二元統合とは何か。

マルセイユタロットは、ある種のエネルギーや、この世界(宇宙の)法則のようなものを描いているとも言えます。

その点では、東洋での象徴体系も同じといえ、洋の東西で本質的なものを表す何らかの方法が伝えられてきたのだ考えられます。

そして、西洋も東洋も、大元から次の段階に進む(見方を変えれば下降する、次元を落とすという言い方にもなります)時、二元に分かれたかのような状態になっていくのだと想像できます。

それが、東洋的に言えば陰陽原理みたいなもので、そこからさらに陰陽が無数に枝分かれしていき、現実の色濃い世界が表現されているのだと見えます。(このあたりは、バーチャルリアリティーの世界を表現するのと同じと考えられます)

このことは、マルセイユタロットにも描かれていることであり、大アルカナの数でいえば、数が小さくなっていく方向性(分離や具体の方向性、つまり私たちの実感している現実の世界になっていく方向)と言えましょう。(ただし、小アルカナは逆方向)

逆に言えば、二元分離をどんどん統合していくように向かって行けば、自ずから大元、太極、一なる始源へと回帰していくことになります。

では、ふたつに分かれたものを「統合していく」というのは、実際にどういうことなのかという疑問が出てくるかしもれません。

この二元原理は、現実世界でも、様々な比喩や例えになっており、象徴として考えると、いくらでも二元原理の表現は見て取れると言ってもよいものです。

例えば、天体では太陽と月、性では男性と女性、行動性では、能動性と受容性、色では白と黒みたいな感じです。

この場合、統合とは、ふたつが一緒になったり、ひとまとめになった時に現れる状態ということができます。

太陽と月が一緒になる(見えている)ことは時々ありますが、そういう同時に出るというのではなく、太陽の時間と月の時間があると見て、結局、それは一日のことだとなります。(昼と夜とで一日という言い方もできます)

女性と男性が統合されれば、両性具有になりますが、心は別としても、現実の性機能では両性具有になることは不可能なことです。

しかし、結婚という形で共同で生活をし、セックスによって一時的な両性具有となり、子どもという新たな生命を生み出すことが可能になります。(皮肉なもので、セックスという言葉は分離を表しますが・・・)

能動と受容のような、運動性・行動性の場合、例えば、あなたが誰かと会話している時、あなたが話していて、相手が聴いている状態なら、あなたとその人はやはり二元(話し手・聞き手の能動・受容の二元)になっていると言え、この時には会話(コミュニケーション)が成立しているわけです。

それから、あなたがお茶を飲もうと、ポットから茶葉の入った急須にお湯を注ぎ、その急須からコップに向かってお茶をいれて口から飲む時、ポットのボタンを押す(それが反動で戻ること)こと、お湯やお茶が容器に入ること、それを飲むことなど、一連の動作に、すべて押し引き・出し入れがあり、そういうことも二元にになっているうえに、それが完結している(セットとしての繰り返しがあって完結する)と言えるのです。

つまり、二元が統合される時は、新たな何かが生み出されたり、ある行為が完結したりするのです。端的に言えば、創造する力です。

ということは、私たちは、すでに些細なことも含めて、この現実世界で無数の統合を果たしながら生きていることになります。

スピリチュアル的に言えば、二元の統合は、神になる、あるいは神そのものの行いだと言えます。神を完全や完結という言い方にしても同じでしょう。

今見てきたように、私たちは無意識に、生活の中で二元統合を果たし、あるものを生成(創造)しています。それなのに、神どころか、迷い、悩み、苦しむ状態が多いのも「現実」です。

これはどうしてなのでしょうか?

おそらく、行為が無意識的過ぎるのと、物質的な観点に縛られて、見えないものや心の領域、魂レベルでは統合が果たされていないからなのではないかと推測されます。

技の世界でも、心技体などと言われるように、単に技だけ向上させても、それは形だけのものに過ぎないというわけてす。

物質、心(精神)、魂(霊)、西洋的にいうのなら、マテリアル(ホディ)、メンタル(サイコ)、ソウル(スピリット)など、それぞれの次元・分野において、統合がなされていないと(霊・魂・ソウルとかのレベルでは、すでに統合は果たされているかもしれませんが)、真の意味では「統合」とは言えないのかもしれません。

男女統合において、セックスを例にしましたが、確かに形(行為)だけでも子どもはできるでしょう。しかしながら、心の合一が伴わないそれは、果たして本当のセックスといえるのかということです。そういう状況で生まれてくる子どもに注がれる愛情や環境も、バラバラな男女(親の)状態だったのなら、あまりよいものとならないおそれが高くなります。

このようなことからもわかるように、「(二元)統合」は、別の観点(表現)で言うならば、「愛」であり、数で言うと「ゼロ」(ゼロの概念を置かない場合は根源的な1)であり、従って、重さもゼロ、すなわち、それは物理的には「光」と言えるのではないかと考えられます。

愛と光がよく似たような言葉の意味として使われるのも、そういう理由からではないでしょうか。

統合は、対立するふたつのものを認識(区別)するところから始まります。ここが実は混乱のもとと言いますか、誤解されているところであり、統合とは、すべて一緒にするという意味とは以て非なるものであり、ふたつのものの明確な区別が最初は必要とされるのです。

両方か混在して混沌としたままでは、統合という発想が起きないのが普通です。

昼と夜で例えると、一日(24時間、地球のひとつの自転)として統合するためには、昼の時間と夜の時間の違いがはっりと分けて見ることができていないと無理です。昼が一日、夜が一日だと同じにしてしまうと、自転している地球への認識(それが、この場合の統合観点)は出ません。

一日としての二元分離が不明確であれば、いわば、夜明けと日没の不透明な状態が、ずっと続いているようなものです。

よって、統合は、まずは二つの対立に気づく、認識するところから始まり、その違いを踏まえたうえで、そのどちらもがどちらでもないという感覚になる視点を持つようになってはじめて、統合されたと言えるでしょう。

さきほどの一日の例でいえば、地球の自転という発想が現れることで、太陽の光が当たっているほうと、会っていない裏側という見方ができて、こうして、昼と夜は違うけれども、それは単なる見方の違いで、実は地球としての自転が生み出しているものなのだとなるわけです。(言い換えれば平面の地上ではなく、球としての地球そのものの認識が生まれるということ)

長々と書いてきましたが、何が言いたかったのかと申しますと、二元統合の本質と、二元統合は形だけのものや、一緒くたに混ぜてしまうこと、単純に合わせることを言うのではないことが、まずあります。

次に、統合の機会はどこ(どのレベル)にでもあり、それを意識的にする(意識化する)ことで、本当の統合経験が増し、自己の愛も拡大していく(統合と愛は等しいものであることは先述しました)ということになります。

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