らせん~ある講演より

 新聞で知りましたある講演会に行って参りました。ケイ・ギルバートさんという死生学の専門家の講演です。なぜこの講演が気になったのかと申しますと、


実は、ギルバートさんが関西での講演を兵庫県・神戸にて開催された理由にもあるのですが、やはり阪神大震災や尼崎列車事故などで、兵庫県では身近な大切な人を亡くされた方が多いだろうと考えられることで、心の問題を扱う兵庫県に住む人間として、今後そういったクライアントの方と対することも予想されることから、自然と足が向いたのが理由でした。
 この講演の中で特に印象的だったのは、大切な人を亡くした悲(哀)しみ・心の痛み(これを英語では“グリーフ”と表現されていました)を和らげていくもののひとつに、「らせんの動き」をするということが語られていたことです。「らせんの動き」というのは、そのままらせん状にに運動するという意味ではなくて、もっと深い意識的な意味合いです。しかしながら、ちょっとこちらの理解力のなさも手伝って、うまく説明できるほどギルバートさんのおっしゃった意味を咀嚼していないのですが、だいたいの印象で言わせていただきますと、「らせんの動き」とは、大切な人を失った悲しみを受け入れ難くも徐々に受け入れ、ある種の落ち着きが感じられるようになった時に、それまで自分の内的な世界で留まっていた悲しみの状態から、やがて少しずつ外に向けて活動(ボランティアなどの)を始めていき、悲しみと癒しの状態を行きつ戻りつしながらも、次第に意識と心の世界が拡大上昇されていく(動きの)ような状態のことではないかと、私は受け取りました。その動きになるきっかけは、つらいながらも、悲しさを感じてつらくなっている自分自身を許すことにあり、また他人や自然を愛し、許せるようになることのようにも感じました。「らせん」という言葉と動きは、タロットや宇宙のことを学んだり、ふれたりしていると必ず出てくるものであり、さらにこのギルバートさんのご説明では、「らせんの動き」が、実は「心を磨くチャンスにもつながる」というお話もあり、より感銘を受けた次第です。
 私自身、とてもグリーフと呼べるような身近な大切な人を失う悲しみの体験はないのですが、最初にふれさせていただきましたように、災害を経験したここ兵庫県では、少なくない方々が不慮のことからそのようなグリーフの状態の中にあることが想像されます。経験もしていない者がなかなかグリーフのことを語ったり、そのお心を癒していくことなどできないとは思いますが、自分自身としては、せめて地震の被災者として、また人の相談をしていく者として、死と生のこと、死別で残された方々の大変思いの存在、命の尊さなどを忘れず、考えていこうと思っております。

コメント

  1. さち より:

    こんにちわ!
    はじめ、『ケント・ギルバート』ってそういう活動をしているのか・・・と勘違いしておりました(^^;
    私は災害でではありませんが、母を病気で亡くしています。「らせん」と聞いて、だんだん癒されてゆくものの、その時の通過点に近づくと、悲しみなどの感情が蘇るというイメージを抱きました。これはあくまでも自分の経験ですが、他の方もそういうプロセスを辿っておられるのでしょうか。
    しかし、時間の経過と共に思い出が幸せだったなぁ。と、癒しの一部として機能するようになりました。
    本当に無駄な経験って、ないんですよね。

  2. miyaoka より:

    さちさん、コメントありがとうございます。
    お母様を亡くされてのつらいご経験が癒されていく過程は、まさに「らせん」の動きのように感じます。
    >その時の通過点に近づくと、悲しみなどの
    >感情が蘇るというイメージ
    そうですね、その蘇る感情が次第に年月やその他の経験によって、段々と悲しみだけの感覚でなくなっていくようなことがなんとなくイメージされますね。ギルバートさんは、「らせん」のイメージについて、「後ろを振り返った時、悲しみからはじまった点が、らせんを描いて光り輝く軌跡に見えてくる」というような表見をされていました。
    なんだか、さちさんの語られたことと、とてもよく似ている印象があります。

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