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運命が決められているという考え

人間の人生(一生)の仕組みを知ろうと努めていくと、やがて陥ってくるのが虚無感のような、ニヒリストのような、空しさ、投げやりな気持ちかもしれません。

人は物心がついてきますと、自分というものを強く認識するようになります。

幼く、まだ未熟な状態では、せいぜい母親とか父親、兄弟、家族、自分に関わる周囲の人たちとの区別がぼんやりつくくらいだったものが、学校へ行き出し、多くの他人と接する世界に放り込まれると、自我(自分を意識する心)の成長(発達)とともに、その分、他人との違いも意識されるようになります。

すると、「どうも人はまったく同じではない」「不平等な存在(一人一人違うもの)だ」ということが、現実的にわかってきます。

すごく運動神経がいい子もいれば、頭がよくて勉強のできる子がいる、お金持ちの裕福な家庭に育っている子もあれば、とても貧しい家の子もいる・・・すでに学校時代から様々な違い、もっといえば不公平感を味わうわけです。

だからこそ、逆に学校の先生たちの言葉や、理想的な教育論では、「人間誰しも平等」ということを強調します。

そして、さらに成長していくと、学校から社会に出ます。

そこでは、さらに過酷な不平等感を経験しますが、成熟していくことで、平等の意味合いも変わり、権利の平等性と生得的な区別(差異)との理解も増し、きちんと両者を分けて考えることができるようになります。(残念ながら、この区別が、まだついていない大人たちもいますが)

ここまでは、常識的な範囲内での「差異」とか「平等」への意識(への成長)なのですが、もっと人間について見ていこうとすると、目に見えない領域や、魂のことまで考えるようになってきます。

そこで、正しいかどうかは別としても、輪廻転生(それに付随するカルマ)のことや、前世や未来世、つまり一代限りの「自己」を超えたものを意識するようになるケースがあります。

こうして、現実的な意味での人間の一生を、通常の時空感覚(の意味)からだけではなく、超時空的な長期的・全体的視野を入れるようになりますと、果たして、人の平等性や違いというものは、本当はどういう仕組みや規則で決められているのか、わからなくなってきます。

そこで、卑近な例でいえば、人の運命とか生まれ持った気質などを(占い、その他の理論から)学ぼうとする人もいるわけで、そこから見れば、やはり人は生まれながらにして平等ではなく、あらかじめ決められた個性をもって生まれてきており、しかもそれを背負いながら一生を過ごしていくということを知ります。(何度も言いますが、それが正しいかどうかはわかりませんが)

人の生まれながらの性質を知れば(それがわかる技法を身につければ)、最初のうちは興奮し、まるで自分と他人の人生(一生)や、成功(人生における幸せ)のポイントがわかったかのようになって、勝利宣言をするような自信を持つ人も現れます。また、実際に、そういうコツをつかみ、その人の思う、よい人生をつかんでいく人もいるかもしれません。

しかし、さらに学びと実践を繰り返していくと、どうも、理論だけでは済まない(収まらない)事象、さらには運命とかカルマの問題だけでは理解できない部分も出てきます。

あるいは、逆に、人の一生は、最初から決められており、その運命(宿命)からは逃れることはできないと悟ってくることもあります。

ここでいう、「運命から逃れられない」というのは、自由意志と、ある程度の選択範囲を持ちつつも、大きな枠のような流れ(方向性・目的)には逆らえないということを意味しています。もっと別の言い方をすれば、今生で決めた大目的をはずれた選択はできないということです。

マルセイユタロットでこのことを考えた場合、「運命の輪」の輪から逃れられないのが普通であると言ってもよいでしょう。

「運命の輪」は数の上では10であり、この10には数秘的には12に至る前の、現実の構成の完成という象徴性があり、平たく言えば、現実からの支配は10の中にあると表現されるものです。

これをネガティブにとらえれば、結局、人は決められた運命の中でしか過ごすことができない、それがひとりの人間の人生だとなります。

※(ただし、決められた中でなら、選択の自由性・平等性・多様性はあります)

