困難なケースやクライアントが現れる

ボランティア、プロ問わず、他人に対して、本格的に相談・タロットリーディングをしていると、ある時、とても難しいケースのクライアントに出会うようになります。

こうした場合、普通に今までのタロットリーディングをしているだけではなかなかうまく行かず、途方に暮れるような状態にタロットリーダーがなります。

結局、うまくリーディングできず、自分のふがいなさや、クライアントに満足なものが提供できなかったことを悔やみます。それでも、自分はどうすれば良かったのかがわからない・・・と言った状態です。

これもひとつの壁に当たった状況と言えましょう。この場合は、特にクライアント側から知らせてもらえるという「お告げ」のような形です。「新しいリーデイングスタイル・レベルになる時ですよ」という意味とも考えられます。クライアントは、そのために現れたメッセンジャーとも言えます。

 

●直感と知識の間で葛藤が起きる

これは女性のタロットリーダーに多いのですが、タロットに対して、自分の直感性で得た情報と、学習して身につけた知識からの情報とが、自分の中で対立するかのように感じ、今まで読めていたものが、固まってしまったようになって、うまく読めなくなってしまうというケースがあります。

慣用的な言い方をすれば、右脳と左脳の対立、また、女性性と男性性との葛藤とも言えます。

女性はもともと巫女性と言いますか、直感が開かれている方が多く、むしろ、何も知識がなかった時のほうが、その直感力でタロットを感覚的に読み取っていた(情報をチャネリングしていた)のですが、知識が入ることで、左脳的な論理性や整合性を求めるようになり、それは、右脳的とも言える直感性での合理とは異なるものなので、対立してしまうようになるという仕組みです。

これとは逆に、本来ある直感力を封印していたり、閉じてしまっていたりして、男性的・論理的に生きてきた女性が、タロットと接することで、女性性や右脳的なものが開かれつつあることで、その過程でフリーズや葛藤を起こすという場合もあります。

男性の場合は、タロットの知識を得ることで左脳的な論理性を上げられるので、タロットを知識的に読むことができ、つまりは、男性としてはタロットに対して、とっかかりができやすく(アプローチがしやすく)なり、リーデイングがスムースになる場合があるのです。(しかし、やがてその読み方に限界が来ますが)

どちらにしても、自分の中の女性性・男性性の統合のテーマが、タロットリーディングを通して現れているとも言え、それぞれ、逆の性を受け入れつつも、何よりも、自分の性をもっと受容することで、この不協和音状態を克服していくことができるでしょう。やはり、これもひとつの「壁」です。

 

まあ、いろいろと壁や一時的な限界は、誰にでも訪れるものですが、タロットに向いている・向いていないで言えば、つまるところ、タロットが好きかどうかという点に尽きるのではないかと思います。

本当にタロットに向いていない人は、そもそもタロットに出会うこともなければ、たとえ出会っても、タロットを勉強しようと思ったり、使おうと思ったりはしないものです。

あなたがいまだタロットに関わっているのなら、それは向いている証拠です。

そして、あなたがタロットが好きなのであれば、必ずタロットはあなたに、タロット的な表現で、応えて(答えて)くれるものなのです。

 


タロットとお金の話

私は自分で言うのも何ですが、お金儲けが苦手です。(苦笑)

心理系・スピリチュアル系の人の言い方を借りれば、おそらく「お金に対するブロック」や、「お金に関するよくない思い・心のデータ」のようなものがあるのでしょう。まあ、個人的にはそのブロックも、決して悪いことばかりではないと考えていますが。

人にはタイプや性格のようなものがあり、私自身はどうも学者や清貧な(笑)聖職者・宗教家タイプみたいなところがありますので、どうしても、お金を稼ぐというのには、ストレートになり切れないところがあります。

さて、そんな私でも、一応、タロットによるスモールビジネスを行っているわけなので、まったくお金に無縁に生きられるものでは当然なく、むしろ、もっと真剣に考えないといけない立場でもあります。

それゆえ、以前はお金に対する研究や学びも行っていました。しかしそもそも、その態度自体がすでに「学者」タイプであることをに如実に物語っているのであり(笑)、ビジネスマンなら、勉強も大事ですが、何より、どんどん行動していくのが普通です。

さて、そうしたお金の学びの中で、いろいろと気づいてきたこともありました。

まず、お金による豊かさを追求するには、物質的アプローチと精神的アプローチとがあると思います。

物質的アプローチとは、お金やモノへの投資をしたり、モノや知識を商売したりなどし、文字通り、物質・モノにフォーカスしてお金を増やす(動かす)方法です。

一方、精神的アプローチは、そのまま「精神」に焦点を当て、前述したような、お金に対する自分の(ネガティブな)思い込み、ブロックを解除したり、お金に対すアンバランスな気持ちを調整したりして、また時には自分自身を洗脳までして、お金を稼ぐことに積極的に取り組める気持ちにさせるというものです。

物質的アプローチをしていく中で、自然に精神的なブロックがはずれる場合もあれば、精神的アプローチによって、心の中のお金の思いを変えないと、何を行っても、実際に効果がないという人もいます。

もちろん、両方のアプローチを同時進行していくと、より効果的になるという人もあるでしょう。

ところで、タロットでお金を得るというテーマで見た場合、どのようなケースが考えられるでしょうか?

