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そして、時は動き出す。
家の時計が、昨日、止まりました。ま、単なる電池切れですが。
というわけではありませんが(笑)、今回は時が止まること、動き出すことについて、タロット的に見ていきたいと思いつきました。
マルセイユタロットで時間を象徴するカードと言えば、「運命の輪」がすぐイメージされてきますが、実は、ほかのカードでも時間との関係を示唆させることができます。
例えば、「節制」では、時間の有効活用ということの意味を見出すことができますし、「月」では、月のサイクルによる周期的な時間パターンを当てはめることもできます。また、「太陽」では一年という時間を見ることも可能です。
今回は、そのような時間のスパンや活用ということではなく、心理的な時間の動きを中心にタロットで考えたいと思います。
時間には、大きく分けて、物理的・計測的時間と、各人の心の中で動いている心理的な時間があると考えられます。前者は万人に共通な、いわば時計時間ですが、後者は一人一人違う進み方がある個人的な時間とも言えます。
前者は否応なく、一定の速度で進み、伸びたり、縮んだりはしません。(本当はそうではない可能性もありますが、一応そうしておきます)
しかし、後者は極端なことを言えば、止まってしまっている時間さえあります。人によって動き方、進み方が違うのですから、とても速く時間が動いている人もいれば、まさに停止したままになっている人もあるわけです。
速く進む(と感じられる)時は、たいてい時間そのものを気にしていない時で、いわば、熱中したり、夢中になっていたりしているような時です。だいたいは楽しい状態でもありますが、楽しさとかつらさとかに関係なく、ただ真剣に集中しているから、そうなっているということもあります。
問題は、時間が停止していると感じている時です。いや、時には、停止しているとさえ感じられない場合もあります。
これは心理的な時間が動いていないわけですから、心が止まっている状態だと表現することができます。心が止まるほど、何かに囚われているわけです。
タロットで言えば、「吊るし」(の問題状態)ともいえますし、「愚者」が過剰になり、どこにも居場所なく、彷徨っている(堂々巡りしている)ような状態とも言えます。
しかし、一方で、「時間が止まっている」というのは、時間(の動き)を感じさせないことでもあるわけですから、それは「永遠」というものにも近い感覚ではないでしょうか。永遠の苦しみはあまりにもつらいものですが、永遠の喜び、永遠の愛という表現になれば、それはとてもポジティブなものにもなります。
例えば、恋愛において、両思いとなり、二人の世界が悦楽状態になっている時、まあ、平たく言えばめっちゃラブラブ状態(笑)になってるい時、そこには時間はほとんどないような感覚になります。
二人で過ごしている時、時計時間は一瞬で過ぎ、同時に、二人にとっての時間は至福の永遠のようにも感じられます。
恋愛を象徴するカードでは、「恋人」カードがありますが、このカードでは、上空に天使が描かれ、下の人間たち、恋人たちの上には人間の世界を超えたものや状態があることが示唆されています。つまり、時間で言いますと、人間の時間とは違う、天使や天上の時間があるということです。
それは、計測され、分離(過去・現在・未来)された人間(地上)的時間と、統合され、永遠と感じられる天上的時間との比較です。(時間のある世界と時間のない世界)
恋をすると、天使は、この時間を、愛し合っている者にプレゼントしてくれることがわかります。
ただ、つらい片思いであったり、望みのない報われない恋をしていたり、強烈な失恋をしたりするとどうでしょうか?
