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「占い」と「リーデイング」の違い

今日はタロットリーディングと占いの違いの話をしようかと思います。

「リーディング」と「占い」の違いについては、人それぞれの考え方がありますし、そもそも大きな枠で考えれば、その違いはないと言えるかもしれません。

ですから、ここで述べるものも、あくまで私の考える「違い」であり、それもたくさん(私自身でも考えているものの)中のひとつと受け取っていただけるとよいです。

両者の相違で、一番シンプルでわかりやすいのは、カードにランクやクオリティ(の違い)をつけるかどうかです。

もちろん、ほかにも「当たる・当たらない」で見るかとか、「未来予測重視か、過去整理・浄化が重視か」「他者から指針を得るか、自らが気づきを得るか」など、いろいろな区分け(違い)の見方があります。

今言っているのは、タロットカードにいいカードと悪いカードという区別をつけるか、カードはいいも悪いもないとするかの違いの見方です。

前者が「占い」になり、後者は「リーディング」となります。

まあ、問題はその良し悪しの基準を何にしているかということなのですが、ここでは一般的な価値観と言っておきましょう。

悪いこと、アクシデントが起こること、のようなものがカードに象徴されているのが「悪いカード」で、その逆のよいこと、吉兆を示すのが「いいカード」というわけです。

または、カードのポジション(正逆、置く位置など)にいいか悪いかを決めて判断するパターンもあります。いずれにしても、出たカードにいいか悪いかの意味が明確にあるわけです。

大アルカナでも小アルカナでも、よいカード、悪いカードがあり、それに基づいて判断していくのが「占い」ととらえます。

一方、カードにいいも悪いもないとする設定が、リーデイングだと述べました。

カードの象徴自体は、それそのものを表すだけであり、いいか悪いかの解釈は人間の思いや環境(状況設定)次第ということになります。

典型的なケースでは、「神の家」(一般では「塔」)や「13」(一般では「死神」とされるカード)が、両者の解釈の違いとしてわかりやいかもしれません。

13(番)」のカードを例にすると、絵柄からして「死神」と呼ぶ人もいるくらいですから、不吉で悪いカードと思われがちで、そういう意味づけで判断されると「占い」になってきますが、「13」の象徴そのもので見る「リーディング」形式だと、決して「13」も悪いカードとは決められないものです。

「13」の絵柄は、なるほど、西洋でいう死神(装束)に近い絵柄ですが、そもそもなぜ西洋では「死神」がこの絵柄のような存在なのかとか、その意味や経緯を知り、「象徴」として理解すれば、この奇怪に見える「13」の骨の人物、その存在が持つ大きな鎌も、恐怖や死という言葉だけのものではないことがわかってきます。

たとえ「死」というキーワードがあったとしても、その死は、実際の死とは限らず、象徴として見れば、死は再生や成長のための段階、通過儀礼とも考えることができます。

悪いカードと決めつけてしまえば、もうそれ以上の解釈の発展はなく、そもそもタロットカードが「象徴」である意味も失ってしまいます。

「象徴」は多重性と階層性を持ち、ゆえに時代や種別を超越し、元型的にすべての人に相通じるものを持ちつつ、個別的にも対応されます。「象徴」だからこそ、見えない(心・霊的)世界にも浸透することが可能なのです。

ただ、いい・悪いというような、カードにランク・色をつけることが悪いわけではありません。

特に現実的・実際的場面(一般的価値観を元に判断するもの)の選択においては、はっきりとした良し悪しの基準がないと決めにくい時があります。

「こちらの道のほうがいいですよ」「あちらは悪いですね」とわかったほうが、すっきりし安心するのが、現実に生活する人間の心理です。

従って、吉凶判断、良し悪しに基づく選択のための指針に、「占い」的技法・意味づけによって、タロットを使うのも活用術のひとつと言えます。

ここで言っておかねばならない大事なことは、カードの「設定」です。

いい・悪いのような、カードにランクや意味をつける設定にしてカードを引くのか、あくまで象徴として見るリーディングの設定でカード引くのかという取り決めをはっきりしておかないと、両者は混濁します。(ごっちゃの解釈になる)