この認識に至ると、一番最初に記したように、空しさも現れてくるわけです。「どうせ、人生は決められているのよね」と。

私もこのにはまりました。グノーシスを探求している者にとっても、陥りやすい罠です。

この罠から今もって完全に脱出しているとは言い難いですが、けれども、これは罠でありつつ、実は恩恵でもあるのだと気がついてきました。

マルセイユタロットでは、幸いにして、10「運命の輪」の次にも、まだまだカードが番号的に続きを示しています。大アルカナで言っても、やっと半分なのです。

ということは、先(進化・さらなる認識のレベル)はあると言えます。

つまり、運命の支配を超える道があるわけです。それはまさに完全なる自由への道と言っていいでしょう。

これが一代の人生で達成できるのか難しいかもしれませんが、少なくとも、運命や決められたことだけではない世界があるのは希望でもあります。

しかし厳しい言い方をすれば、そういう世界観は現実離れしているものであり、さきほど述べたように現実を象徴する「10」を超えてしまうと、それは遊離、非現実、形のない精神や霊の世界に入ることとも考えられます。

それは現実的な意味で幸せといえるのか? 目指すべきものなのか?と問われれば、難しいところではあります。妄想と紙一重かもしれないのです。

ともあれ、人にとって(運命が)決められている(決めている)ということならば、その意味ではまさしく人は平等なのです。

しかし、決めたこと、決められている内容が一人一人違うと言えます。平等な中でも差異があり、それが個性となって表れ、さらには、「運命の輪」の中での自由選択と行動によって、(輪の中の)結果も違った人生になるでしょう。

それでも、輪の中を充実させることが、先に進む糧になるのだと考えることも、タロット的に可能なのです。ここでは詳しく言いませんが、私が得たタロットからの知見では、そう説明されるのです。

それを知った時、虚無感は少なくなり、今、この生きている人生が大事であることを、別の意味で悟ってきます。虚無感を受け入れながら、希望を見出す世界へと、さらに探求を進めていると言ったほうがいいでしょうか。

そして空しさは、自分の運命(が決められている)というものに対してではなく、自分一人だけの成功とか現世利益的享受の価値観のほうに対してになり、自身の中で、ある種のシフトが置きます。

なるほど、マルセイユタロットでは14の「節制」に向かうというモデルで、10を超えると示されているというのがよくわかります。

言いたいことは、たとえ運命が決められていても、また一見、それに支配されているようでいても、人は希望を持つことができるし、今の人生を生ききることには重要な意味と価値があるということです。

むしろそうしないと、逆に本当の悪い意味で、運命に支配されるようになってしまうのです。

そして、運命の「枷(かせ)」は、実は、大きな目的を果たすための仕掛けでもあると言えます。その気づきが自らの運命の枷(かせ)を、はずしていくことにもつながってくるでしょう。

 


質問は違っても同じカードが出る。

タロットカードを引くと、その時の問い(質問)は違うのに、同じような展開やカードが出ることがよくあります。

「あ、またこのカードが出た」と、講座の生徒さんたちも、実践練習でつぶやく人もいます。

こういう場合、ひとつには、その人にとって今のテーマのようなカードになっていると考えられます。

タロットは78枚で構成されますが、特に私たちは22枚の大アルカナを中心に引くケースがメインを占めます。小アルカナは、むしろ大アルカナの補助という形です。(しかし、場合によっては小アルカナがメインとなることもあります)

従って、大アルカナ22枚でもって(元型的な)全体性を象徴させることにもなるのです。

この考えで行けば、22のカードの象徴は全員に共通するものを表しながらも、個別的にも22の象徴で示されることになります。

何を言っているのかわかりづらいかもしれませんが、要するに、タロットの大アルカナ22の象徴が、そのレベルの違いはあっても、全体も個人も表現しているということです。

このようなレベルや次元の違いをきちんと認識していないと、具象(現実的で具体的なこと)と抽象(誰にでも当てはまるような、大きな括りでとらえられるもの)を混同し、タロットの使い方・読み方を見誤ることになります。

例えばマルセイユタロットの1の数を持つ「手品師」というカードがありますが、これが仮に「仕事」を意味するカードであると見た場合、誰にとっても「仕事」という言葉自体は共通概念となるでしょうが、一人一人の「仕事」の種類、意味合いは異なってくるということです。