実はこれ(その状況)もまた、時間が止まったようになる(感じる)のではないでしょうか。この場合は「囚われ」「強い思い」による心の時間停止です。
「恋人」カードでは、三人の人間の恋模様のような描写があり、必ずしもラブラブ状態の二人とは言えず、むしろ三角関係も匂わせる感じになっています。すると、恋に悩んでいる時も、上空の天使は別の時間を見せに来るのかもしれません。
これまで恋愛で例えてきましたが、何も恋愛に限らず、結局、ひどく心が囚われたり、逆に現実を忘れるくらいのハッピーな出来事などあったりすれば、人の心の時間は止まり、「永遠」というものを瞬間的、あるいは長期的にもたらすことになるということです。
タロットを展開した時、時系列的には過去を象徴するパートにおいて、このように過去における出来事によって、心の時間が停止してしまった場合が見受けられます。その人自身は、今や未来に生きることができず、言わば永遠に過去のその時間の状態に囚われているわけです。(まだ実現していない、あるいは実現不可能な夢のような未来像に囚われていることもあります)
または意図的に逃避(その人にとっては天国ですが、偽物でもあります)していることもあります。自分の創り上げた仮の永遠の国に逃げ込んでいるわけです。しかし、この永遠の国でこそ、癒されることもあるのです。だから、そこに逃避するわけです。
これはまた、「吊るし」の休息状態と例えることもできるかもしれません。仮の永遠の国で、思い出に浸り、傷を癒し、何度も過去の状態を繰り返し、自分の感情が治まるまでリトリートします。
しかし、ずっとそこにいては、現実の時間と乖離したままで、エネルギーも今に動かすことができなくなります。本当の自分は(偽の)永遠の国にいて、仮の自分が現実で生きているようなものです。
「吊るし」(数は12)の次には「13」というカードが控えており、12の国を壊し、脱出させることを促します。止まった時間を再び動かす必要が出てくるのです。言い換えれば、現実時間への帰還です。
心理的に停止した時間の状態とは、一見、永遠の融合感にありつつも、その実、今の自分と囚われた(ている)時の自分との分離状態でもあります。つまり、過去や囚われの自分を癒し、今の自分と一体になる必要があるのです。
それを生み出すのは、一言でいえば、愛の存在の自覚(愛の気づき)と言えましょう。
この愛は、低次の自己愛でなく、高次の大きな意味での愛です。宗教的表現でいえば「神の愛」になります。
一人で気づくのはなかなか難しいかもしれませんので、他者のサポートがいることもありますが、いずれにしても、囚われに至る出来事にも、愛の存在があったと気づくことができた時、統合が起き、囚われ(停止)の時間(心)は浄化され、今の自分・時間に戻ってきます。
「結合」による新たな時間の認識、進化と言ってもよいでしょう。
だから、こうして回帰してきた(普通の)時間は、確かに時計時間として同じようには進むのですが、実は質としては変化しており、数段上の時間を味わうことになり、人生の意味(見方)も変わってくるのです。
止まった時間が動き出す時、あなたは新しい自分となって再生したのです。
「正義」と「悪魔」
今日はマルセイユタロットの中で、対比的なカードになる「正義」と「悪魔」の象徴性について、少し考えてみたいと思います。
というのは、この二枚を比べることで、私達の中にある、まさに文字通りの「正義性」と「悪魔性」を見ることになるからです。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナは、意識や心の元型を象徴する部分もありますので、いわば22枚の、皆に共通の心のパターンがあると考えることができるわけです。
だから、「悪魔」の心も「正義」の心も、やはり、誰にもあると述べることができます。
たぶん、普通の人は、自分が悪魔の心のみでできているとか、どんな時も正義の心でいられるという人はいないでしょう。それだけ人間というのは、いろいろな心を持っているのだと言えます。ですが、考えてみれば、それだけの心の種類が多いのも人間であり、つまり「自由度」が高いわけです。
余談ですが、カードの中に数を持たない「愚者」があり、このカードは何者にも染まらないか、逆に、何にでも染まることのできる自由性を持つ、私たち人間自身の心を象徴しているとも言えましょう。
さて、その中でも、とりわけ強い対比、対称性を示すのが、「正義」と「悪魔」です。面白いことに、タロットの数のうえでは、「正義」が8(ここでは、すべてマルセイユタロットを基準して書いています)であり、「悪魔」は15です。
