日本民俗学とタロット-「愚者」の考察より-

 不思議なことですが、カモワンタロットを見ていますと、日本民俗学で説かれていることと共通するところがあるような気がしています。


 もちろん、タロットが世代や民族を超えて、人類のある種の元型を象徴していると言われているので、それは当然といえば当然でもあるのですが、自分自身でその発見があると、やはり新鮮な驚きがあります。
 例えば、「愚者」というカードがあります。このカードの絵柄は、あまり身なりを構わない一見「愚か者」のように見える人物(それゆえ、「愚者」という名前がついています)が、巡礼のような旅をしている姿が描かれています。これを普通に見ますと、カードの人物が「旅をしている」となるわけなのですが、別の観点から見ますと、「やってくる」というようにも思えるわけです。この「やってくる」ということと、「巡礼や修行をしている人」という意味を両方重ね合わせますと、まさに民俗学でいう「来訪神」や「マレビト」ということを想像してしまいます。来訪神とは、遠い異界から祖神(霊)が季節や節目に村々に来訪し、祝福や特別な力・出来事を起こして去るという神や人物をいうものですが、訪問してくる姿として、修行僧や山伏、また仮面をかぶった異形の様体で現れるということもあるようです。このシーンを「型」として、各地で祭祀や年中行事なとで取り入れられている地域は今もあるはずです。この来訪神たちは、村に新しい価値観や変化をもたらすというわれています。その変化の力の源泉は、死んだ者たちが集まるあの世や常世の世界からやってきたと想像される超越した「神」としてのものにあるわけです。
 翻ってタロットカードの「愚者」にも、実は同じようなことが言えます。愚者の「彼」は一定のところに留まらず、修行の旅をしているわけてすが、それが村々を訪れる「来訪神」そのままに見えます。また彼はもともと大きな力を持つ存在でもあり、一種の霊能力を持った神的な異形の存在ともいえます。彼が「日常の村」にやってくることで、人々は祝福を受け、新たなる力を獲得し、膠着していた小さな世界に、新鮮な息吹が与えられていくのです。それはまさに、タロットカードでいう「愚者」の、「何にもとらわれない力」といえましょう。古来、日本の旅する山伏や僧侶は、自分の信奉する寺社の勧請に村々を回っていました。これらが来訪神の信仰と結びついたこともありますが、実際、彼らのもたらされる情報と寺社への勧請が、平凡な村人の生活に刺激と情報を与えていたこともまた事実です。
 さて、かつてのその農作で変化のない村人の日々(ケ)を、現代のわれわれの普段の日常生活へと置き換えてみますと、そこにタロットカードが展開された時、現代の「来訪神と」しての「愚者」が異界から登場し、既成概念や惰性な日常を打破してくれる(ハレ)とも考えられるでしょう。タロットはいわば「ケ」を「ハレ」の空間に変化させる道具とも言えます。そうして、パワーの落ちた「ケ」を活力のある「ケ」に戻してくるのです。このように、民俗学の成果からタロットカードを観察するのも、とても面白いことだなぁと思います。
 

コメント

  1. やゆよ より:

    さすが、Miyaokaさん(^^*)
    深いお話をありがとうございます。
    こういうお話大好きです♪♪

  2. miyaoka より:

    やゆよさん、こんにちは。書き込みありがとうございます。
    タロットは、いわば、なんでも当てはまる魔法のツール
    のようなものですね。また何か見つけたら、書かせて
    もらいます。

Top