自分の今の仕事が事務職だからと言って、この「手品師」のカードを引いた者は、全員事務職の仕事に就かねばならないとか、事務職が向いていると読むのではないと説明すれば、言っているニュアンスがわかるでしょう。ただ、この場合でも、この人にとっては「手品師」と事務職が結びついていることは重要なのです。

さて、話を戻しますが、質問は違っても、同じ(ような)カードが出るということは、そのカードの象徴性において、やはり個別的にも重要なテーマとなっているからだと考えられるわけで、結局、個々の質問を超えた意味が示されていると見ることができます。

すると個別的でありつつ、そのカード(の意味)においては抽象的であるもの、つまり、全体的(抽象的)なところまで次元を上げて考察する必要が出てきます。

なぜなら質問は具体的であり、別々である(違っている)のに、同じカードが出るということは、個別の質問を超えた内容・意味がカードから示されていると考えられるからです。

一言でいえば、「このカードを見よ」とタロットの世界から示されているわけです。

ここでマルセイユタロットを学習しているたいていの人にとっては、個別性から全体性へと次元を上げていく見方のできる、ある種の絵図を知っているはずです。

それは、占いや具体的な良し悪し、いい悪いの方向性を判断する見方のものではなく、自分の内外の統合を目指し、高次に覚醒させていく霊性の進化(真の認識)への道筋となるあの図です。

この絵図に、今の自分によく出るカードを当てはめることで、何が自分にとってテーマなのかを全体性の位置から考察することがてきるのです。(ただし、単純にあてはめるだけでは深く見ることは難しく、それなりの見方・技術があります)

タロットカードは、たとえ同じカードであっても、一人一人においてはその意味するところは異なります。

それは同じ人にとっても言えることで、去年出たカードと今年出たカードが仮に同じであったとしても、だからと言って、同じ意味やレベルを象徴しているとは限らないのです。

しかし、同時に、カードには、普遍的・共通的・元型的意味もあります。

このように、個別性と全体性の違いを見て、それらを統合していくことも、タロットカードを活用する醍醐味でもあると言えましょう。

さて、ここで少し面白い話をします。

私はタロット講座の受講生やリーデイングを受けられる方に、名詞を配ることがありますが、その名詞にはカードを意味するものが入っております。言ってみれば簡単な一枚引きをしているようなものです。(笑)

それで、今までの傾向からして、「このカードに関するものを引いた人は、現実にこういうことが起こる」みたいな「占い」のような示唆も出てきます。

例えば、「世界」のカードに関するものを引いた人は、女性の場合、妊娠出産をされる人があったり、「力」のカードに関するものを引いた人は、その後、予想外の困難な事態を迎えつつも、それを超える意識か環境に至ることがあったりします。また、「運命の輪」の人は、転機になる人が多いです。

このように、カードが現実の事柄とリンクし、しかも共通の意味合いも持つようなことになっています。一種の予言カードみたいにもなっているのです。

タロットにはこうした、占い力とも言える、不思議な示唆が確かにあります。

これも本人の無意識層のある部分が、カード(の絵柄・構造)に共鳴し、意味あるカードを引かせているものだと考えられますが、常識的にはその仕組みが何なのか、はっきり断定できるものではありません。

それでも、こうしたこともタロットの魅力のひとつになっていることは確かでしょう。

いずれにしても、タロットカードを引いて、その象徴を読み解くことは、いろいろなレベルにおいて、興味深いことになるのです。


承認欲求の扱い

今の時代は、簡単に自分から情報を発信できるようになり、自己アピールや、自分を他人に知ってもらうことも容易になりました。

しかし、その反面、発信したものの反響・反応がどうなるかも気になるようになり、他人から自分が認められているのか、注目されているのかどうかという感情が、多大に刺激される事態にもなって、いわゆる「承認欲求」に悩まされる人も多くなっています。

誰しも、人から認められたいという思いはあるものです。

けれども、それがあまりに過剰になったり、欲求として常に苛まされるようになったりすると問題になります。

では、現代のこの刺激的な環境において、どのように承認欲求をコントロールすればよいのでしょうか?