逆に言えば、カード自体に最初から良し悪しが決まっているのではないということです。

良し悪しにするのは、そのタロットカードを引く(解釈する)人間側なので、結局、設定が大事だということです。

タロットリーデイング・占いは、一種のゲームです。

ゲームのためにはルール・設定が不可欠であり、それがゲーム中に破られると、ゲーム自体が成り立たなくなります。

トランプで考えてもわかるように、大富豪をしているのに、神経衰弱みたいなルールにされてしまうと、プレーヤーは混乱してしまいます。

タロットカードは絵柄のついた象徴ツールであるので、絵柄自体は変わらなくても、設定によって、いかようにでも姿(ゲーム内容)を変えます。

占いをするのか、リーディングをするのか、どちらにしても、最初にはっきりカードの設定を決めておくことです。

悪いカードと決めておいたのに、読んでいるうちに、いいカードになってしまうというようなことはおかしいわけです。ただし、そういう、いいから悪いに変えること、悪いからいいに変わることもある・・・というような設定がOKのものなら、それはそれでもよいのです。

さて、話を少し戻しまして、結局、カードにいい・悪いとか吉凶で見る判断をする(占い)は、生活や現実に即しているものだということができます。

言わば、人々の生(なま)の悩みというか、欲求・願望をストレートに表す望みとか知りたい情報へのアドバイス、判断みたいなことです。それは精神的ではあるのですが、現実生活にダイレクトに結びつく「物質(モノ)感覚」だとも言えます。

言い換えれば、求める充足感が、物質的なもので満たされるイメージなのです。

例えば、パートナーや家族という「人間」を得ているイメージ、よい仕事、そこから波及する給料を得る、利潤というお金が得られる、よい暮らしのためのよい家を持つ、楽しく過ごせる友人や仲間を持つ、時間であっても、たくさんある自由な時間という貯金的で物質的イメージによる「時間があること」・・こういうモノ的な何かが満ちる感じとでも言いましょうか。

私が思うに、タロットの占い的な活用は、この私たちの中にあるモノ的なイメージを満足させることに目的があるという印象です。

一方、タロットを象徴として、ただリーディングするという姿勢では、モノを満たすものとは別感覚で、モノを超えた感覚であり、モノとか精神(精神という形)の充足ではなく、むしろ破壊、霧散、無限の拡大、希薄化という感じです。

ものすごく簡単に言えば、「タロット占い」はどこかにランディングしたり、固定させたりするイメージで、「タロットリーディング」はその逆の、流動や浮動みたいな感覚ですね。

あるいは、ひとつの確固たる成功ポイントに導くのが「占い」で、ポイントが無数にあって、どれも選ぶことが可能(しかし成功という概念で言えないもの)だと悟って(気づく)ための方法がリーディングと言えましょう。

とはいえ、どちらがいいとか悪いとかでもやはりなく、その人が何を望むのかということによって、占いとして使うか、リーディングをしていくかになるでしょう。

まぁ、どっちもゲームなので、ルールを守って、選んだゲームを楽しんでください、と言っておきましょう。(笑)


「愚者」の犬から

来年は戌年ですね。

というわけではありませんが、ふと、このところ「犬」の象徴に出会うことがよくありましたので、マルセイユタロットの図像にも関係する「犬」について、書いてみたくなりました。

と言っても、ここでは講座で述べるものとは少し違う内容で紹介したいと思います。

マルセイユタロット(大アルカナ)で犬の絵が現れているカードは数枚あります。

具体的には、「愚者」、「月」というのが、誰が見てもわかるものですが、「運命の輪」の中の動物にも犬がいるとされています。

また「月」の動物は「犬」のようにも見えますが、「」とも考えられます。月と狼(男)伝説は有名ですよね。

それとは別にしても、特にヨーロッパの北方では、「狼」は神の使いであったり、神聖な力を持つ動物とされていたところもありました。(日本でも、狼が「大神」という響きを当てられていたこともあります)

