生と死の一体性 「13」

今日は13日ということで(笑)、マルセイユタロットの中でも、カードに名前のない特殊なカード「13(番)」に関することを書きたいと思います。

このカードは初見だと、かなり怖いイメージを皆さんが持つことでしょう。

その「怖さ」は実は重要なものなのです。

ただ、ほかのカードでは、この数を持つ大アルカナに「死神」という名前を当てられたため(日本語訳で特に)、絵柄のイメージだけではなく、名前からも、より恐怖を感じてしまうことがあります。

その「死神」からのイメージの怖さは、むしろ、マルセイユタロットの「13」の場合は、払拭したほうがよいものです。

それは「死」への怖さを増幅させるからです。

誰でも、死は怖いものです。しかし、現代人の多くは、生と死を物理的な現象としてとらえ、まったくそれを切り離して考えているところに問題があり、さらに言えば、そこから「死」への恐怖を感じているのです。

私たちは、人間はただ何かわからないけれども、生命と体という複雑な身体機能をもって生きているという感じで、死んだらどうなるのかわからないものの、少なくとも、体(身体)の機能は停止し、ただの肉片となって朽ちていくもの、処理されないと腐っていくものと考えています。

極端な場合、「死後について」わからないことをいいことに、死んだら終わりと決めつけている人もいます。

このように近世以降に、物理的な思考が強固になることで、私たちは生命と体がマシンのように感じて、生命が燃焼するエンジン、もしくはその燃焼を起こす燃料、そして身体が燃焼して動く機械のように見てしまうことになりました。

すなわち、生きていることと死んでいることの物理的なふたつの見方が強くなり、結局、実感できる「生きていること」の間だけフォーカスし、「死」は、まさしく崩壊してしまう終局点として置かれることになったのです。

そうすると、死(後)も含めたトータルで大きな流れとして俯瞰する力が失われ、生きている間だけの喜びや快楽に執着するようになり、生きている(間の)人生が、人から見て充実したほうが勝ち、という感覚に囚われるようになるわけです。

そのため、つまるところ、この人生で何も残せない自分、(人から)評価されない自分、不幸と思える人生で終わる自分・・・いろいろな「生きている頃の自分だけ」を評価する視点になり、終局的である「死」が近づくこと、死を迎えてしまうことに恐怖を感じるのです。

実際に、皆さんも、病気や鬱的なメンタルなどによって、「自分が死ぬかもしれない」という恐怖を味わったことがある人もいるかもしれません。

それほど、生きていることの実績だけに執着してしまうと、「死」というものが怖くなってしまうのです。

しかし、以前は、死と生は一体のもので、今のように分離感や別物感はありませんでした。

シンプルに言えば、「死」は一種の変容点なのです。逆に「生」(誕生)も同じ変容点と言えます。

二元(ふたつの概念)で切り離ししまうのではなく、円環として生と死を変容点と見る時、輪廻とはまた違った生と死の一体感を感じることができます。

「13」のタロットの図像では、確かに骸骨のような人物が鎌を持ち、削ぎ落としや死のような印象も強いです。

しかし、終わり・死を迎えても、それが変容の時であり、いわば、生の形を変えた生き方になることを示唆しているのです。

このことは、「13」を中心にして、タロットの数の論理である「7」や「10」によって、ほかのカードとともに見ていくと、よりわかってくるものです。

例えば、「7」の論理性でいうと、「13」には「6」の「恋人」カード、「20」の「審判」のカードと関連します。

ここでは詳しくは言えませんが、「恋人」も「審判」も死と再生のシンボルが刻印されています。

例えば「恋人」カードにおいては、エロスとタナトスとして表現され、両者が一体の状態である(と直観した)時、時空を超越した瞬間が垣間見える(体験する)ことが、図像によって示唆されています。(このあたりは、2016年に話題となったアニメ映画「君の名は。」の「結び」とも関係してきますね)

つまり、両極の、死をもってはじめて生の意味がわかり、その逆もまた真なりで、私たちは死がなくてはならないものであり、しかも死と生が一体化したところに、崇高な高次を実感することができると、マルセイユタロットの示唆から確信できるのです。

それは、生きている「生」の現実世界でも、生々しいもの、すばらしいもの、躍動しているものの反対側として、空虚なもの、汚いもの、一般に望まないもの、衰えていくものなどと対比され、言ってしまえば、別離・分離(感)として、「生」の中で「死」を感じるものでもあります。

結局、統合的な観点を持たない限り、一方の「死」や「終わり」で象徴される「生(生きている時)」の恐怖はなくならないものですし、人生において重要で衝撃的な別離、不幸とも思える試練を昇華することが難しくなります。

「13」は単に削ぎ落としたり、切り放ったりするものではなく、解体し、変容していくものなのです。

それは、経験したこと、体験したこと、味わったことすべてが、養分として受け入れられ、変容するための下地となることなのです。

「13」に名前がないのは、いろいろな理由が考えられますが、今日述べてきたことから、本当は「死」というものがないからこそ、「死」という“名前を付していない”のだと考えられます。実は形を変えた「生」あるのみなのかもしれません。

実際に起こることを、そのままの意味でとらえていては、なかなかこうした変容・昇華には結びつきません。

それには、物事を象徴的にとらえ、これまての思考と感情を統合し、今までの見方を超えていくことが求められます。

マルセイユタロットには、そうした象徴としての変容力があるのです。

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