時には愚者になってみる

マルセイユタロットでも、ほかのタロットでも、「愚者」というカードがあります。

このカードは、基本、数をもっていませんので、ある意味、すべてのカードの代表と考えることができ、また、どのカードにも変化(へんげ)できる特殊なカードとも言えます。

通常、ほかの大アルカナカードで数を示す部分は、「愚者」では空白であり、擬人的にたとえれば、「愚者」自らによって数を書き込んだり、書き換えたりすることができるかもしれないわけです。(笑)

トランプにも、ジョーカーという存在(カード)がいて、ゲーム上、たいてい、オールマイティーな力が付与されています。諸説ありますが、トランプのジョーカーとタロットの「愚者」は同じものと見ることができます。

ここで、私たちの人生も、自分(今の自覚意識を持っている自分)という人間で、ある人生ゲームを行っていると考えてみましょう。

そうすると、タロット的、あるいはトランプ的には、自分に今回(の人生で)配られた持ち札自分の個性とか能力とかになり、それは(ゲーム)シーンによっては、長所にもなりますし、欠点にもなります。

カードゲームでは、いわゆる「切り札」と呼ばれる、とっておきのカード、つまりは得点力や効果の高いカードがあります。

トランプもタロットも「絵札」が強く、そしてジョーカー、「愚者」も切り札になり得ます。(そもそも「トランプ」という名前自体が「切り札」を指し、日本ではプレイングカードが、トランプという言葉になってしまった経緯があります)

自分にはトランプ(切り札)が配られていないと思う人がいるかもしれませんが、タロット的に考えるならば、枚数の確率的に見て、配られていると見るほうがいいでしょう。

と言うのは、タロットの絵札は、全78枚のうち、42枚(数札エースも入れると)もあるからです。これを半分くらいの確率しかないととらえるか、半分以上もあると見るかですが・・・ただ、私が思うに、人生においての切り札として、全員に「愚者」は配られているのではないかということです。(もしかすると、一定の絵札は、種類は違っても、全員配られるというルールのゲームかもしれません)

ですから、「愚者」としての切り札は必ず、誰でも持っていると見るのが妥当に思います。

先述したよにうに、トランプではジョーカーに当たる「愚者」なのですから、「愚者」はオールマイティーな力を持ちます。

ただ、実際に、人生においての「愚者」(の力)とは何か? です。

これに気づくと、「愚者」を、本当に人生の切り札にすることができるのではないかと思います。

ここで私が回答を述べたとしても、あくまで私のひとつの意見・考え方に過ぎませんから、それはあまり意味をなしません。「愚者」はオールマイティーであるだけに、一人ひとりにとってもオールマイティーであり、つまりは、その人自身の力の現れがあるのです。

しかし、タロット、特にマルセイユタロットにふれた(学んだ)人は、「愚者」の力について、思いを馳せるとよいでしょう。

対比的に言いますと、あること(わからないこと)を浮かび上がせるには、逆のものや違うもの、知っているものを思い浮かべるとよいです。マルセイユタロットを学んでいるのなら、それができるはずだからです。

「愚者」とは別の大アルカナ(や絵札など切り札と呼ばれるカード)を想像することで、「愚者」の力が何なのか、見えてくるということです。

ところで、話が変わるようで、実はつながっているのですが、タロットリーディングにおいて、この前の記事ではありませんが、先生についてタロットを習っている人には、その先生から教えられる方法・考え方で、読もう(リーディングしよう)とすると思います。

それは人に習っているからこその当然の行為で、初期のうち、特に基礎を固めていく時には、王道ともいえる方法であり、技術向上の道としてはよいかと思います。

しかし、ある程度自分でできるようになってきた時、また、プロとして不特定多数の人に実践していく時、それら(先生から伝えられるセオリーのようなもの)を守り続けていると、かえってうまくできなくなってくることがあります。

守破離という言葉もあるように、何事も、自分のものにしていくには、過程としても最後にしても、いつか型を破り、それまでのものから離れることが求められます。

その時、必要なのが、「愚者」の力です。いや、実は初期の段階からでも、常に「愚者」は寄り添っており、いつでも自由と解放の旅に出られるように準備をしています。

いろいろと小難しいことや理屈を考えていても、始まらない時があります。また、読めないことを理屈づけ(理由づけ)する(つまるところ、それは弁解)という奇妙なことも起きます。

たまには、パターンやセオリー、先生の言われることなどふっとばして(笑)、自由な読み、自分の直感からわき起こる読みをしてみるのもよいです。これは反骨とか、抵抗でするのではなく、我(自我)も外(他人)も忘れるかのように、何も気にせず、その場を楽しんだり、ダンスしたりするかのような気持ちです。一言で言いますと、“守らない読み方”です。

私も、最近、このような「愚者」が舞い降りてきたことがありました。

それは、ふと、自分以外のタロット講師とか、マルセイユタロット以外の講義とか、どんなものだろうかと思い、動画で上がっているものをいろいろと視聴してみたのです。

すると、自分、あるいはマルセイユタロットとのあまりの違いに驚愕したのでした。ああ、世間ではこんな風にタロットを扱い、教えているんだと・・・ただ、同じ系統のマルセイユタロット講師は、似たようなところはありましたが。

最初は自分の中で批評したり、この教え方はどうなんだ?みたいに思ったりしたのですが、段々そうしている自分自身がばからしくなってきて、逆にタロットの世界の面白さに笑えてくるようになりました。

タロットには、まさにいろいろな世界、ゲームがあるということで、そこに「愚者」の存在が感じられました。

「どうだ? お前のやっているタロットとは違う世界だろ?、これもタロットなんだぜ?これも楽しいもんだぜ」みたいな感じです。(笑)

これは、人生のどのシーンでも実は言えることです。

難しく考えすぎたり、理屈が通っていないと動けないと思ったり、正しいものが見つからないと信用できないと考えたりしていると、「人生」というゲームを楽しめず、切り札も温存したまま、ゲームが終わってしまうことがあります。

もちろん、「正義」や「斎王」、「隠者」や「皇帝」などのカード(手札)もありますので、正しさを見極めたり、勉強したり、現実や常識を重んじたりすることも人生には必要です。

しかし、それらを超えるオールマイティーなカードとして、「愚者」があることを忘れないようにしていると、(人生)ゲームにおいて一発逆転もあり得ます。

そして、もしかすると、私たち一人ひとりの人生も、「愚者」の見ている夢なのかもしれません。まあ、それはそれで、面白いところもあり、そう考える場合は、マルセイユタロットに流れる根幹的な思想にふれてくることになるでしょう。

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