と考えますと、純粋に「犬」と言えるのは、もしかすると、「愚者」に描かれている絵の犬だけかもしれません。

最初にふれたように、ここではタロット講義において語っている「犬」の詳しい古代からの象徴性について話しません。もし書くとしても、とても一回だけでは語り尽くせるものではないでしょう。

ですから、今回は、いかにも「犬」の図像である「愚者」の犬から、今回のブログ用に出てきたことだけを記します。

「愚者」のカードを改めて見ますと、愚者と犬は連れ添って描かれていることがわかります。

この犬がどのように見えるのかによって、あなたと「犬」に象徴される人(事柄)との関係性がわかることもあります。

押しているように見えるのか、引き留めようとしているのか、じゃれているように見えるのか・・・人によって様々でしょう。そして、この犬は、そのように投影できるよう(見る者によって姿、表情が変わるよう)にわざと描かれているわけです。

実際に犬を飼っていらっしゃる方は、まさにその犬である場合もあります。(時には亡くなった犬の象徴としても、出てくることがあります)

犬は吠えるものでもありますが、愛玩されたり、人間に役立つ(助ける)生き物として存在してきました。

「愚者」が私たち一人一人であるならば、寄り添うに描かれているところからも、この犬は何らかのパートナーであることは間違いありません。

詳しくは言えませんが、マルセイユタロットの「愚者」の犬は、動物の形をしながらも、象徴的には高次のレベル(存在)を暗示させる図柄になっています。

つまり、ここには、動物(犬)と人(愚者)という、一見、人とそれに従う関係を見せながらも、実は人が何かに従ってる(追い立てられている)という関係性も隠されています。

これはよいことにも置き換えられますし、悪いことのパターンにも考えられます。

私たちは自分が従えていると思っているものに従えされられていることもあれば、無意識のうちに、ある方向に進むように促されていることもあるわけです。

犬に吠えられて逃げなければならない区域もありますし、怖い犬を克服し、手なずけ、その境界を越える(超える)力を獲得しなければならないこともありえます。

「愚者」はその名の通り、愚か者のところもありますが、我々が愚か者(智慧が隠された状態、無明)である時、警告を発し、私たちを追い払ったり、守ったりするのです。

人は積極的になること、進むこと、チャレンジすることをよしと見る向きがある中で、反面、無謀な蛮勇、エゴと誘惑による衝動的行動との区別がつかず、何でも直感的にやりたいことを選択すればOKという風潮に自分を見失うことがあります。

まだ準備や資格がない状態にあれば、警告に従い、避けること、動かない(選択しない)こと、今までを継続維持し、しっかり準備することも大切です。だからこそ、タロットカードは「愚者」のほかに21枚もカードがあるのです。

犬は忠実な番犬である時と、野良犬のようになって、それこそ一匹狼となることもあります。

「愚者」は自由をもっとも象徴させるカードでありながら、そこに犬が連れ立っていることは、(犬の本当の飼い主)智者の存在、智慧ある選択と行動も示唆されます。

あなたは何に忠実であろうとし、何から自由になろうとしているのか、犬に吠えられて、あるいは、犬に寄り添われて、あなたは気づくことがあるでしょう。

面白いことに、ドッグ、英語のDOGは、逆から読めば「GOD」になります。まあ、言葉の起源的には何の関係もないという話のようですが、タロット的に見ると、かなり面白い偶然です。

なぜ面白いのかは、ほかのカードとの関連を語らないと、その面白さが伝わらないのですが、それはまた講義でお話するとして、もし愚者と犬が合体したとすればどうなるのか?という、わけわからない(笑)ヒントをここでは書いておくに留めます。

ちなみに、「愚者」のカードを今私が見ますと、犬から追い立てられているように見えます。あ、そう言えば妻は戌年でした。(苦笑)  

戌年の来年、皆様がいい意味で「愚者」となり、自らの自由を求めて、新たな旅路に進まれることを期待します。

ボン・ヴォヤージュ!(bon voyage!)


