「法皇」と「隠者」 先生と師匠

マルセイユタロットで、「法皇」と「隠者」は、教える者、伝達・伝授する者として共通しているところがあります。

二枚は当たり前ですが、その象徴性に違いがあり、まったく同じ「教える者」というわけではありません。その違いはいろいろと考えられますが、やはり、その教えるレベルと内容、伝達の方法が異なるということが、絵柄から明確です。

マルセイユタロットの教義では、大アルカナの数の順が成長や発展度合いを示すというのがありますが、そこからすると、「法皇」よりも「隠者」が(レベルにおいて)となります。

また、「法皇」の絵柄には、「法皇」の下に何人かの弟子や聴衆とも思える人がいますが、「隠者」にはほかに誰もおらず、孤独に彼一人だけです。すると、「法皇」には話を聴きに来ている人が多くいるのに対し、「隠者」のほうは、むしろ誰か(教えを受ける者を)待っているここに来た人だけに伝えるという状況なのかもしれないと想像できます。

もし日本語の適当な言葉をこの二人に当てるとすれば、「法皇」は“先生”であり、「隠者」は“師匠”でしょうか。

ところで、タロットを学ぶ際、皆さんは、誰かに教えてもらうか、独力で学ぶか、どちらを選択するでしょうか?

一般的には、やはり学校であれ、個人であれ、誰か先生や教える機関から学ぶということがやりやすいと思います。そして、入り口としては先述した「法皇」的な、いわゆる“先生”に学び、やがて“師匠”的な人物に、さらなる深淵なものを伝授してもらうという道筋が考えられます。

それならば、最初から師匠的な人物を探して学ぶほうがいいという人もいるかしもれませんが、「隠者」で例えられる師匠的な人物は、なかなか見つけるのも難しく、自分自身がその師匠に会えるレベルや条件に達していないと、近くにいても気づかず、また、たとえ探し当てたとしても教えてくれないということもあります。まさに名前の通り、隠れたる者なのです。

ということは、「隠者」は、象徴的に、実は普通の人間でない可能性もあるのです。これは修行や探求を極めて人間レベルを超越している人という意味もあれば、肉体を持った人ではなく、精霊や天使的なエネルギー、あるいは、内的な高次の存在(ハイヤーセルフ)という意味もあるのです。

そういった証拠は、「隠者」の絵柄自体や、22枚が配置されるマルセイユタロットの秘伝的な並びからも示されるのですが、いずれにしろ、そうすると、「隠者」から教えられるのは、単なる知識や技術ではないことがわかります。

言ってしまえば、「隠者」が教え伝えようとするのは、霊的なことであり、表面的・物理的・現実的なこととは異なると考えられます。しかしながら、数的には先に「法皇」が登場するように、まずは普通の知識も身につけなければならないのです。(「法皇」にしても、本当はただの知識レベルではないのですが)

すると、こうも考えられます。「法皇」の魂・霊として背後に「隠者」がいるのだと。

「法皇」に学ぶ生徒は、まだ「隠者」としての魂の実感は得られないものの、その背景として、「隠者」の影響も受けながら「法皇」の講義を聴き、学んでいるわけです。言い換えれば、「隠者」の影を「法皇」に見ながら話を受けているということであり、「法皇」の話をただそののまま字面通り、言葉通り受け取るのではなく、彼の話す内容に霊性を見出す必要があるとも言えるのです。

私たちは、何かを身につけたい、知りたいと学習を志し、学校や個人の先生、先達たちから授業・講義を受けます。

それを行う(求める)理由は、だいたいは現実的なことから発しています。たとえ精神的な(安らぎや癒し的な)ことであっても、現実世界で生きる自分を楽にしたい、活き活きさせたい、生きやすくしたいということが多くの部分ではあります。

つまりは(じつ・み・みのり)や実際的な効果を求めて学ぶわけですし、自分の求めたい実を、すでに体現している人や手にしてきた人を先生として教えてもらうことになります。そして、全部とは言わず、ある程度の知識・技術を得て、学びは終わります。

