自分でする占いや自己リーディング
一般的にタロットと言えば「占い」であり、ということはその観点に立てば、「人に占ってあげる」ことがタロット学習の目的となります。
あるいは人にしなくても、「自分で占えるようになる」ということになるでしょうか。
もろちんタロットは占いで使えるツールでもあり、そのような目的も間違っているわけではありませんし、占い師になりたい方には現実的なテーマでしょう。
占いとは少しニュアンスが違ってきますが、「タロットリーディング」という言葉に置き換えても同様です。
その場合も、「人か自分にリーディングができるようにしたい」ということがタロット学習の目的となってきます。
いずれにしても、人に占いやタロットリーディング提供する場合は客観的にカードを見ることができます。
ところが自分でリーディングする場合は、人にする時のようになかなか客観的になることができません。
それでは私がよくこのブログでも書いている「タロットは自分に使うもの」ということができないのではないかと思われるでしょう。
自己リーディングは確かに難しいところがあります。それは先述したように、客観的な視点が持ちにくいということにあり、極端に悲観的になるか楽観的になるかに傾くことが多いためです。
いわば最初の自分の思いこみや願望(こうなってほしい、こうであれば・・・)に左右されがちということです。
では「タロットを自分に使う」ということは「自身に占いやリーディングをすること」ではないのかと言えば、ある意味、その通りです。
私がタロット講座で目指しているのは「タロット占いができるようになる」「タロットリーディングができるようになる」、これが目的ではないのです。
「タロットを自分で使う」ということは、単に「タロットリーディングができる」ということではなく、タロットの象徴を理解し、タロットによって物事や事象の整理を行い、気づきを得て自分の再統合を図っていくということを意味しているのです。
具体的には、カードをいろいろなことにあてはめて考えていくことにその基礎があります。
そして、実のところ、「自分にリーディングする」ということは、その象徴性をあてはめていく作業のひとつでもあるのです。
タロットと自分の理解のために自己や人のリーディングがあると言ってもよいでしょう。
ですから自己リーディングによってうまくタロットが読めなくもOKです。客観的になれないので、それが当たり前だと言えるからです。
ただし技術不足で読めないこととは別です。
「人にはリーディングできるけれど、自分になるとできにくい」ということが当然だと言っているのであり、「人にも自分にもうまくリーディングができない」のは単に技術が未熟なだけです。
とはいえ、自分で方向性を知りたいと思うこともあるでしょう。そんな時はまず自己リーディングしたあと、タロット仲間にその展開を見てもらうのがよいです。
そうすると客観性を保ったリーディングが可能となります。その意味でも、同じタロットと技法を学んだタロット仲間は必要なのです。もちろん相手が困った時にも、自分が見てあげることもできます。
繰り返しますが自己リーディングがうまく客観的にできないからと言って、自己リーディングすることが無意味というわけではありません。
自己リーディングの場合は、きちんと読めることよりも、それを行うこと自体に意味があるのです。
またタロットリーディング(特に人に対してのもの)は結果として、あるいは過程としできるようにもなりますし、軽視できるものではありません。
私の講座の場合、「タロットリーディングができるようになりたい」という目的の人には、それ相応の内容も提供しているところです。
生年月日をきいてくる占いの類にどういった合理性があるのでしょうか?
タロットではどうなんでしょう?
>タロット太郎さん
誕生日をもとにするのは、天体とのつながりを見る場合が多く、あるいは数に象徴性を込めて見る場合とがあります。天体の動きはある程度計算できますので、それこからも数との結びつきがあります。
いわば数や天体の象徴的意味を、自分の生まれた数やその時の天体の位置と合わせて運命的にある事柄が刻印されていると見るということです。(これは私の考え方ですが)
現代の意味での合理性とは違うので、その観点からでは合理性はないと言えます。
タロットは基本的に生年月日から見る占いではないので、あてはまりません。