多様なるモードの自分

マルセイユタロットを心理的に見る場合、カード自体が私たちの心や姿を象徴していると読むことがあります。

カードに自己を投影すると言ってしまえば簡単ですが、ちょっとニュアンス的には投影とも違います。

まあ、しかし、そこは難しく考えず、あえてシンプルに、カードが自分の気持ちなどを表していると見ることもある、とします。

一般的には大アルカナ22枚が、マルセイユタロットの場合、絵もついていてわかりやすいので、大アルカナを心理的に見るほうがスムースですが、小アルカナも、宮廷カード(コートカード)が人物絵になっていますし、数カード(数札)は記号的ではあっても、特に数の意味を見ていくと、これも何らかの形で自分を表していると取ることができます。

マルセイユタロットは極めて優れた象徴システムを持ち、大アルカナは心を動かし、小アルカナは現実や具体に焦点を合わせ、つまりは現実を動かすことができるような設定になっています。ただし、両者を組み合わせることが重要です。

この意味(だけではありませんが)で、やはりタロットは78枚なくてはならないというのが私の持論です。

さて、そのような、いわば、「自分」を多面的に象徴する(ことのできる)「タロット」なわけですが、ここで一度タロットから離れて、「自分」というものを考えてみましょう。

では、これから、素朴な質問で、なおかつ、深淵ともいえる質問をいたします。

「自分」とは何ですか? あるいは、「自分」とは誰ですか? どの時・どの姿が「自分」なのですか?

自分って、「このわたし」でしょ? と言う人がいるかもしれませんが、では、その「このわたし」とは誰で、何なのでしょうか?

結局、これらの答えはなかなか出ないと思います。

よく本当の自分とか、ありのままの自分とか言いますが、それもたくさんの自分の姿や思いの中のひとつに過ぎないのかもしれません。

だいたいは、自分の気持ちに正直になっている自分とか、嘘をついていない自分、一番ストレスフリーのリラックスしている自分・・・というのが、ありのままとか、本当の自分とかでとらえられていることが多い気がします。

しかし、それもよく考えれば、「そういうモードの自分」と言えなくもありません。ということは、他のモードの自分は別人なのかということです。

確かに、何も気遣わない自分というモードは、外や他に向けて変形しなくてもいいので、それが本当の自分に近いのかもしれません。

ただ、突き詰めてしまえば、どの人も、外部的なものにまったく無関心で無頓着、反応しないようになっている(そうしていい)自分というものになれば、電源オフのロボットや機械のような代物になるのではないでしょうか。もっと言えば、判で押したような金太郎アメ人間ばかりになる気がします。

こうして見ると、おかしな話ですが、ありのまま自分の究極とは、無個性の人間で、皆同じ人になってしまうことも考えられるわけです。

逆に言えば、私たちは自分の様々なモードを持つことで、個性が保てている、多様性が存在しているとも言えます。

そして、ここが重要ですが、自分が多数の顔や姿、心を持つということは、他者との比較や外からの刺激があってこそのものです。

先にも言ったように、外に反応しない自分は、行き着くところまで行けば、スイッチオフの無個性な自分になるおそれがあります。

違う言い方をすれば、他人と比べることができないので、自分が区別できなくなるわけです。それは、つまり、自分(自我)が失われるという意味に等しいです。

よって、あまり、ありのままの自分を探そうとしたり、こだわったりしたりせず、リラックスモードとか、他人にあまり気遣わない意味の正直モードの自分というものが多くの自分の姿の中にいて、それが抑圧され過ぎていないか、そのモードになることを否定しようとしていないかを見るくらいの気持ちがいいのではないかと思います。

自分の生活環境が、リラックスモードの自分、心が軽いモードの自分をかなりに出しにくいことにしているのであれば、それは変えたほうがいいかもしれません。

また、環境の問題だけではなく、たくさんの自分の姿の中で、権力を握っているものや、多く出る時間を与えてしまっているモードの“自分”を、他のモードの自分たちと調整・修正していく必要があるとも言えます。