マルセイユタロットの教義においては、大アルカナの数の順序が、そのまま人間の成長度合いを示すというものがあります。(実はそんなに単純なものではなく、これには深い見方があるのですが、ひとまず、わかりやすくするため、そう書いておきます)
すると、「悪魔」のほうが数が上なので、数として見れば、「悪魔」のほうが「正義」より優れているようなことになってきます。一般的に見て、これは理解しにくいのではないでしょうか。
確かに、「悪魔」は、そのままでは悪い者の象徴として普通に見てしまいますから、言葉としても“正義”のほうがいいに決まっています。
しかし、タロットはそうした(植え付けられた)常識や、これまで当たり前と思っている自分の観念を壊すためにも存在しています。つまり、それは破壊ですが、解放や浄化でもあり、別の意味では新たな創造にもなるのです。
少し考えてみてください。あなたの中に、正しいこと、清らかなこと、聖なること、美しいこと、向上すること・・・(清く、正しく、美しくのような文言で例えられますが)などが強く求められている時、一方で、疑いを持つこと、変わっていること、常識外のこと、醜いこと、俗なこと、堕落したこと・・・などで例えられるような気持ちが、ムクムクと起きてくることはないでしょうか。
言ってみれば、正しいことに刃向かうような反抗心のようなものであり、秩序だった世界を壊したい、無茶苦茶にしたいという破壊衝動と、それに伴う爽快感、快楽のような心です。
なるほど、ある決まったルールや秩序の世界では、それを破るもの、反抗するものは悪です。
ルールを守らないはみ出しもの、時には(法律や規則、道徳を破る者は)犯罪者と言ってよい場合もあります。ですから、ある規則で守られた社会・世界側から見れば、それを壊す者は「悪魔」となります。逆に言えば、きちんとルールを守って暮らしている人、特にルール遵守に優れている人、そのルールの番人たちは「正義感」あふれる人となるでしょう。
しかし、このルールで守られた社会が、必ずしもよい世界とは限りません。
その規則・秩序も、行きすぎたものになったり、ただ一部の人が大勢の人々の自由を奪うために作られ、守られているものだったりすれば、それはまさに支配であり、抑圧となります。こうなると、一見「正義」のようでいて、支配する「悪魔」だと見ることも可能です。
私たちは社会人になっていくにつれ、もともと持っていた自由なエネルギーと心を社会に適合するよう矯正され、結局のところ、次第にそれを失っていきます。
一部のクリエイティブな人、常識外になっても自分自身を保っている人は、例外として、それを持ち続けることができますが、たいていの人は、自らの牙(角)は折り、または隠し、従僕な羊(角は丸めます)として過ごしていくことになります。それは皆が快適で安全な社会生活を営むためには必要なことでもありますが、一方で、情熱や熱狂、すばらしい創造性と独立性、さらに自由性を失っていくことにもなります。
「悪魔」は、こうした私達の中にかつてあったものを象徴しているのです。一方で、私たちの常識的世界では、「正義」の名のもとに懐柔され、創造的で情熱的なエネルギーは、別のものに消費されます。
こうしてみると、マルセイユタロットの「悪魔」の絵柄の、まさに悪魔の人物のところに、「正義」の裁判官のような人をすりかえて置くと、その状態がよくわかります。
けれども、これは「正義」の中の「悪魔」性として見た場合の話で、「正義」も「悪魔」になりうること、「悪魔」のエネルギーがよくも悪くもなく、それをどう扱うの問題で考えた時の話です。
さらに「悪魔」と「正義」について見る時、それぞれにおいて高次と低次のものがあると考えるとよいでしょう。
つまり「悪魔」の中にも高次と低次の「悪魔」があり、「正義」の中にも同様に、高次と低次の「正義」があるのです。
高次の「悪魔」性においては、実は私たちを束縛(決まった社会、平凡で常識的なつまらない世界)から解放する、自由で独立的なエネルギーが流れます。しかし低次においては、私たちを誘惑し、堕落させ、自己中心にさせ、ただ肉体的・物質的快楽を中心とした世界に埋没させるようになります。
