自由と責任 責任と自由

自由と責任ということはよく言われます。

(マルセイユ)タロットにおいても、そのどちらも表すカードは存在しています。

例えば、「正義」とか「皇帝」とかのカードは、端的には「責任」というものを表すカードと言えますし、逆に「愚者」や「世界」などは、「自由」を象徴しているカードと見ることができます。

しかし、これはカード単体の意味で見た場合のことであり、究極的には、どのカードにおいても自由と責任ということは、そのレベルの範囲で象徴されていると言えます。

先に挙げた「正義」にも自由はありますし、「愚者」にも責任はあります。(ただし、「愚者」の責任というのは、常識的には考えつくことが難しいものではありますが)

この、どのカードにも自由と責任が象徴されているという考えは、実は現実的にも適応できるものです。

言ってみれば、その考え方を持てば、生きる上で混乱することが少なくなり、人と意見が違ったり、争うようなことになっても、感情的になり過ぎずに済むという利点があります。

それは簡単に言えば、世界を色分けして見る、区別して見るというようなものに近いです。

もう少し別の言い方すると、ある常識・正しいとされている共通したルールを持つ世界が、それぞれにあるという風に見る方法です。

例えば、法律的なことで言えば、憲法レベルで言っているのか、条例レベルで言っているのか、というものでも、その世界観は違うわけです。

人は結局のところ、自分(の認めた、信じた)ルールに従って行動したり、主義・主張したりするわけですが、それでも、明文化された法律とか、その職場や学校、クラス、仲間うちで通用するような常識、慣用、習慣みたいなものがあるわけです。

まあ、他人様がいるのがこの世界ですから、自分のわがままだけ押し通すわけにはいかないのは当たり前です。

スピリチュアルなものを志向したり、心理的なものを解決や解放の根拠に置く人の傾向にはありがちの考えですが、「人は本来自由であり、何も縛られるものはなく、従って、いいも悪いもなくそれを決めているのは、自分や他人のジャッジだ」というのがあります。

確かに究極的には、私もその通りかなとは思います。

しかし、人の世界、共通したルールに基づいて形成したり、合意したりしている世界それぞれにおいては、そこに優劣や正誤、良い・悪いという線引きは確かにあるのです。

法的なものが整備されている国において、その国の法律で犯罪だとされているものは、その国おいては、やはり悪いことで、犯罪なのです。

要するに、人間として現実生活を行う限り、レベルや次元の違いはありますが、どの層・世界においても、あるルールや守るべきもの、法則が存在し、その意味において、責任が生じたり、いい・悪いという二元の判断はあるということです。

もし、そのいい・悪いの判断(ジャッジ)から逃れたいのなら、自分の自由度と責任を、その世界観のものとは別にしていくこと(世界観が適用される範囲から、はずれること)が求められます。

ひとつには、単純に、その世界(観)から、移動する、別の場所に行くという方法があります。

日本ではダメだけれども、別の国に行けば認められるとか、この仲間うち、職場のルール(掟)では自分が苦しい、自由になれないので、別の仕事に変える、そのグループから離れるというやり方です。

しかし、非常に広範囲に設定されているルール・規則・法則のもとでは、逃れること自体、現実的には困難で不可能な場合もあります。

例えば、物理法則から逃れるとか、普通に裁かれずに法律から逃れられるのも難しいことでしょう。人間としての機能・感覚から逃れるのも、超人にならないと無理です。(笑)

しかし、物理的なことも、工夫したり、身体を鍛えたりして、ある程度自由度を増すこともできますし、明文化されていないルール・規則、つまり、内的なことや、思い・感情的なことなどは、自分自身で自由度を上げていくことが可能です。

いわば、自分ルールを変えることによって、自分の自由度、選択度を上げていくということです。

肉体的には確かに限界があるかもしれませんが、心の自由度は、かなりのところで可変でき、心の縛りのようなものを解いていくことで、気持ちは解放され、その分、自分の囚われも少なくなり、今まで見えなかったことが見えてきたり、できなかったことができたりするようになります。心理的アプローチで現実を変える根拠は、こんなところにもあるのです。

ただ、注意点があります。

自由と責任と書いてきたように、自由には常に相応の責任が生じます。

これは自動的にそうなるようなものなのですが、その広がった自由分の責任を取らないと、違うことでのバランス調整が働き、拡大した自由が奪われたり(つまり責任が取れないので、元に戻される)、その自由をコントロールできずに、失敗したり、身の破滅に向かったり(これも、自分が本当に責任が取れる自由度の状態に調整される作用と考えられます)します。

例えば、「自分は自由に恋人を何人も持ってつきあうんだ、それが俺流、わたし流」と、自分の心の自由度を上げたと思っている人でも、その、何人もの人とつき合うための「責任」ということも拡大されるのです。

複数の人とおつきあいするわけですから、皆さんがいがみあったり、嫉妬したりせず、満足させる状態になければなりませんし、世間的な常識(というひとつの世界観の世界)の自由度の人たちからは、非常識だと非難される恐れも高くなります。

それらのことに対して、心を乱したり、うまく対応できなかったりするようでは、本当の意味で、自由を獲得した(自由度を上げた)とは言い難いわけです。

自由と責任が、ひとつの世界の中で、ある形のような感じで決まっており、それはもちろん一定ではなく、世界(観)が変われば、それに応じて、自由と責任も変化していくのですが、世界(観)を混同して、すべて同じレベルとルールのように思って「自由」を主張していくと、属している世界それぞれのルールによって、正しさの争いが起き、混沌・殺伐とした状態になってしまいます。

自分が主張しているものは、どの世界観・レベルで言っているのか、また相手も、どのような世界観で言って来ているのか、よく見極めることです。

それを把握しないと、話し合いは平行線のままに終わりますし、ともに「自由」の認識も異なって、それに伴う「責任」も不明確になります。

わがままな人は総じて、世界観を飛び越えた究極の自由、あるいは自分ルールばかりを拠点とした自由のみを主張し、それに伴う責任にはついて無自覚か、あえて(わざと)避けようとします。

逆に、必要以上に、本来、その世界観では取らないでいい責任まで自分に課して、自由を自ら奪っている人もいます。

人は、一人で何でもできるわけではなく、また一人の人は、逆にそれほど無力でもありません。

自由と責任、それには階層種類、レベルの違いもありますが、どこにおいてもバランスは常に働き、そこからはずれていると、自動調整されたり、自ら責任を取るように働いてきたりします。

だから、逆説的になりますが、もっと伸び伸びと自由を求めてよいのです。

なぜなら、先述したように、自由になった分、責任は自動的に働いて来るからで、最初から自由に対する責任の恐れを持ちすぎて、解放をためらうのはもったいないからです。

しかし、同時に、「拡大する自由の選択は、その応分の責任が働く」ことも、(過剰にではなく)自覚しておくと、成長や解放の道も、よりスムースに進むことができるでしょう。

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