第一にイメージできるのは、タロット占い師での成功パターンでしょう。

あとはタロットを教える講師とか、タロットをほかの技術と組み合わせたり、メニューに加えたりして、人様の相談援助をするビジネスに用いるということや、タロットカードなどカードそのものを(仕入れて)販売するということも考えられます。

いずれにしても、ボランティアや低額の報酬を得るような趣味レベルではなく、ビジネスとしての利益を出すことが求められます。

ということは、結局、お客さんや顧客を集める「集客」という技術(知識)と実践が、タロットからお金を生み出す(お金に換える)ためには大事だということがわかります。

お金はタロット自体がコインやお札に変わるものでもありませんし、虚空から出現するものでもなく、お客さん、人が運んでくれる(買ってくれて来る)ものだからです。当たり前のことですが。(笑)

いくらタロットのことを理解している、知識がある、読める技術があると言っても、お客さんに来てもらう営業努力や行動を起こしていないと、お金は来ません(運ばれません)。

お金はエネルギーという人もいますが、もしエネルギーという表現をするにしても、実際には、お金は目に見える物質ですから、(抽象的な)エネルギーを物質化すること、物質(お金)に交換することが行われなくては、自分のもとにお金を出現させることはできません。

労働で賃金を得るという行為も、結局、労働のエネルギーが、給料というお金に変化しているわけです。

何が言いたいかと言えば、抽象的なことに留まっていたり、思考や感情が、形・物質としてまだなっていない状態のままだったりすれば、お金という物質にはならない(それはお金ではまだない)という至極単純なことです。

要するに、お金へ変換する技術・システムを、間にはさまないといけないわけです。

思いや知識だけでお金が来ないのは、まず当たり前の話として、お金に換える努力や行為、システムがないからと言えます。

次に、お金にしやすいタロットが活用できるフィールドというものがあります。

それは、より現実的であるフィールドということです。

スピリチュアルな観点では、現実的=物質的と言え、それだけお金に換えやすい状態の世界(次元)があるのです。一方、精神や高次の霊的な世界となりますと、物質に下降していく(固めていく)のに、次元の変換を何度か行う必要があります。

ではタロットを使う場合で、より現実的なフィールドとはどこか?と言えば、人々の生身の思いが色濃い(言い換えれば人間的な思いが渦巻く)場所であり、平たくいえば、今のところで言えば、占いの(学問的な占いではなく、実際の相談の場としての占いの)世界です。

ここでは現実的な悩みをもって相談に来る人たちがたくさんいます。現実的であるからこそ、お金や物質の世界とも近くなります。

ちょっと悪い表現をあえてすれば、「お金を払ってでも解決したい」「お金を払うから何とかしてほしい」と思っている人が来る世界ということです。

ゆえに、(プロの)タロット占い師になると、お金が入りやすくなります。

ただし、たくさん入る(稼げる)かは、腕次第、あるいは、この人にお金を払ってでも占ってもらいたいと思わせる技術・魅力(それは個性・他者との差異と言ってもいいです)があればになりますし、集客技術はまた別の話です。

つまり、手っ取り早く、タロットからお金を生み出したければ、すぐにお金が動く世界で活用すればよく、とはいえ、その(入るお金の)量を多くさせるには、やはりそれなりの違いを生み出したり、単価や数を増やしたりする必要があるということです。

一方、こうした占い・現実次元とは違うレベルでのお客さんを相手にする(タロットを活用した)ビジネスももちろんありますが、長くなりますので、それはまた別の機会にお話しします。

少しだけ言っておくと、どのレベルにおいても、バランスやルールはそのレベルにおいて存在し、占いや現実、生身次元の相談を超えたところにフォーカスしたタロットによるビジネスとなりますと、供給・提供側もそれなりのレベルになっておくことが求められますし、どんどんサービスや内容が抽象的にもなってきますので、詐欺や幻想でだまされる(だます)世界見分けがつかなくなってくる危険性もあります。