他方、「正義」においては、高次ではどんな時にでも、中庸でバランスを取り、何かに囚われる(傾く)ことなく、厳格に自他ともに律し、秩序を保ち、平等的観点で物事を見ることが可能になります。しかし低次においては、自分の信ずる(自己保身の)ルールこそがすべてになり、他者、あるいは自分に対して批判的になり、ルールからはずれものは排除し、非難をするようになります。この(低次正義の)時、「正義」の裁判官は、「悪魔」の中心人物に取って変わられているのです。
「悪魔」に誘惑されている時、「正義」の剣は、それを断ち切ることができ、逆に、がんじがらめのような「正義」の規則に苦しめられている時、「悪魔」の混沌や愉悦は、私たちを楽にさせます。
人は、自分の湧き起こる心をコントロールすることができません。感情や気持ちは瞬間的、自動的に生じるからです。しかし、起こった感情・気持ちの影響自体をコントロールすることは可能です。
ただ、コントロールのきっかけや術(すべ)を持つことが難しいわけです。
マルセイユタロットの場合、人の心(とその影響)パターンを示しますから、いわば、カードの絵そのものが、影響をコントロールする「切り札」のようなものなのです。
例えば、先述したように、「悪魔」に侵されそうな気持ちの時は、「正義」のカードをイメージすると、自分をまともに保ち易いですし、もっとラフになりたい時は、「悪魔」のカードを思い浮かべると、気持ちが楽になってくるという具合です。
単に絵をイメージすることだったら、ほかのものでもOKでは?と思うでしょうが、マルセイユタロットには、その絵柄(構図と色)自体に秘密があり、イメージすることは、普通に考えられている以上に効果があります。そこが単なる象徴カードというものと、マルセイユタロットとの大きな違いと言えます。
ともかく、皆さんの中にある「悪魔」と「正義」、それらを比較しながら、魂の解放の方向性を見つけられればと願うものです。
「節制」と「星」を例にしたリーディング
マルセイユタロットの「節制」と「星」は似ているカードです。
一番の共通点は、女性と思われる人物がいて、ともに水瓶(壷)を持っているところでしょう。
しかし、注意して見ると、同じ水瓶でも、微妙に違いがありますし、何より、「節制」と「星」とでは、水瓶から流れている(流されている)液体の方向性(流出の仕方)が異なります。
「節制」のほうは、ふたつの水瓶の液体を混ぜ合わせているかのように見え、一方、「星」は、それぞれの水瓶から別々の液体をただ流しているだけに感じられます。
つまり、水瓶から出た液体が、水瓶の間から出ないのか、出ているか(内に注がれているか、外に注がれているか)の違いと言えます。
タロットは象徴として読むことが基本です。
こうした水瓶の扱い、そこから出ている液体の流れの方向性などを「象徴」として考え、実際の事柄に適用していくことで、タロットリーディングが成立します。
ということは、単純に同じ図柄だからといって、まったく同じことを読むことにはならないわけです。
「節制」と「星」はこのようによく似ているだけに、逆に違いが明確にもなってくるよい例なのです。
例えば、この液体をお金の流れ、扱いだとしてみましょう。
「節制」ではふたつの水瓶の間を行ったり来たりしています。ということは、お金を一方から一方へ移し替えているとも言えますし、収支や一定(量)のお金を、うまくやり繰りしているとも考えられます。そもそも「節制」という名前も、この液体の扱いから出ているわけで、お金だったら、まさに節約している状態と言えます。
では「星」の場合はどうでしょうか。
「星」は、かなりの勢いともいえる液体の流れがあり、水瓶に戻ってきている様子はありません。ということは、お金が支出のみというようにも見えます。支出のみでも困らないというのは、どんな状況でしょうか? ちょっと想像してみるとよいでしょう。
例えば、見える形(描写として液体があること)では確かに支出なのですが、それくらい出せるほどの、どこかに(わからないところに)お金がある(収入がある)とも考えられます。
それは見えないエネルギーや自分の持つ情報のようなものが、「星」の彼女の場合、すでにお金に変換できる状態にまで達している(知識や技術をお金に換える方法を熟知している)とも想像できますし、もしかすると、彼女自身のお金ではないものが、誰かから供給されている可能性もあります。
ともかくも、「星」の場合は、節約する必要はなく、ふんだんにお金を出せるわけです。とすると、お金の使い方・扱い方、もっと言うとお金に対する考え方そのものにも、「節制」と「星」とではかなり違いが出ることになります。
では、人間のサービスやサポートということで見るとどうでしょうか?