それについて、二・三、タロット的な示唆も含めて、書いてみたいと思います。

 

●刺激を遮断する

まず承認欲求において、もっともシンプルで、簡単な解決法・コントロール法は、欲求を刺激させるものから自分を切り離すということです。

SNSなど、登録は存続するにしても、できるだけ見ない、やらない、反応しないことです。

また、荒療治的には、一番自分を刺激していた媒体の登録を削除する(やめる)ことです。別にやめたからと言って、本当に生活に困るわけではないでしょう。

それを続けることで、心が悩まされることと、やめることで一時的な寂しさは味わっても、心が安定することとでは、どちらが差し引きして、よいのかという計算にもなります。案外、なくても(やっていなくても)困らないことに、あとで気がつきます。

コメントやいいね!などもの評価も必要以上にしないと決め、人の感情(人がどう思うのか)よりも、自分の感情(自分がしたい・したくない)を中心に行動します。または、極端な傾き(どちらかに徹底する方法)をあえて入れ、友人誰でも何でも必ず平等に反応するか、反対にまったくしないかという選択もあります。

承認欲求のこと以外でも、SNSなどは、結構、いろいろな偽情報が刺激として入ってきますので、昔のテレビ同様、洗脳道具と化しているところもあり、のめり込むのは危険とも考えられます。

まあ、個人をブロックするよりも、全部をブロックする感じで(笑)、つまりはやめること、見ないことが一番と言えます。

 

●ただ純粋に好きなことをする

素直に自分が好きだと思えることに、熱中することもよいです。

注意すべきは、その好きなことをやるプロセスと結果において、人との優劣や出来・不出来、モノの多寡、収穫のあるなしにこだわらないことです。

例えばタロットが好きならば、そのままタロットをやる(学ぶ・実践する)ということであり、他人のリーディングと自分とを比べて落ち込んだり、知識のあるなしで優劣の判断をしようとしたりしないことです。

ですから、何事もきっかけが、他人を見返そうとか、人よりも優れた特技・知識を得ようとか、そういう「比較」「突出」「差異」のためにするのではなく、ただ自分が好きだからやる、やるたいからやる、人とは関係ない・・・という状態で取り組めるものがよいことになります。

言い換えれば、純粋に自分の喜び(その喜びは、他人より優れているというものではないもの)のためにできることを行うわけです。

 

●霊性・スピリチュアリティの成長(発展)観点を持つ

これが今回、一番言いたいことでもあります。

タロット、特にマルセイユタロットの世界では、大アルカナの数の順番(大きくなっていく順番)が、そのまま人間の成長や完成の道筋を示しているという説があり、もはやこれは、タロット界ではよく知られているメジャーな考えになっているかもしれません。

この、タロットに描かれる「人間の成長」は、普通の成功とか、ひとかどの人間になるという意味もありますが、むしろ、もっと大きな概念・世界観から見た成長で、言わば「霊的な成長」を含むものであり、物質を超えた総合的・霊的な完成を目指すことが示されているのではないかと(個人的には)思います。

その証拠に、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄を数の順に追って見ていけば、人間よりも、次第に天体や宇宙的なものが現れ、個性よりも没個性的、言い方を換えれば差異のない共通的・宇宙的・元型的人間像へと進化しているように見えるからです。

つまりは統合であり、より高次への思考や感性を持つ存在へと成長しているわけです。

ところで、心理学的にも、欲求を人間の成長とともに、段階的に分けている説があります。すでに古典的なものになっていますが、アブラハム・マズローの欲求段階説というものです。

これには批判も多く、今ではまともに見られていないところもありますが、それでも参考になるところは多いと思います。

私の講座の発展コースでは、この説を一部紹介しており、そこからの資料を引用しますと、

 

このように(マズローによると)、人間は低次から高次になれば、下の欲求階層から上の欲求階層へと移っていくと謳われています。

つまり、生存的・動物的な低次の欲求が満たされれば、次に他人の愛情や承認を求める欲求が出てきて、最後には、より高次な自己実現的な欲求が出てくるというもので、最終的にはこの段階説にはありませんが、総合的・霊的な完成(への欲求)も出てくると考えられるものです。(この図の、さらに頂点に位置すると考えられるもの)