これは「法皇」の伝達が終わったことを意味しますが、それは学びの一時的、実際的な側面であり、先述した「法皇」の背後の「隠者」の魂を感じ取れたかどうかとはまた別です。また、自分の学習目的によっては、「隠者」を「法皇」の段階で感じ取る必要もありません。

しかし、不思議なもので、自分が実際的・現実的に学ぼうとしていた理由(実)とは異なって、学習している間に、「法皇」の背後の「隠者」から自分が、違う性質のものを受け取っている場合があります。それは実(見えるもの、形あるもの、現実で活かせたり効果があったりするもの)と比べ、「虚」とも言える、目に見えない不確かで抽象的なものですが、自身の霊性に響く何かなのです。

例えば、投資セミナーで学び、お金を増やすのが目的で、その知識はついたけれども、同時にお金についてフォーカスしたことで、お金を基準とした世界観に疑念や考察が及び、自身の本質的な生き方について深く考えるようになった・・・みたいな現象です。

マルセイユタロットの学習で言えば、最初は趣味でタロット占いができればなあと思って学び始めたたけれども、タロットの象徴性を知るにつれ、自分の中の多数の人格、低次と高次、表と裏・影、物質と精神、霊・魂と日常など、これまでの見方とは異なるものが現れ、意識の変革・統合に思いが行くようになったという感じになるでしょうか。

自身で選択・行動し、何かの学びの道に入り、先生や学校に最初は導かれつつも、やがて「隠者」に出会うための準備をしていくようになります。それは、ずっとべったり先生に指導を受けることではなく、自分自身でも学び、思考し、感じ、実践し、フィードバックをし、気づきや向上を重ねていくことであり、その暁に、登場してくるのが「隠者」なのです。

またマルセイユタロットを見る限り、「法皇」としての先生も、生徒が実際的に求める以上のものを思いながら教えていくという姿勢が望まれます。(数の順で並べると、「法皇」の視線は次の6の「恋人」の天使に行くようになります)

このように、学びのうえでは、タロットの順序的には、先生を持つほうがベターですが、自分自身がオリジナルとなる人、最初の技術を開発、発明したような人は、それを伝達したい場合、いきなり自分が先生の立場とならざるを得ませんから、誰かに最初学ぶという過程がなくなることがあります。

ですから、師をもたない師がいてもよいわけで、そういう人は、「隠者」が当初から自分の内に現れている、自分自身が最初から「隠者」であると言ってもよいでしょう。(もし過去生データや特別な才能があれば、そういうことになるのも考えられます)

ですが、実力もないのに、最初から「法皇」を超えて「隠者」だと思い込んでいる人もおり、さらには、そもそも先生としてもどうかと思う人もいます。

それから勘違いする人もいますが、「教える」ということ自体も、ひとつの技術です。

自分がその分野で長くやってきたとか、経験があるから、よく知っているから・・・だけではうまく教えることはできません。タロットでいうと、タロット占いができるから、タロットリーダーとしては経験があるからと言って、必ずしも、うまく教えられるとは限らないのです。

そういう意味では、天才タイプ(オリジナルができたり、独学で何でもできたりするタイプ)ではないと自認されている人は、やはり、当初は先生・学校の下で学ぶほうが、型も学びやすくあり、自身が教える立場に回ることになっても、先生・師をモデルとすることもできますし、たとえ師が悪くても、まさに反面教師(笑)とすることができるので、先生や師を持たなかった人の教えは、型破りではあっても、学びにくいことはあるかもれません。

そして、先生から学べなくなった、先生がいなくなったとしても、あなたには(内なる)「隠者」がいますから、「隠者」に教えを乞い、自身を高めていくとよいでしょう。マルセイユタロットでは、タロットとつのつながりを深く持ってくると、「隠者」が立ち現れるような仕組みになっています。

最初の段階で、先生を選ぶ際も、「隠者」を背後に感じる人を選べば、あなたの目的以上のことが開かれる可能性もあります。

いずれにしても、教え・教えられる関係も、縁によるところも大きいので、自分に、ある先生が紹介される流れも、似た者同士の縁によることが多く、結局、類は友を呼ぶ世界でもあるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top