直接・間接、意識・無意識の縁

この世界は、たくさんの人が存在しています。

結局、たとえモノとの関係であっても、そのモノも、まったくの自然で形成される以外は、人が作っていることが多いですので、人との関係が自分の人生に大いに影響することがわかります。

人間同士の関係は、とにもかくにも、出会いがなければ始まりません。もちろん、現在は様々なツールの発達によって、直接会わなくても関係が生じることも増えましたが、いずれにしても、方法はどうあれ、何かを介して人間同士が意識しあう始まりがあります。

それは、「」と言ってもよいでしょう。ということは、縁の働き、あるいは働きかけは、とても重要なものとなります。

ただ、「縁は異なもの味なもの」と言われるように、自分の意志を超えた作用があり、よく神様が結ぶ縁みたいな表現で、見えない領域の力とが及ぶともされています。

ですから、縁は、自力縁・意識した縁と、無自覚で働く他力縁があると言えます。

また、別の分け方では、直接的な縁と、間接的な縁があるとも考えられます。

直接的な縁とは、文字通り、自分とほかの誰かとで直接生じる縁で、ほかの人をはさまないものです。

一方、間接的な縁は、間に誰かを介在させて結ばれる縁と言えましょう。

このふたつにおいても、先述したように、意識した縁と無意識的な縁があります。

ということは、この4つの分け方で区分すると、

1.意識的で直接的な縁

2.無意識的で直接的な縁

3.意識的で間接的な縁

4.無意識的で間接的な縁

があることになります。

1の縁が自分の力と意志で結ぶことができやすい縁といえ、反対に4になりますと、まったく自分では意識していなかった縁が、回り回って結ばれるという感じになるでしょう。

マルセイユタロットの「恋人」カードでは、下に三人の人間たち、上に天使(厳密には天使ではなく、クピドーとも言われます、いわゆるキューピッドのこと)が描かれています。

今あげた4つの縁は、この恋人カードで表すことができることに、マルセイユタロットを学んだ人なら気づけるかもしれません。

そうすると、タロットリーディングの、特に人間関係で働く縁の持ち方、現れ方を探ることも可能になります。(ただし、引いたほかのカードと

の関連も大きく作用します)

今回、特に言いたいのは、それぞれの縁の裏には、次の縁が隠されている可能性があるということです。

直接的・間接的で言いますと、自分が誰かと縁を生じたいと思って行動し、その人とつながることができても、それだけでは終わらず、その人からつながっている縁が、自分にも関係してくるようになるわけです。つまり、間接縁も直接縁ができると同時に、発生する可能性が高まるのです。

恋愛などでも、友達の紹介とか、知り合いの知り合いが今の彼氏・彼女になった・・・ということも案外多いものです。

コミュニケーションがあまりうまくない人であっても、誰かとてもコミュニケーションが上手で、友人や知人も多い人と何かのことでつながれば、自分の縁も広がってくチャンスがあります。

言葉のコミュニケーションが苦手な人は、意外に独特の個性、特技、雰囲気をもっていることがあります。ですから、多くの人とは違う印象を相手に与えることができる場合もあるのです。

だから、あきらめず、ただ一人の人とつながる(知り合いになる)という努力だけでもしてみるとよいでしょう。そこから縁が波及し、響き合い、あなたの未来のパートナーや、親友とつながることもあるかもしれないのです。