「節制」はふたつの水瓶と液体を交互に混ぜ合わせているように見えます。ということは、人との交流を意識していると見てもよいわけです。ここから、サポートしあう、助け合うというイメージが出ますし、ふたつの水瓶の間ということから、その助け合いの範囲は限定的とも予想できます。
「節制」のカードが出る時、それは特定の人にサポートしたり、逆にサポートしてもらったりという、そのポイントが絞られるということが、ひとつには読めてきます。
これが「星」の場合は、だだ流れに近い状態ですから、対象範囲はかなり広い、非限定的(限定があるとすれば、液体の広がる範囲)と言えるかもしれません。
また「星」は、ふたつの水瓶からの液体の流れ方も、マルセイユ版では異なって描かれているものが多く(色の違いの場合もあり)、つまりは、別々のサポートの方法、技術があるとも考えられます。言ってみれば、表からのものと裏からのものとの両方の手厚いサポートがあるわけです。
しかも「星」は、ひとりで行っているということが重要で、助け合いの「合い」ではなく、しゃれではありませんが(笑)、「助けが愛」になっているとも言え、独力で大きな愛のサポートを、広範囲で行えるものがあると言うわけです。
もう少し狭く考えたとしても、少なくとも、特定の人に対してではなく、複数の人に共通のサポート方法が考えられると解釈することができるのです。
「節制」はそれぞれ個人(個別)に調整・適合したサポートであり、「星」は共通で普遍的なサポートと言ってもよいでしょう。(ただし、「象徴」ですから、必ずしもそう決まるわけではありません)
ですから、あなたが「節制」を引くのか、「星」を引くのかによって、関わる人間の範囲、サポートの求め方、提供の方法なども、その示唆するところが変わってきますから、きちんとカードの絵柄を見ていないといけないわけです。
こうした絵柄の細かなところを観察して比較していくことで、タロットからのメッセージを明瞭に読み取るのが、マルセイユ版を使ったリーディングの特徴と言えます。
これにさらに、一枚全体性の象徴、絵柄のほかの部分の象徴、展開されたほかのカードとの関連もありますから、情報量はかなり多くなるのです。
まるでそれぞれのカードの絵柄の鍵をヒントに、あるストーリーを読み解く謎解きに近く、そういうものが好きな人には、とても面白く感じられることでしょう。
占い師の人でタロットを習いたい人に。
タロットと言えば、占い(のツール)だと一般には思われているうえに、占い界でもタロットはよく使われる道具と技術なので、占い師になる方は、ある意味、必須の習得技術・ツールのようになっています。
占いには、命(めい)・卜(ぼく)・相(そう)という有名な種類分け(区分)があり、占い師は、この3つを習得すべしと言われています。
相占はちょっと特殊なので(と言っても、相占のひとつ、手相をやる人は多いうえに人気ですが)、ポピュラーなのは、命占と卜占のふたつを(習得し)組み合わて行う占いです。
例えば、東洋系では四柱推命と易、西洋系では西洋占星術とタロットです。そう、タロットは卜占に当てられています。
タロットは易とは違って、絵のついたカードを使うので(イーチンタロットという易的なタロットがあったり、易の卦をタロット化した使い方をする人もいたりしますが)、なじみやすく、人気で、相手に伝えやすいとも思われていることもあって、易は知っていても、タロットをまた習う人も少なくないようです。
しかし、占いの世界では、お客様や相談者から求められるのは、当たるということ、または、よいほうの選択など、具体的な答えということもあって、意外に象徴的に考えるより、具体的・記号的な物事の思考(決めつけ)をする人がいらっしゃるわけです。
タロットで言えば、正しい答えを欲する傾向にあり、「この展開では、また、このタロットカードが出れば、どう読めば正解なのか?」ということを求める人になります。