ここで注目したいのは、承認欲求が上から二段目(あるいは承認欲求の種類によっては、所属や愛情の欲求のこともありますから、さらに一段下)の段にあるということです。

低次(下の階層)の欲求は、上下の階層の欲求と関連があり、その上下の欲求にされされたり、求めたりすることによって、当該階層の欲求から逃れられると想定されるところがあるのです。

承認欲求と愛情の欲求の下の階層は、安全・安心の欲求階層であり、これは言わば、衣食住が最低限保証されているような(食は最下層の生理的欲求とも考えられますが)状態を求めるもので、これが脅かされると、承認欲求どころではないということになります。

ですから、暮らし自体が厳しい環境になれば、承認欲求に悩まされることは少なくなりますが、しかしこれでは、根本的な解決どころか、むしろ低下・後退している状態と言えます。

ですから、上の階層を見ていきます。すると、自己実現の階層ということになります。そして、マズローの図にはありませんが、さらに上には、さきほど述べたような総合的・霊的完成への欲求もあると考えられます。(マズローが言いたかった一番上の欲求は、このようなことではなかったかとも考えられます)

マルセイユタロットで言えば、大アルカナの数の上のほう(前後半で分けると11くらいから21、三段階でわけると14・15くらいから21までの階層)の目標や意図を持つということになります。

霊的な目線(成長)とは何かと問えば、一言では言い表せないものですが、見える世界と見えない世界の統合、「ひとつ」として等しく思考できる、感じられる観点を持つ発展プロセスと言えましょうか。

霊的な成長へと自分をシフトさせていくと、今までとは気になるものがまるで違ってきます。(まったく気にならなくなるわけではありません)

最初は承認欲求を刺激するものに対して、とてもばからしく見えてきますし、一時的には虚無のような状態にもなるかもしれません。

しかし、それも反転して、いろいろなエネルギー、人々の心の状態の渦巻き(ボルテックス)が伝わってきて、ダイナミックな生きる力も感じてきます。と、同時に、私たちをある段階で留めさせようとする方向(安定でもあります)と、進化・発展・破壊しようという方向性との巨大な葛藤も見て取れます。

実は個人的なもの(思考・感情)と思っていたものが、大きなものとつながっていることに次第に気がついてくるでしょう。

つまり、世界は自分であり、また自分は世界でありつつ、やはり自分の世界と他者の世界のふたつは厳然としてあって、これもまた渦巻いているわけです。

霊的な観点では、おそらく、自分の承認欲求は、醜いものでも悪いものでもないのです。ただ、欲求に気づくことに重要性があります。

あなたが認められたい・求められたいのは、本当は他人からではないのです。

ともかく、あなたが霊的な成長の観点に戻る時、これまでの現実的・物質的欲求から変化することになるでしょう。

 


タロットカードと恋愛

バレンタインも近いので、今日はタロットカードと恋愛に関するお話を少々しようかと思います。

タロットカード(マルセイユタロット)において、もっとも恋愛を表現・象徴しているカードとしては、「恋人」カードがあげられるでしょう。

名前もずばり「恋人」ですから、文字通り、恋をする人、恋する相手(もしくは自分)を想像させ、何と言っても、絵柄を見れば、このカードが恋愛に関係しているであろうことは誰でも想像がつきます。

マルセイユタロットでは「恋人」と、単数のように表されるこのカードですが、ほかのタロットや一般的には、「恋人たち」というように、むしろ複数体での表現が主です。

ほかのタロットも、このカードのモチーフとして、上空の天使(キューピッド)と、下にいる人間たち(恋人たち)の構図をもとにしていると思われるので、絵柄に複数の人間たちが描かれていることから、「恋人たち」と表現されるのも致し方ないかもしれません。

しかし、ここでは詳しく説明しませんが、マルセイユタロットがなぜ「恋人」と単体の名前になっているのかという、そのこと自体が、このカードの意味において決定的とも言える重要さがあるのです。(先頃上映されたアレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画「エンドレス・ポエトリー」では、このことがテーマのひとつにもなっていると考えられます)