イメージでいえば、ネットワークの一部にフックをかけて、自分との配線をつなげておくという感じです。

さきほど区分けしたように、縁は無意識で、しかも間接的なものもありえます。自分がまったく自覚しないまま、どこからともなくつながる縁みたいなものです。

しかしながら、これとて、自分が何もしないで、勝手につながる(つなげてくれる)というものではないのです。

直接的で自覚的な目的・意図がないだけで、自らが何らかの活動をしている中で、人と人とがつながり、縁が運ばれてくるものです。

恋人カードで言えば、下に描かれている三人の人間(の活動)であり、もし三人ではなく、ただ自分一人(真ん中の人だけ)だとすれば、天使(キューピッド)も、たとえ矢を射かけたとしても、当たるのは自分だけであり、そうなると自分に惚れる(自惚れ)しかありません。(笑)

 

この矢がだとすると、やはり、自分以外の人に矢が当たる可能性が高い、たくさんの人がいなくてはならず、そのためにも、じっとしていたところでは始まらないわけです。

それから、直接・間接縁のことで付け加えるとしますと、自分の望みが間接縁によってもたられることもある、いや、そのほうがむしろ多いかもしれないと思っておくとよいです。

例えば、これは救済を意味する「節制」のカードとも関連しますが。直接的に誰かに助けてもらおうとしても、その人から必ずしも助けられるとは限らず、その人からつなかる誰か、紹介してもらった人・機関によって救われたということもあるわけです。

そして、ここも肝心なのですが、人間の知り合い同士での縁だけがネットワークではなく、目に見えない別のネットワーク系統があり、自分のある行動が、願っていることと関係するネットワーク情報、あるいは縁とつながることにより、目的が達成されるという場合もあります。

それは常識的なものとはちょっと異なるわけです。いわば、カルマとか、集合的無意識の層と関連してくるネットワークや情報のようなものです。

どいうことかと言いますと、今までの自分がつながりやすいネットワークのパターンがあり、しかもそれは、ネガティブな思考になったり、うまく行かないような人間たちとつながる傾向をもっていたりします。

しかし、このネットワークのつながり方が変わることにより、まるで電車の線路が切り替わるように、別のルートを通るようになるのです。

今までのつながり方になっていたのは、カルマや浄化ができていなかった部分無意識に形成されてきたパターンが反映されていたためと考えられます。運の悪さや悪縁のパターンと言ってもいいでしょう。

これが改善さることにより、縁の運ばれ方のパターンが変わり、うまく行ったり、スムースにつながったりするようになるわけです。

インドカルマ的な考え方で言うと、悪い縁も浄化であり、リセットするためには必要な状況なのかもしれません。しかし、おそらく自動的にされるより、自覚をもったほうが切り替えは早いのではないかと推測されます。

そういう意味では、無意識の縁はあるにせよ、自分の生じる縁について、もっと自覚的になってもよいのかもしれませんね。

同時に、自覚する意識以外からも発生している意外性に見える(無自覚な)縁も、プレゼントとして受け取って楽しむ心もあるとよいでしょう。


お金・経済をレベルと枠組で考える

タロットの相談でも、意外に少なくないのが、経済的な問題です。

たとえ表向きは心の相談であっても、結局、生活のため、生きていくために、お金に関わることが含まれるからです。

大きな(スピリチュアルな)世界では、物質も精神も、言わばエネルギーととらえ、形になるかそうでないかの違いみたいに考えられています。

ですから、本当はお金も心も区別されるものではないのかもしれません。

とはいえ、願ったからと言って、お金が空中から飛び出てくるわけではありません。

とにかく、現状、この現実世界では、お金、あるいはそれに代わる財産や価値あるものを持たないと、生きていくことができない仕組みになっています。

ここで、お金の問題を簡単に整理してみましょう。

考え方として、レベルの枠を入れてみることです。

大まかには、個人(単独)レベル、家族や身の回り人たちを含むレベル、地域社会レベル、国レベル、アジア・ヨーロッパなど世界地域レベル、さらに地球全体レベル、宇宙規模レベル・・・といった感じで、次第に拡大します。