このような、ひとつのことにひとつの答え、カードの読み方に正答があるという思考は「記号的」なものであり、タロットが象徴でできていること、象徴の体系・システムにあることが理解できていないことを意味します。
もちろん答えがないわけではないのですが、その答えは象徴的なものなので、いくつもの次元や層の異なった答えがあり、その選択と導きを考えないといけないものなのです。
そもそも、ほかの占い技術(理論)も象徴が基本のはずですから、根本的には同じだと考えられるのですが、先述したように、実際の占い現場では現実的な正答的回答(アテモノ的ともいえるもの)を求められることが多いので、そう(記号的な思考に)なってしまうのです。
それが一概には悪いとは言えませんが、結局、そうした当たる当たらないの世界の価値観でしか物事をとらえることができなくなり、現在生じている問題を、今より高いレベルや深い観点で見極める(理解する、悟る)ことができにくくなります。
言い換えれば、より大きな成長性・自由性・解放性を阻害すると言ってもいいかもしれません。
しかし占い界(現場)での現実問題、実際のところというのも、私も現場にいたことがあるのでわからなくもないです。
そこで私から提案したいことがあります。
タロット一本、タロットをメインとした占いをする方は別として、タロット以外の、特に命占を中心に学び、実践されてきた占い師さんは、タロットを本格的に勉強(タロット占いを)しなくても、タロットを活用する方法があるということです。
私はタロットが専門なので、その私が言いますが、タロットもほかの占い技術・ツールと同様、簡単なように見えても、使える(きちんと占えるよう)になるには、それ相応の学習と実践の時間、蓄積がいります。
しかし占い師さんの中には、タロットをバカにしている人、あるいはそこまでではなくても、タロットは理論的ではない(学ばなくても)感覚的に読む(読める)ものと思っている(から簡単で平易なものと誤解している)人もいます。
そいういう人は、タロットをわざわざ学ばなくても、今の自分の占い理論・技術でやっていけばよいのですが、どうも、占い師の雇い主さんとか、お客さんの人気や好みなどで、やむを得ず、タロットを習いたいという占い師さんもいるわけです。
ですから、そういう人に特にうってつけの方法なのです。
まず、命占を中心にした自分の確固たる理論的(実践してきた)占いをベースにします。お客様に提供する占いの基本がそれだということです。
それでひととおり、運気の流れとか、チャンス、注意事項など、これまで通り、お客様の質問に応じて回答していきます。
ただ、命占の場合、流れはわかっても、今、この時の状況そのものとか、恋愛などで相手の気持ちはどうか?というようなもの、短期的な選択事項、さらにはお客様の心の中の模様(気持ちや関心、本音と建前など)がわかりづらいかと思います。
また卜占の易であっても、確かに明確に正しい選択とも言える方向性を示してくれるでしょうが、「あるルール」に正確過ぎて、人間的な感情の揺れ動きや気持ちの所在などがわかりにくいところがあります。
つまり、運勢的に正しくはあっても、人間的な感情・気持ちについては、無視されるようなところもあるのです。
いや、結果が正しければいいではないかと思うかもしれませんが、人間は機械ではなく、気持ちがあります。思考(論理)と感情(気持ち)の両方が腑に落ちて、本当の意味で納得するのです。頭だけでも、心だけでも、どこかしっくり来ないものです。
タロットは人間などが描かれた絵柄であるので、そういった「人の気持ち」「心模様」を投影させることができます。簡単に言えば、映像として確認することができるのです。
マルセイユタロットは占い向きではないのですが、反対に、占い向きの部分もあり、それは人物がはっきり描かれていて、その視線も鋭いことです。ということは、人間の関心の方向性を視線などで読み解くことができるわけです。