簡単に言えば、暴走している自分を、ほかのモードの自分によってコントロールしていくということです。

それには、多様性ある、多くのモードの自分を認めることが大事です。自己受容が、自己変革や自己の調和につながる意味も、ここにあるのです。

そして、もうひとつ大事なのは、先ほど述べたように、自分は他人との比較によって「自分(自我)」というものができあがっています。

ということは、他人との関係は、自分をいい意味でも、悪い意味でも、大きな影響を及ぼし、自分(自我・個性)を作り上げる要素となります。

個性は、パーソナリティといわれるように、ペルソナ、仮面という言葉から来ています。他人や環境によって、仮面を付け変えて(つまりはモードチェンジして)生きるているのが、普通の私たちです。これは機能に過ぎませんし、またこれがあるから生きられるようなものです。

ただ、この現実の仕組み中では、個性は機能たけではなく、自分の役割や使命のようなもの、生き甲斐、自分の存在価値にも関わってくることがあります。

個性・パーソナリティが、他人や周囲よって規定されてくることが多いのであれば、それに振り回されるだけでなく、意図的に自分の環境や人との交際を選択することによって、他者からの影響を変え、結局、自分のパーソナリティモードも増やしたり、変えて行ったりすることも可能になるわけです。

単純なことで言えば、落ち込んだり、自分の価値が低いとか、否定的なモード、ネガティブモードの自分になっている時は、他人から励まされたり、いいことを指摘してもらったり、勇気づけられたりすることで、自分のモードが肯定的なものに変わることは、誰しもが経験していると思います。

つまりは一人だけで悩み、落ち込んでいても、その悩みモードの自分の中だけで堂々巡りするだけで、なかなかモード変換、モード脱出ができないわけです。

自分の個性は自分だけではなく、他人や環境によって決まってくるのですから、一人で閉じこもることは、かえってそのモードの固定化を招きます。

※ただし、自分の中で次元(レベル)を変えた他者モードを登場させることができる場合は、むしろ一人になって、その状態を出すほうが問題解決になることもあります。いわば瞑想などによって、高次の自分・ハイヤーセルフと会話するようなものの場合です。

他者からよい影響を受ける場合でも、人のモードの共通的パターンを知っておくとよいことがあります。

自分自身の中で、暴走モードの自分、抑圧モードの自分を知ることもできますし、人を見て、自分にとってはあまり出ないモードの自分を見分け、その人からの刺激で発動させる(よい意味で)こともできます。

そのようなパターン・モードの整理、モデルとして、マルセイユタロットが使えるということです。

世の中にはポジティブーモードの人もいますが、自分を否定したり、価値がないと言ったりして、ネガティブになりがちの人も少なくありません。

でも、それも一種のモードなのです。ただ、自分がなりがちなモードがそれだということです。

無理に「こうしなくてはならない」とすれはするほど、劇でいえば、ひとつのモードは(あなたの人生という)劇からの退場に抵抗します。(だって、誰でも主人公で長く出たいでしょ?(苦笑))

よく出るモードの自分が、俺が、私が主役だと言い張るわけです。

ですから、そういう自我モードの自分を認めることと、無理に退場を願わないということです。主役で楽しんでいるそのモードの自分の演技は、十分やれば自然に終わってきます。

あるいは、ほかのモードの自分を抑圧したり、役を与えないようにしたりせず、いつでも主役になれるよう、少なくとも、自分の中にいることを発見し、認めておくことです。

それには、他人からの指摘というか、評価も必要なことがあります。(あなたはこんないいところがあるんだよとか、あなたすごいですよとか、評価される自分の経験や、生きていることを受け入れてもらえる他人からの態度とか言葉)

そうして、自分の中にあるいろいろなモードの自分を、自分の劇場でまんべんなく演じさせていくと、いつしか、劇を超えたもの、モードを作り出している次元が見えてくるでしょう。そこにこそ、本当の意味での自分が存在するのです。

だから、あなたは現実では、どんなモードの自分にもなれますし、どのモードであってもいいのです。

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