実は、それぞれの階層にルールがあり、システム・枠組みがあるものと考えられます。

同時に、その範囲においての自由と責任のようなものもあります。

現実的・具体的という言葉においては、この枠組(レベル)が下に向かう(小さくなる)方向となります。

つまり、一番現実的なのは、自分個人(の生活)のことになります。次に、家族とか自分が直接関係する人のレベルとなるでしょう。

だいたいの人において、このふたつのレベル・枠でもってお金を考えます。それは自分の生活に直結するからで、否応なく、お金の問題が生々しく関わってくるからでもあります。

しかし、このレベルを大きな方向から見てみると、お金の問題は、まったく違ったものとして見えてきます。

ただし、あまりにも大きすぎると、身近には考えられず、そうしたレベルでの考えに行き着くことはあまりなく、捨て置かれます。

そういう大きな枠のことは、ほかの組織や大勢の人が考えることだと思ってしまうわけです。

私が思うに、お金の本当の問題は、このレベル間で隔絶が起こり、具体的で現実的な個人の枠から、少なくとも地球レベルの枠まで、すべてが繋がっているいること、関連していることがわからなくさせられていることにあると考えます。

教育の問題も大きいです。お金や経済のことを大枠から教えられず、しかも個人レベルにおいても、お金の扱い方を訓練されず、や外から見聞きしたもので学ぶしかないからです。

従って、自分のお金の使い方、扱い方、イメージは、自分の親やお金を与えてくれた人、お金と関係した人からのものが大きく影響します。

しかも、悪いことに、親世代もまたその親をモデルにしているため、これは結局、国レベルの伝統的ともいえる同じパターンの轍を踏むことが多く、それがその時代に合っているものならばいいのですが、経済システム(「あり方」ではなく「やり方」の方)も変化していきますから、親世代のやり方がうまくいかないこともあるわけです。

そういうデータをクリアーし、時代に合ったものにバージョンアップする必要もあるかもしれません。こういうところが、いわゆる「お金のブロック」などと言われるゆえんでしょう。

ただ、「お金のブロック」の話については、またいつか書きたいと思いますが、ブロックという概念自体がおかしいこともあるのです。また、ブロックがたとえあったとしても、それを簡単にはずすことは、かえってよくないこともあります。

世の中の考えは、すべては作られた概念といえますが、何もない状態にすることが、必ずしもいいとは限らないのです。ブロックそのものが、いわば、自我の肥大(悪魔化)を自動的に防ぎ、倫理観や天使性とバランスを取っているところもあります。

さて、話を戻します。

さきほど、お金の問題は、それぞれのレベルで見ることを提示しましたが、そうは言っても、やはり現実(お金のこと)を無視できない自分がいるでしょう。

この現実世界を、ひとつのゲーム世界だと仮定しますと、私たちはこの世界のゲームプレーヤーです。

ここでは、通貨・お金なるものが、あらゆるものの交換道具になっています。ゲームを進めるうえでは必要不可欠なものです。

なるほど、こうしたルールのゲーム(世界)では、お金を稼ぐこと、たくさん持っていることが有利なのは当然です。

しかし、このゲームの目的は、道具(お金)をたくさん持つ者がゲームクリアーとなるのか? ゲームの目的なのか?ということです。

お金はプレーヤーがゲームを円滑に進める(ゲーム世界に存在させやすくする)ための道具ならば、ゲームそのものの目的が別にあるはずです。

もしかすると、人によっては、道具としてのお金をたくさん持つことが目的だと思ってしまっている人もいるかもしれません。いつのまにか、手段と目的が入れ替わっているのです。

しかし、逆に言えば、このゲーム世界では、お金がなければプレーができず、所持金ゼロが一定期間続くと、ゲームオーバーとなるおそれもあります。

ですから、目的はあっても、手段を放置することはできないのです。

しかも、目的達成のための数ある手段の中で、お金は、今のところ、このゲーム世界の設定では、とても有力で重要な力を持っています。言ってみれば、まずはこれを持つことから始まり、過程においても常に持っておくもの・・・という基礎・土台です。(タロットの「玉・コイン」のスート)