ちょっと説明が長くなりましたが、要する、相談者や、質問に関係する人物の気持ちや現況を、絵として確認するために使えばよいということです。
タロットを詳しく読もうというのではなく、また詳しくタロット占いをしてあげようというのでもなく、単純に、今の気持ちはどうかとか、今の悩みの状況を占い師とお客様とで、絵として確認するためのツールとして使用するというものです。
占いの確かな部分とか質問に対する回答やアドバイスは、自分の今までやってきた占いの技術と方法でやればよいのです。
ただ、お客様の心を安心させたり、気持ちの有り様を絵で確認してもらったりすることに、タロットを使うということです。
まあ、そういう使い方だけであっても、一応の基本の見方を学ぶ必要はありますが、それでも本格的なリーディングとか、タロット占いをするわけではありませんから、一日、二日あれば、その程度のものならばできるでしょう。
もしご希望があれば、(タロットを知らない)占い師のための、簡単なタロットの使い方講座(本格的なタロットリーディングやタロット占いを教えるのではなく、タロットを今の自分の占いとどう組み合わせて使えばいいかということを中心に解説・実践するもの)をやってもいいかなと思います。
タロットリーダーはタロットを信頼する。
タロットを学ぶと、タロットの活用として、もっともポピュラーな「タロットリーディング」をしてみたくなるものです。
いや、してみたいというより、学習する過程では必須の事柄と体験と言ってもいいかもしれません。それだけ、タロットの活用においては、タロットリーディングは重要なわけです。
こう書くと、もしかすると、タロットリーディング以外の方法でタロットを活用するやり方があるのですか?と思う人もいるかもしれませんが、それはたくさんあると言っておきましょう。(笑)
しかし、そう思う人がいるくらい、やはりタロットといえば、リーディング、そしてもっと普通の人が思うもので言えば「タロット占い」が当たり前になっていると言えます。
ただし、私の考える「占い」と「リーディング」は別物です。とはいえ、やり方としては同じ方法を使いますので、リーディングの一部に占いがあると述べてもよいかもしれません。
さて、タロット占いにしろ、タロットリーディングにしろ、展開されたタロットの象徴性を読み手(タロットリーダーや占い師)が読んだり、解釈したりするわけです。
読み手であるタロットリーダー側に必要なことは、もろちんタロットの象徴性の知識や意味、展開方法(タロットの引き方と並べ方)とその配置の意味などになりますが、それ以前に、大前提として大切なのは、タロットを信頼しているかどうかということです。
タロットをする人がタロットを信頼しなくてどうする? という話なのですが、これはいろいろな意味(種類)での信用性があるので、少々やっかいなテーマなのです。
当然、タロットを活用する人は、全員タロットを信頼しています。
しかし、ただのツール(道具)としてしかタロットを見ていない人にとっては、タロットを本当の意味では信頼していない人もいるかもしれません。例えば、お金儲けやパフォーマンスが目的で、「別に道具は何でもいいんだけど、占いと言えばタロットが人気らしいから使ってみる・・・」みたいな感覚の人です。
まあ、そんな特殊な人以外は、普通はタロットを信頼しているからこそ使える、使おうと思えるはずです。
しかし、基本は信頼しているものの、いざ、他人に対してタロットリーディングを行って行くようになったり、また自己リーデイングをやってみたりしていく中で、どうにもタロットがよく読めない時とか、本当にタロットが言おうとしているのはこれでいいのか?・・・一体、何を伝えようとしているのか?とか、信頼性に揺らぎや混乱が出る場合があります。
その前に、タロットは本当に信頼に足るものなのかどうか、学習(知識)過程だけでは実感しえないところもあるので、インパクトあるタロット(リーディング)の体験も経験していくことが望ましいでしょう。