ともあれ、「恋人」カードが恋愛を象徴するカードであることは、絵柄から見ても疑いようもないのですが、タロットは全体をもってひとつのことを象徴する場合があります。(逆に、ひとつが全体を示すこともあります)

つまり、“恋愛”という事象も、一枚のカードだけに終わらず、78枚全部をもって表現できるということです。特に大アルカナは物事の本質を示すカード群であるため、例えば「恋愛」においても、恋人カードを中心にしながら、ほかの21枚の大アルカナカードによっても、恋愛を読み取ることができるようになっています。

簡単な例で言っても、「運命の輪」と「恋人」カードは「機会」の観点でつなかりがあり、出会いの偶然が必然にもなっていることが、両方を併せるとよくわかる構造になっています。

ほかにも、「悪魔」のカードと並べてみると、「恋人」カードのキューピッドの位置に、「悪魔」のカードでは悪魔そのものが君臨していることがわかり、単純に天使と悪魔のつながりによる関係の比較(違い)がうかがえ、興味深いものになります。

再び、(マルセイユタロットの)恋人カードの構造になりますが、大きく分けて、上空の天使(キューピッド)と下の人間たちに分かれるものになっています。(ちなみにこの構造は、「審判」のカードにも受け継がれていることが重要です)

これには色々な意味があるのですが、シンプルに考えても、天界と下界、見えない世界と見える世界、精神と現実(物質)みたいな、縦の二元構造として考えることができます。

もっと平たく言えば、とても清く、純粋な部分と、複雑で生々しい(禍々しい)現実的な部分が恋愛にはあるということです。

占いをする人に聞きましても、恋愛相談で多いのが不倫問題だと言います。恋しているお互いの気持ちはピュアなものかもしれませんが、客観的に見れば、やっていることはドロドロとした不倫劇なわけです。

最近は、芸能人の不倫があばかれ、叩かれることも多くなりましたが、これは個人が匿名で何でも意見の言えるネットの影響も大きいとは思いますが、本質的な問題は、外から基準を決めてほしいという真の自立性の欠如と、依存・承認しあわないと安心できない方向性に、社会が病的な状態になっている(ならされている)ことにあると私は考えています。

それはともかく、不倫問題となると、当然ながら倫理的問題によって、善悪の見地から非難がある反面、心の面では賛同を思ったり、逆に嫉妬ややっかみみたいな、いわば自分の感情部分にふりまわされたりしてしまうことがあります。

これも倫理のような誰しも共通と考えているルール・掟の(これは、いわば目に見える)部分と、一人一人の目に見えない心の中の感情部分とがせめぎ合ったり、葛藤したりするわけです。「恋人」カードでの二元構造が、ここに見て取れます。

この両者を、まったく同じ次元・レベルで考えると、いつまで経っても解決や落としどころが見つからなくなります。

不倫も愛の形のひとつだとか、本当の気持ち・心に正直に従ったまででとか、本来、人は自由なものであるとか言って、肯定する人がいます。

反対に、倫理的にやはりおかしい、やっている当人同士はよくても、されたほうの家族はどうなのだ? 人に迷惑をかけているので非難されてしかるべきと徹底的に断罪する人もいます。

両者が交わることはないのです。それは階層(レベル・次元・世界層)が違うからです。

確かに、究極的なところで考えると、人は何をしようが自由かもしれませんし、殺人でさえ否定も肯定もない世界はあるでしょう。

ただし、私たちは現実次元のルールを適用した世界で生きる社会的生き物です。

現在の倫理・ルールにおいて反する行動があった場合、それに見合う破綻(非難等)があるのも当然です。つまりは、どの世界においても、その世界で適用されているルールがあり、それを守ったり、反したりした場合の責任があるということです。

その責任を取る(背負う)覚悟は、ルール破りには特に求められるわけで、責任を取らない者がルール破りを行うのは、それこそ虫のいい話しで、ルール違反者に調整や裁きが働くのは自然の摂理と言えましょう。