タロットの相談の話に戻りますが、生き方の問題、仕事の問題において、その葛藤の多くは、経済と自分のやりたいこととの狭間というパターンです。

しかし、今述べたように、この世界では、お金は目的のために必要です。

自分のやりたいことは、抽象的・象徴的にとらえて(具体的な仕事とか「やり方」ではなく「あり方」と見て)、一方、お金は具体であり、手段であると見ていくと、意外に解決の糸口が出てきます。

目的を果たそうと、熱意をもってはいても、あるいはアイデアや発想があったとしても、また優しい心や、人とのふれあいがあっても、土台である「お金」という道具が最低限なければ、なかなか難しいわけです。

まずは自分の経済的安定を図ること(儲けるとか、たくさん持つというのではなくても、一応の普通の暮らしができるレベル)、これが選択においても大事になる場合があるのです。

やりたいことばかりを模索して、ずっと経済的に困っている、不安だというのも、実は本末転倒になっていることもあります。

とりあえず、自分に余裕を持たせること、ゲーム世界のルールに基づくことにから始める(戻る)ことを意識してみましょう。

ただ、そうは言っても、ゲーム世界そのものから逃れるという意志を持つ人、ゲームのルールを超越した方法でゲームを乗り切りたいという人もいます。

これは考えみればわかることですが、簡単なものではありません。

ゲームシステムに介在し、プログラムを解除したり、ゲーム世界からの脱出を図る必要があるからです。それでもこちらの方法で、お金の縛り(ルール)から解放されていく人もいるでしょう。(タロット的に言えば、「愚者」になること、「運命の輪」を超えること)

それを目指すには、そのやり方を発見し(学び)、それ行っていく覚悟が求められます。

それから、おそらくこのゲームは、プレーヤーの集合智(多くの人の合意)によっても、システムの変更が可能な世界だと推測されます。

それゆえ、現状のお金のルールを受け入れ続けるか、変換させたいかの選択によって、ゲーム世界自体も新たなものへと移行する可能性を秘めていると言えます。

さきほどの話とは矛盾するかもですが、自分の暮らしと向き合い、お金の必要性を思うのは仕方ないところもあるとしても、一方で、大きな枠組にも思いを馳せることがあってもいいと思います。それが世界の変革につながるからです。


タロットの切り替え、処分について。

年末になってきますと、大掃除もありますし、一年の溜まったもの、いらないものを整理したり、処分したりしようという気持ちになる人も多いでしょう。

タロットリーダーにあっても、このタイミングで、古いタロットを新しいものに切り替えたいという人も出てくると思います。

そのような時、古いタロットの処分をどうするのかという問題が出てきます。

それなりに方法がいろいろとあるのですが、そのことは講座でお伝えするとし、ここでは、古いタロットの処分についての考え方、基本姿勢の視点をもって書いてみたいと思います。

結局ところ、これが答えみたいなものになるのですが、「あなたはタロットをどう思っていますか?」の質問の回答自体が、タロットの扱い、処分にも関わってくることになります。

極端なことを言えば、今のタロットは、ほとんど印刷された紙でできていますから、あくまで「物質」として認識すれば、まさに物質的処分、つまり「古い紙のカードを捨てる」という処分方法になります。もっとあからさまに言えば、「燃えるゴミとしての処分(方法)」です。

ということは、自分が住んでいる自治体の示すルールとやり方に従って、紙ゴミとして出せばよいのです。大切なのは、ここにも実は「ルールがある」ということです。たとえゴミであっても、勝手に捨てることができないのが今の日本の社会です。

しかし、タロットを神だと思っている人はいても(これもそう思うのは問題なのですが・・・)、ただの紙と思っているタロットリーダーはほとんどいないでしょう。(笑)

では、どのようにタロットリーダーである(またはタロットを扱うタロッティストである)あなたは、自分のタロットについて思っているでしょうか?

