タロットが語る自由とは。

タロットのひとつの大きな教え(思想)には、魂の解放ともいうべき事柄が込められています。


平たくいえば「自由になること」であり、すべての制約からはずれるということでもあります。


ですから自然、タロットをしていると自由な気持ちになったり、自分を制限しているものから逃れようとしたりする気分になってきます。


ということでタロットは自由になるための道具でもあるのですが、この「自由」ということを性急に求めすぎると、無秩序の中に放り込まれるかのような混沌(カオス)の世界で迷うことになります。


タロットでいえば、「愚者」からいきなり「世界」を求めるようなものです。これは時に危険なことにもなり、悪魔の世界(堕落の道)にも通じてしまうことがあります。


言ってみれば「何でもいいんだ」「何やってもOKなんだ」ということになり、「幻想としての解放」に逆にとらわれてしまうです。


いえ、実は究極的な目的(自由になること)としては、「何でもOKだ」となることは間違いではありませんし、むしろそれが正しいとさえ言えます。しかしながら何事も段階があるということなのです。


もう少し詳しく説明すると、最初の段階で人が自由ということでイメージするのは「楽(らく)」ということになり、それは「快楽」を求めることと同意義になるのです。


快楽を求めるということは不快を避けて快を選ぶということであり、とどのつまり、好きか嫌いかという気分的なものに支配されることになります。


これではエゴ(悪魔と表現される部分でもあります)の思うツボなのです。


それでは真の自由を求めるにはどうすればよいのかということですが、タロットでいえばまず「運命の輪」や「吊るし」を意識するということです。特に「吊るし」は重要です。


「吊るし」は一見、とても自由とは相反するようなカードです。


おそらくマルセイユタロットで通常の「吊るし」の意味を解説されていないと、ほとんどの人は誤解をしていることでしょう。すなわち、「吊されている」「苦しい」状態であると。


しかし、「吊るし」は本来能動的であり(あくまで私の解釈ですが)、自分からこのスタイルを取っています。


またたとえ「吊されている」「狭い世界に閉じこもっている」ように解釈できるとしても、自由をテーマとすることがこの「吊るし」では可能なのです。


それは制限された世界だからこそ、その中で自由を発見し、遊ぶことができるかが試されているといえるものです。


制約の中での自由性、活用性を見いだすことに「吊るし」のひとつの意味があると考えられます。


制限や制約があったほうが、実は自由を見つけたり理解することが容易になるのです。それは逆説的に自由ではない部分がよりはっきりとわかるからです。


ただ自由ではない部分によって自由を見い出すことだけではなく、先述したように制限された中でも自由になれる自分を見つけていくことにも価値があるのです。


こうして発見し身につけた「自由」は本物です。


一度自分を縛っている枠を見つけることにもつながりますし、それを見破ることにもつながり、また感情レベルも超えているからです。


実は「吊るし」だけではなく、タロットは特に大アルカナ22枚すべてに自由があり、逆にある種の制約テーマもあります。(「制約がない」ともし言えるとすれば、「愚者」と「世界」の二枚でしょう)


タロットは自由になるための道具でもありますが、使い方を間違うと反対に何かの奴隷になってしまうこともありますので注意すべきです。


結局それはタロットをどう使うか、何を目的とするかによって決まるといえます。


ですから私はタロットを霊性の向上、人生のクオリティを高めるために使っていくことを目的とし、それをお伝えしているのです。

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