一方、世界観・ルールが変化した場合、不倫は不倫でなくなる可能性があります。それは複数同士の恋愛、自由恋愛が認められるルールの世界であればの話です。

これには、二人同士だけではなく、二人から派生し、関連するすべての人の理解と承認がいります。

不倫が問題なのは、するほう、されたほうの共通理解がないからです。好きになれば自由につきあえ、自由に別れることもできるという世界となっていれば、皆が納得したものである限り、「不倫」という概念はない世界になります。

果たして、それが人類にできるのかどうか?です。

独占欲や嫉妬とかの感情とは無縁になるほど、皆で皆を許し合い、自由を認め合わなくてはならないのです。いわば全員がひとつのような感覚の、相当高度な愛がないとできないかもしれませんし、逆に欲望に忠実な動物的世界になる場合もあるかもしれません。

これは不倫の話を例にした、恋人カードの二元構造(特に下の構造部分)を少し見てみたわけですが、今度はドロドロした地上世界から上に登ってみることにします。そして、ここには「天使」がいます。

天使はキューピッドでもあり(厳密な区分では天使とキューピッドは別物ですが、ここでは現実を超えた存在として同じものと見ます)、人間の恋愛感情による結びつきが、異次元から生じていることを示唆しています。

そして、恋することが現実を超えることも表しています。

現実を超えるというのは、ネガティブな意味では非現実的になって、妄想状態、現実逃避になるおそれもありますが、よい意味では、精神、霊的な成長が図られるということでもあります。

恋すること(必ずしも人間対象とは限りません)は、やはり霊的には大きな意味があると考えられるのです。

タロットに「恋人」カードがあるのですから、やはり私たちは生身の人間として、恋をすることが求められているわけです。(笑)

あなたは誰の恋人になるのでしょうか? また誰を恋人とするのでしょうか?

たとえ冷めて終わった恋でも、恋した事実は時空を超えれば永遠に残っていると言えます。

さて、純粋な恋の感情を味わうのにお勧めのアニメがあります。「月がきれい」というアニメで、昨年2017年に放映されたものです。中学生同士の純粋な恋愛模様が、きれいな背景とともに描写されています。興味ある人は是非ご覧ください。


タロットで「幸せ」になれるか。

インフルエンザと思える体調不良で、しばらくブログを休止しておりましたが、回復しましたので、ブログを再開いたします。

 

タロットを習って幸せになれるか(なることができるか)?

という質問や、問いかけ(ご本人なりの願望・思い)を見かけることがあります。

これに対しては、私のほうでは、万人に共通する回答を出すことができないと言っておきます。

それは、「幸せ」という価値観・概念・状態が、まさに人それぞれで違うからです。

極端に言えば、ある人にとっての不幸は、別の人の幸福・幸せである場合もあるわけです。

ですから、何をもって幸せとするのかの定義が一定にならない限り、タロットで幸せになるのかの質問にも答えられないことになるのです。

しかし、逆に言えば、一定の定義があれば(決まれば)、その定義条件を実現できた(満たした)場合、幸せになることもできるのだと言えます。

では、「幸せ」の定義をいくつかに分けて、その「幸せ状態」とタロットについて見てみましょう。

まず、いわゆる現世利益的なものをつかんだ、現世利益的に満足した状態、特に物質的に成功した状況「幸せ」だと仮定(定義)した時、タロットはそれを実現させることができるのでしょうか?

これは占い的なタロットの使い方をすることによって、一部可能ではないかと考えます。

ここでいう“占い的”というのは、運をつかむ、運(幸運や時流の流れ)に自分を乗せるという意味での使い方です。

タロットには「運命の輪」というカードがあるように、一言でいえば、この運命の輪に乗る、回すみたいな活用と言えましょう。

その前提として、タロットカード(の象徴性)を、運の良し悪しで見ることが重要になってきます。

先の「運命の輪」で例えれば、すべてのカードを「運命の輪」の支配に置き換えて配置する(配当させる)ような見方です。(この方法は秘伝としてはあるのですが、危険なものでもあります)

別の言い方をすれば、タロットに運の流れの性質を記憶させてしまうような感じで、運に乗れてないことをカードから検証できた場合は、運に乗せる調整を、カードそのものでしていくというようなものになります。

まあ、平たく言えば、巷のタロット占いと似たようなこと(方法・形式)なのですが、趣味や遊び感覚でするのではなく、かなり真剣に、運というものを見据え、カードと運をリンクさせる習練(実践)も必要となってくると考えられます。

いわば、現世利益・成功というものを運によってつかむのだという強い意志と信頼(信仰に近い)が大事なのです。

次に、心(精神)が満足している、癒されている、調和した気持ちになっているという状態が「幸せ」だという定義ではどうでしょうか?