ともかくも、タロットに限らず、お金を稼ぎたいという人は、今の(経済社会)世界においては、人間の感情・欲求を見て、生身や本音、現実次元の世界に焦点を合わせておくことも大事かと思います。


牢獄のおとぎ話

今回はおとぎ話風の話をします。マルセイユタロットとも関係する話です。

内容については、正しいか間違いかの考えで判断しようとすると混乱するかもしれませんので、本当に、おとぎ話、そんな話もあるのね、くらいの感じで読んでいただければいいかと思います。

それでも、この話を読んで、もしかすると、楽になったり、共感を覚えたりする人もいるかもしれませんし、反対に反感や違和感を覚える人もいるかもですが、それもまた人それぞれで、どれが正解というものでもありません。

さて、この世の中について、皆さんはどのように感じていらっしゃいますか?

今幸せな人は、すばらしい世界、生きいてよかったと心から思える世界かもしれません。反対に、不幸でつらい状況にある人は、まさに地獄のような世界と感じていらっしゃるでしょう。

それは、個人ベース(の状況や感情)で見た世界と言えましょう。

では客観的に、世間のニュースや、自分以外のこと(社会や国、世界規模)で、これまで起こってきたことを思い返してみるとどうでしょうか?

よいこともたくさんありますが、どちらかと言えば、理不尽なこと、悲惨なこと、納得できないことのほうが多いのではないでしょうか。

もっとも、報道されることは「事件」であることがほとんどなので、その事件も、よいニュースよりも、悪いことのほうが非日常感・インパクトがありますから、マスコミやネットから流される情報は、ネガティブな世界をイメージさせてしまうこともあると思います。

しかしながら、世界はすべての面で完璧であるとは言い難いところがあるのも確かです。

ということで、仮にこの世界がすばらしい天国のような世界ではなく、逆に「牢獄」のようなところだと仮定してみます。(思いきっりネガティブですが・・・)

言わば、この世界は地獄のようなところだとする説です。そしてここからは、実際の私たちの世界というより、おとぎ話的に、ある架空の世界の話だと読んでいただければいいかと思います。

さて、この世界は牢獄の世界だとしても、実は、ほとんどの人は牢獄に入れられている自覚がない状態です。

牢獄は巨大な牢の中であり、一見したところ、自分が牢屋に入っていることなどわからず、むしろ自由に選択も可能な、広々とした、無限の可能性に満ちた世界だと錯覚しています。

事実、一応、牢獄といえど、モノにあふれ、囚人たちも生産しており、それらが流通もしています。そしてその流通をさらにスムースにするため、牢獄内だけに通じる価値券(お金)のようなものがあり、それを集めること、たくさん持ったものが、牢屋内で強い権力を持ちます。

とはいえ、価値あるモノを生産する技術をもっている人、発見した人も、それなりに尊敬されることになります。

こうした牢獄内で人々は暮らし、喜怒哀楽の感情を味わいながら、暮らしています。

ところで、自分が牢獄内にいることに気づく人も、ある日現れます。よく見ると、自分の住んでいる世界の果て(限界)に、格子や壁があることを発見したわけです。

自分が牢獄にいることに気づいた人は、それはそれは大層衝撃的な出来事だったわけですが、しかしながら、どうあがこうと、自分が外に出られないことも同時に理解しました。格子が非常に堅牢・強力なうえに、牢獄を監視してる牢番たちもいたからです。

そこで、今度は逆に、牢番とコミュニケーションし、牢屋内における自分の地位の向上、便宜を図ってもらうため、牢番と交渉するようになりました。

牢番もなぜか、そういう囚人たちを特別扱いし、いろいろと道具とか知恵を格子越しに与えました。しかし、牢屋から出ることだけは絶対に許さず、その話をすると、はぐらかされます。

実は、かつて牢屋の中は、モノもあまりなく、生産する設備や、さらにはモノを交換する券などもなかった時代がありましたが、牢番の介入により、次第に便利な道具が牢獄内にもたらされるようになり、牢獄内でのよい生活が営まれるように、様々な知恵も提供されていたのです。

その結果が、今の牢獄内の人々(囚人)の(便利な)暮らしでした。

牢獄内を自覚しながらも、牢番との癒着で自分たちを特別な存在にしている者(特別囚人)たちは、牢獄から出られないことはわかっているので、この権力や地位が脅かされないよう、世界(牢獄)の格子を隠し、限界に近づかせないように施しました。

こうして、牢獄内の多くの人々は囚人としての自覚はないものの、一応、モノと牢獄内での自由が許される世界で、それなりに過ごしていくことになったわけです。

ただし、やはり牢獄であるので、理不尽なこと、ひどいことも起きます。この中では争いや奪い合い、時には殺し合いさえも起き、価値券を得るために、何でもOKの人も出ています。