これを私は「神の家」体験と言っています。「神の家」体験は、理屈を超えた衝撃的なもので、しかしよく考えてみると合理性もあるという不思議な体験です。
そうしたことを経て、タロットへの信頼が揺るぎないものになってくるのですが、それでも、タロットリーディングの活動を行っていくと、先述したように、迷いや疑問も出てくるのです。
それは、実際にタロットを読んでアドバイスしたものが、あとの報告で間違っていたとか、リーディングの内容がピンと来ないものだった(占いでは当たっていないというもの)とか、クライアントから指摘される類のものからのこともあります。
そうすると、結局、何をどう信頼すればよいのか、信頼性の根拠というものがもともとわかりづらい(抽象的な)ので、特に具体的な占い内容とか、アドバイスとかになってくると、カードを読んで出した内容と齟齬を来すことも十分にありえるわけです。
この(齟齬や間違いと感じるものが起こる)仕組みについては、私はタロットの講義で詳しく説明していますが、今は長くなりますので、割愛します。
ただ、今回の記事の言いたいことにもなるのですが、簡単に述べると、リーディングにおいて、タロットへの信頼性に揺らぎが出るというのは、あくまでタロット自体の問題ではなく、タロットリーダー側にそれがあると思っていただければよいということです。
タロットという象徴は、すべて信頼に足るという大前提が必要です。いわば、大げさには、宇宙そのものや、知りたいこと全部を象徴していると考えます。
そして、質問に応じたもの、あるいは、その時に必要なクライアントの示唆の「形」がそこに出ていると見ます。
タロットというシステム(78枚、または22枚と56枚というシステム)が(大)宇宙そのもので、質問に応じて展開されたタロットは、個人(クライアント)のその問題に関連して示された小宇宙の世界です。
この小宇宙とタロット全体としての大宇宙(22枚の大アルカナを全体の象徴と見ることも可能です)がシンクロし、私たちは個別の問題を扱いながらも、大宇宙のシステム・モデルに還元・調整していく作用にもなっているのです。
シンプルに言えば、展開されたタロットに、大きな意味、本質的に間違いはないのです。言い換えれば、そこにすべてがあるのです。(すべてのカードは出ていませんが、選ばれたカードが小宇宙として、全体の小さなモデルでもあるということ)
要するに、リーディングに間違いが出たり、タロットの信頼性に疑問符がつくようなことになったりするのは、読み手側の意識とか、読む階層・分野、そして適用がズレているということなのです。
読み手も、そしてクライアントも人間ですから、人間は本来的には完全性を持ちますが、一方で、通常意識においては、低次や動物性など、様々な不完全性に虚飾された存在でもあります。
ゆえに、お互い(読み手と受け手)のズレ、タロットとリーダーとしてのズレも生じるわけです。
結局、間違い(いい・悪い、正解・誤答)というのは人間が決めた概念(規則・価値観)によるものですから、タロットに間違いなどなく、どう解釈するか、どう読むのかの人間側に問題があるのです。
そして、そもそもタロットが間違いだと思っている(信頼がない、薄らぐ)時点で、タロットは扱うことはできません。それは何より、タロットにもそうですが、リーディングする相手(自分への場合は自分)に失礼な話です。
間違っていると思うものを基準・テキストのようにして語るなど、本質的には詐欺師そのものとなるからです。
タロットリーダーは、何よりも、そしてどんな状況においても、自分の使うタロットを絶対的に信頼する必要があります。そこから修行が始まる(マルセイユタロットでは「手品師」の象徴)と言ってもいいでしょう。
あなたが引いた、またはクライアントが引いたカードに「すべてはある」のです。
