ゆるめることだけが解放ではありません。
最近はスピリチュアルというような言葉で、自然体や自由になることが強調されているように思います。
かくいう私自身も、タロットを通じて心の囚われの解放、枠をはずしていくことは書いているところです。
しかしながら、何事も行きすぎは問題になることがあり、バランスは大切です。
実は1つの整然とした「型」に自分を当てはめるのは、ある状態から自分を解放することに役立つのです。
ゆったりすること、解放することというのを浅はかに何も考えず実行してしまうと、たいてい人は休むこと、のんびりするという行動に出ます。
そしてひどい時には、だらだらと無駄に時間を過ごしてしまうことになります。
するとなぜだか、ひどく逆に疲れてしまったようなことはありませんか。休日だからと、何もせずダラー(笑)と過ごしていたら、気持ちまでだるくなってしまったような経験です。
これでは解放どころか逆に、何かゆるい綿のようなもので自分を縛っているようにも感じます。
この原因はリズムの乱れやメリハリをつけないことにあります。
そしてそのメリハリには、やはり締める時と解放する時の二極の動きがあるのです。それは自然の摂理・運動・エネルギーバランスでもあるので、一方の動きだけをしていては、疲れてくるのも当然だと言えます。
言ってみれば正座をしたり、足を崩したりすることが交互にやってくる(行う)のが実は自然なのだということですね。
よってのんびりしたり、ゆるめたりするだけが解放ではなく、締める、強める動きを取り入れるからこそ、緩急一体の自然のリズムにつながって、自分が本当の意味で解放に向かうことができるのだと言えます。
これは運動のことだけではなく、心にも言えることで、ある程度の圧力がかかる時があってはじめて解放の意味(気持ち・心)が理解できるのです。
またある種の型は自分の状態を一定化・自動化することに役立ち、他の影響を受けづらくします。つまりは落ち着きや安定をもたらすのです。
そうしておいてやっと自分本来の力が出ると考えられます。いわば平常心をもたらす行為が型です。
緊張したり、油断したりしていてはどこかに無理がかかっているのだと想像され、それはやはりアンバランスな状態であり、囚われて解放されていないことだとも説明できます。
日本のものに「道」として「型」を習得するものが多いのも、ひとつにはこうした理由が考えられます。
「○○道」というと、さも堅苦しいもののように感じますが、それこそが実は行動や精神を解放する有効な手段・技術となっていると私は思います。
タロットにおいては「吊るし」がよくそのことを表現しているように感じています。
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