中にはそれが嫌で、平和運動をしたり、人々の調和を訴えたり、広い牢獄内で隠遁のような生活(引きこもり)を送ったりする人もいますが、どこに逃げようと、何をしようと、結局は牢獄内の中の話となります。

一方、普通の人(囚人)は、牢獄にいる自覚はないので、この世界こそすべてだと思い、人々は牢獄内で幸せを感じるための勉強をしたり、技術を磨いたり、成功を収めようと努力したりします。

それらすべては、牢獄内の生活をエンジョイしたり、充実したり、安心させるための手段・技術・知識となっています。

こうした牢獄内の成功のための知識や技術の売り買い(価値券によってなされる)もさかんです。また精神的なことでも、牢獄内(自覚はなく)で、いかに安らかに過ごすかのテーマで語る人もいます。

さらには、「神」という概念を入れることで、牢獄内が神による恩寵の場所神より与え賜れた場所として、牢獄であることをますます忘れさせられるようになります。

さて、かつて牢獄内の果てまで冒険し、この世界が牢屋であり、中の人は、自分も含めて囚人であったと気づいた人々の内には、さきほどのように、牢獄の支配層を目指す者と、牢獄の実態を一般の囚人であるほかの皆にも教えようとする者とがいました。

後者は牢獄からの脱出(脱獄)をあきらめておらず、何らかの方法はあるはずと探求を続けていく一派となります。

前者は、そんなこと(脱獄)は無駄なので、むしろ牢番と同調し、現実を見て牢獄の中の暮らしを充実させたほうがよいという一派になります。(この中にも、支配層になる自己中心的な派と、とにかく牢獄内の生活(一般の人々の暮らし)をもっといいものにするため、牢番からの情報を利用しようとする他者貢献的な派などが出ます)

おそるべきことに、囚人は死んでも、牢獄から出されることはなく、魂も再び、牢獄内に転生してくる構造となっています。中には一部、牢番に転生する者もあるという話ですが・・・

果たして、牢屋とは何なのか? 牢番とは何者なのか? そして、この牢獄はなぜ作られており、囚人たちはどうして囚人なのか? なぜ、牢獄内がこれほどまでに自由で、モノが多様にあることを許されているのか?

脱獄は許されないのに、牢番が牢獄ライフをよくするために、知恵や技術を一部貸してくれるのはなぜか? 仮に脱獄すれば何が待っているのか? 牢獄(牢屋)を脱出しても、また新たな壁が現れるのではないか? 囚人たちの真の自由とはどのような状態なのか? 囚人(無知)でいることのほうが幸せではないのか?・・・など、

このおとぎ話には、いろいろ考えさせられることがあるのではないかと思います。

牢獄に天国と地獄があるのか、はたまた牢獄外にあるのかも、想像してみると面白いでしょう。

 


すべては真実、すべては嘘と見ると・・・

マルセイユタロットの図像を見ていると、これまで蓄積したり、信頼してきたものをバッサリ切り落としたり、疑ったりするような内容と思えるカードがあります。

図像を並べていくと、それが一連のストーリー、流れの中でのポイントとなっていることがわかります。

このことは、現実的な意味においても、なかなか重要な示唆があるのではないかと思います、

私たちは信じているものがあるからこそ、前向きに、ポジティブに、あるいは信念を持って生きていけると言えます。

しかし、その信じていたもの(者ということもあります)が嘘であるとわかったり、それほど全面的に信用できるものではないとわかったり、今までの経験がまるで役に立たない事態に遭遇したりすると、かなりのショックを受けます。

中には人生が終わったかのような、何もかも信じられない気持ち、すべて投げやりになってしまう人もあるかもしれません。

しかし、考え方によっては、このことも興味深いことになるのです。

ここでもし、すべては嘘であるか、すべては真実であるか、または、すべては虚偽と真実が織り混ざったものか、そのうちのどれかが世界であると見ていくと、意外に納得できるものになってきます。

このうち、ちょっとした悟り感と言いますか、一見わかった風なものですと、一番最後の、いろいろなものが混ざったのがこの世界であるという認識が出るのかもしれません。

実は、「間(あいだ)を取る」とか、「中間で落としどころにしておく」というのは、何でも無難に説明できたり、時には逃げの理屈にも使えたりするものでもあります。(笑)