精神的な満足は、物質的なものよりも心の中の目に見えないものに左右されますから、なかなか客観視することが難しいものではあります。とは言え、要は本人(の心)が納得していればいいわけなので、意外に簡単なところもあります。

この意味においての「幸せ」は、タロットでは得られやすいのではないかと思えます。

こうした心の幸せには、自分の心が望むことを知る必要があり、言ってみれば、自己の内面への洞察と調整(内在性の発見と浄化)にも関わってきます。

同時に、外的な自分の表現や行動(趣味・仕事・人間関係など生活全般)との調和(折り合い、バランス、融合)も図っていくことで、より心の満足も完成されてきます。

簡単に言えば、タロットを内面の投影や鏡として使い、今まで気づいていなかった心・内側を観察することにより、上記のこと(内面と外面との調和)を実現していく手段と言えます。

自分の心を出す(癒し、許し、素直になって表現する)ということは、ずいぶん楽になることだと、やがて気がつきます。

やってみると、どうして今までできなかったのかと思うのですが、できないようにさせていたのが、実は大人への成長、社会性の獲得とつながっていたことなので困難だったのです。

たいていの人は社会とのやむ得ない(自己欺瞞的な)調整のために、自分の心を抑圧しなくてはならず、それが積もり積もって、心的あるいは、肉体的にもつらい影響を及ぼしていたということがあるわけです。

もともと、人がどう思うのかなど全く気にならず、自分の意志を貫き通せる、自由に生きられる性格の人には、心の幸せはいつもあるようなものなので、このようなこと(内面と外面との調和作業)に必要性を感じないものですが、多くの人は大人になってから内外の葛藤が広がり、それを調整することが求められてくるのです。

結局、心の幸せを実現しなければ、生きる意味や実感も得にくいからです。

最後に、覚醒とか、霊性・魂レベルの発展(統合)を目指す(それの実現を成す)ことが「幸せ」だという(定義の)場合は、普通の感覚とはかなり違った「幸せ」観を持つことになるでしょう。

そして、マルセイユタロットは、このレベル(定義)の幸せを得るためにも開発されたのではないかと、うかがえる部分があります。

このような意味での「幸せ」は、実現が目標というより、その過程そのものが喜び(しかし苦しみでもある)となっているようにも思えます。

言ってみれば、これを目指すと志した瞬間から、「幸せ」はすでにあると例えてもいいものなのです。

しかし、一般的な意味(定義)での、ほかの幸せの意味からすれば、不幸と言ってもよい状態もあり得ます。

そもそも、「幸せ」の定義、世界観・価値観が異なれば、「幸せ」を通して互いに理解しあうことは難しいのです。

つまるところ、自分が思う「幸せ」とは何なのかということをしっかり定義しておかないと、いろいろな意見・価値観に振り回されることになります。

また「幸せ」(の定義)は、このように一定のものではありませんから、自分自身の中でも変わる事があり得るのだと思っておくことも大事です。

しかしながら、もし普遍的な「幸せ」観があるとすれば、それは真・善・美のような例えで、イデアとして把握できる「何か」元型のようなものと言え、それが多くの人に真に共有することができた時に、現実感覚としても存在してくるのではないかと考えます。

ですから、私自身は、「幸せ」は一人一人違うものではあっても、本当の意味では、誰しも同じと理解できる幸せもあるだと、高いレベルにおいては想定しています。マルセイユタロットでは、そのことが象徴として示されているように思います。

ともあれ、せっかくタロットを扱うのですから、タロットをする人は、タロットで幸せになりましょう。(笑)


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