何かのツールではあるでしょうが、生き物のような、魂とか何かのエネルギーが宿ると見ているでしょうか?

その思い、認識のレベル・程度によって、タロットの処分も決めればよいのです。

タロットを、あなたが、「簡単に捨てることは忍びないと思うほどの存在」と見ている、「捨てると何か悪いことが起きると感じている」(それが正しいとか間違いとかは別として)・・・人それぞれの思い、感じ方があると思います。

それに応じた扱いと処分をしないと、結局、心理的に言えば、あなた自身が納得しないか、恐れや不安が残るのです。

また、タロットはサイキックな分野として扱われることも多く、もしあなたが、タロットをサイキックや魔法・魔術の世界の道具として扱っていた場合は、処分に関しても、それなりの儀式を必要とします。

この時のタロットは、明らかにただの紙ではなく、一種の霊的エネルギーの存在の通路やフィールド、依り代になっているからです。(そういう世界観の設定の道具となっているのを、処分時に解除する必要がある)

さきほど、ゴミ処理の時にもルールがあると書いたように、どの世界観においても、そこのルールがあるのです。ルールがある以上、そのレベルのルールに基づいて処分も必要とされます。

要するに、ただの物質としてのタロット、心理的に特別な(思いや感情が入る)タロット、占いの道具としてのタロット、サイキック・心霊的、魔法的道具してのタロット、遊び道具(カードゲームやライトな遊び感覚的な道具)としてのタロットなど、自分の扱いの種類と思い入れによって、処分の方法も決まってくるということです。

自分の扱いを超えた処分方法、またはその扱いに応えない処分方法(扱いや設定に比して過剰であったり、軽すぎたりするもの)は問題と言えます。

ただ、やはり、タロットリーダーである者、タロッティストである者は、タロットに関しては、大切な扱いと処分になってくるのは当然でしょう。

ですが、カードそのものが何か特別な力をもったり、存在であったりするというのではなく、カードに描かれている図像・デザインが、扱う者、見る者の中にある力を呼び起こすと考えたほうがよいです。カードさえ手に入れれば何とかなるというのではないのです。

そういう意味では、やはりタロットは、決定的に図像が大切であるということです。

その図像がはげてきたり、汚れていたり、裏から見ても何のカードからわかるような状態になっていたりすれば、意味をなさなくなってくることはわかるかと思います。(ほかにも、目に見えない部分の汚れ、劣化も蓄積して行きます)

だから、印刷物としてのタロットの寿命は必ずあり、それは同時に精神的・霊的な寿命ともリンクすることになるのです。

言わば、永遠性を持つ天上性の世界が、限定の地上世界に降りているのが、象徴的図像を通して印刷の紙となっているタロットと、それを扱う人(寿命を持つ肉体と、永遠性の魂を持つ人間)との関係になっているのです。

地上にあるものは終わり、そして再生される宿命にあります。現実のタロットも物質である限り、同様です。新しいものに切り替える理由は、こういうところにもあるのです。

具体的処分方法については、教わっている先生にお聴きすればよいでしょうし、先生や師がいらっしゃらなければ、今やネットを検索すれば、必要な情報はたいてい入ります。

私たちは、始めること、創造することをポジティブに見る向きがあり、タロットを入手し、リーディングしたり、自分に使っていったりすることを楽しく思います。

反面、現実世界に、物事の終わり、死、破壊、収束という方向性もあることを忘れがちです。

タロットも替え時や終わり(寿命)があるのです。

タロットリーダーであるなら、生と死の象徴がタロットにも描かれていることは知っているでしょう。

あなたの使っているタロットも、死と再生を繰り返し、カード自体の見た目に変化はなくても、あなたの学びや経験が新しいタロットに受け継がれ、大きな意味では(実は自分が)成長、リニューアル、発展していくのです。


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