だいたいにおいて、「極端」というのは間違っていたり、バランスを欠いたりしたものとして非難されがちです。

それでも、ここでは、あえて「極端説」を採ってみましょう。

すなわち、すべては嘘の世界と見るか、すべては真実の世界と見るか、です。

この両方は、まったくお互いに逆説となりますが、実は、反転して同じものと考えることも可能です。

それは、「すべてが嘘という意味での真実の世界」「すべてが真実であるというように見せかけている嘘の世界」という言い方をすれば、少しわかってくるのではないでしょうか。

すべてが真実だとすれば、一人一人、そしてあなた自身が思ったり、考えたりしたことはすべて事実であり、真実だとなります。しかし、真実ではあるのですが、その考えたこと・思ったことに疑いを持つこともまた真実になります。

要するに、あなたの思い(思うという行為)が真実であり、思った内容自体は飾り・演出・題材でしかないという考えです。となると、演出の元そのものが本当の真実であり、私たちの経験している世界自体は嘘も真実もないということになります。

ただし、私たちの(見たり、経験したりしている)世界が演出上のものだとすると、演出された中の世界では真実とか嘘はあってもおかしくはないです。

わかりやすく言えば、映画やドラマのストーリーの中では、嘘もあれば真実もあるということです。

よく探偵ものとかでは、最初は嘘の証言とか誤解の目撃談とかがあって、探偵が調査と思考を巡らせて、真実や真犯人がわかるというようなストーリーになっていますが、この探偵ものの世界(ストーリー)の中では、確かに真実と嘘が明確に存在しています。

しかし、その物語を見てる私たちのほうでは、物語の中の真実や嘘が何であろうが、関係はありませんし、嘘も真実もないと言えます。

そして、ここからがまた面白いのですが、そうは言っても、物語の中で嘘と真実が分かれていないと、見ている側は面白くありませんし、物語を楽しむ(ドキドキする)意味では、物語の中の嘘も真実も、見ている者に影響は与えています。

まあ、嘘なのか真実なのかわからないストーリーというのも、それはそれで面白いのですが、どちらにしても、嘘であれ真(まこと)であれ、「これはいったいどういうことだろう?」とか「これは嘘だったのか!」とか、「うわ、真実はこれか!」みたいな心の動き・反応があるのは、見ている側にあるのは確かです。

つまりは物語の真実・嘘などを確かめるより、見ている側のほうに感情の動き、思考を巡らす動き、それらが起こることが重要なのではないかという洞察です。

大元の真実はもともとありつつも、それそのものの(大元の)世界にいることは、すでにすべで真実の世界なので疑いようもなく、ただ純粋にひとつのものだけになると考えられます。

しかし、大元から演出された物語の世界では、一人一人においても、また信じること(内容)も、考えること・感じることの違いによって、虚実が次々と変転していきます。

言わば、本当の真理と物語上の真実(嘘も含む)は別物だということです。

ここに、私たちが現実世界で生きる意味、私たちがこの(現実の)世界に浸かる(経験する、楽しむ、喜怒哀楽を味わうことの)意味があるのだと考えられますし、同時に、この世界を対象として真理を見ようとしても、物語や個人的な真理にたどり着くだけであって、それは大元の真理ではないということになります。

ということは、いくら探究を自分の(この世界の対象とするだけの)経験からしていこうとしても、グルグルと演出の中で回り続けることになります。(マルセイユタロットの「運命の輪」が象徴的です)

だから、この世界を対象としない、さらに現実を超えた思考、感覚が真理の探究では求められます。しかし、それは、そういうことを望む人に言えることであり、普通は、この演出の世界を楽しむことのほうが重要になってくるのかもしれません。

それで、最初に戻りますが、私たちが信用していたもの、信じて疑わなかったもの、または逆に、とても疑わしいと思っていたもの、嘘だと信じていたものから反転(逆転)するような認識に至ることがあった場合、それは二元の統合のチャンス、もしくは演出された世界のルールに、ほころびや穴を発見することにつながるかと想像されます。

つまりは、大ショックな価値転換があることは、真理到達の意味では大きな恩恵になるのではないかということです。

マルセイユタロットでも、大きな変革を示唆するカードたちは、そのようなポイント(の位置)に登場します。

そして、私たちは、大元の真理と、演出された世界の真理(ルール)とを見分ける能力、それぞれを感じとる力があるものと推測されます。

別の言い方をすれば、認識レベルの違いによる複数の自分がいるということです。

従って、どのレベルに主にフォーカス・同調しているかによって、真理や正しさの意味は異なってくることになるでしょう。

通常はなかなかのその違いを自覚することも困難かと思いますが、混同・混沌から、まずは分離を始め、やがて再統合をしていくことが道筋となります。まさに、錬金術で言われるところの、「解体して統合せよ」なのです。


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