「学び」ととらえることのよい面・悪い面

スピリチュアルや精神世界的な関心を持つと、何でも「学び」だととらえようとする傾向が生まれます。


これはきちんとニュートラルポジションというものを意識していないと、よいところと悪いところのどちらかに傾いてしまうところがあるように感じます。


たとえば悪い面というのは「学び」だと思いこむことで、自分が体験している苦しみをずっとそのまま耐えようとすることです。


いわば耐えること、我慢することが「勉強」なのだ、自分のためになるのだと信じ込んでしまうわけですね。


これはとても危険です。


パートナーからDVを受けたり、職場での理不尽な扱いを受けていたりするのでも、「これは私が受けなければならない試練だ」と盲信してしまい、自分を責めて救済する(される)機会からはずれてしまうばかりか、非現実的な世界観に閉じこめられる危うさもはらんでいます。


ここまで極端ではなくても、「すべては私に原因がある」のだと必要以上に自分を責めてしまうことが、「学び」を過剰に意識するとで起こることがあります。


確かに究極的には「自分の認識によって世界が作られている」ということもあるとは思いますが、それは自分を責めなくてはならないこととは別だと思います。


自分を責めること、それ自体が自分で原因を作っていることにもなるのです。


さて、一方で「学び」ととらえることでよいことは、やはりたくさんあります。


それは改めてここで説明する必要もないと思います。


そこで、ひとつだけ「学び」のとらえ方の工夫と言いますか、見方をお話したいと思います。


それは「学び」や「修行」と思うことと同時に、それを楽しむ自分を意識するということです。


そのためには成長するであろう自分のその先のイメージを持つことも大切です。


一般的に「この学びを通して何が得られるのだろう?」と考えることは多いと思いますが、その先の、学び終わったあと、学びから得たあとの自分はどう変わっているのかということをワクワクしながらイメージするのです。


それがまた今の試練を楽しむことにつながってきます。


ただこれはなかなか自分一人や、何もツールがない状態だと難しいことがあります。


ですからアドバイスをもらえたり、客観的に見てもらえたりする誰かに話す、あるいはタロットなど自分を象徴的に見つめることのできる道具を持つということが有効になってくるのです。

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