人生、生きるとは何かのタイプ論

スピリチュアルや精神世界の話のテーマに、私たちの人生(生きること)の意味とは何かというものがあります。

まあ、これは哲学的命題とも言えますし、昔から、人類が抱いてきた根本的な質問と言ってもよいでしょう。

マルセイユタロットでも、これはテーマとなるものです。(マルセイユタロットの場合、現実で生きる人生だけはない部分も扱います)

そして、これまで多くの方が様々な見地から意見を述べて来られました。

スピリチュアル系統の意見でも、もちろん、いろいろとあるのですが、大きく分けて、修行系と楽しみ・幸せ系というものがあると言えます。

また、別の分け方をすれば、「人生には意味ある」系と「人生には意味がない」系(笑)のタイプ(考え方)があると言いましょうか、そういうものもある気がします。

まず、修行系と楽しみ・幸せ系ですが、どちらも成長や発展を基軸にしているのですが、修行系は、人生は楽しみばかりではなく、つらいことや苦しいこともたくさんあり、それらの経験を通して、鍛えられ、成長していくという感じのニュアンスになります。

つまりは、人生劇場=修行場になっているという考えです。だいたいにおいて、輪廻転生説を取りますし、仏教的なカルマの概念も内包することが多いです。

一方、楽しみ・幸せ系も、基本、輪廻転生説を持ち、自分が成長していくというのも似たところではあるのですが、特に今生の人生は苦しいことを経験して成長するのではなく、楽しむため、幸せを感じるために生まれてきているのであり、そのため、楽しみと幸せこそが人生の最大のテーマで、修行のように人生はとらえないとし、修行(苦行的な意味で)の人生にしないこと、そのこと自体が大きな気づきにもなっています。

とは言え、どちらも極端になり過ぎると問題で、修行系は苦しみこそが成長の糧というように思っているところがあるので、わざわざくしなくてもいい苦労をしてしまうこと、本当の意味ではない自己犠牲を払って(自分の成長のために自己犠牲を払わねばならないというある種のエゴイズム)、自分自身を生きるということがなくなることがあります。

楽しみ・幸せ系が偏ってしまうと、楽ばかりを求めるようになり、しなくてはならない努力を放棄したり、欲望が肥大したり、無責任な状態になったりします。また、どこか上から目線で、自分はもう修行は終わったとか、楽を選べる成長を果たしていると、自分宗教の教祖になったり、妙なカリスマ性を持ったりして人を洗脳することがあります。

結局、どれが正しいかはわからないですし、思い込みの世界といえばそれまでなので、どう生きようが、自分の思い・信念次第であり、法律に違反したり、人に迷惑がかかっていたりしなければ、他人がとやかく言うものでもないと思います。

また、どちらも知性と感性をバランスよく働かせれば、それぞれの目的にかなった効率的な生き方ができると考えられます。

修行系は情報をうまく扱えば、苦しいことをせずに済む場合がありますし、楽しみ・幸せ系は、逆に一般の情報に振り回され、自分の感性を信じていない(大切にしてない)ところがあります。(その逆も、それぞれにありますが)

ただ、両方の極端なケースを見たように、結局、エゴイズムが過ぎると、どちらの信念によっても不調和になりそうな気がします。

自他のバランスといいいますか、自分の人生は自分のものではありますが、人生の舞台、つまり世界は他人によっても創られていますので、自分だけのことを考えていても、うまく行かないのは当然だと思います。(もちろん、自分がいること、自分を生きることが基本ではありますが)

あと、最初に挙げたように、人生には意味があるという立場と、意味なんてないという考えの分け方がありますが、これについては、以前も書いたように思いますので、興味のある人はそちらを参照してください。また改めて書くかもしれませんが。

それで、今日言いたいことは実は別にあります。これまでは長い前振りみたいなものてす。(笑)

先述した分け方で、楽しみ・幸せ系スピリチュアルでは、今、主流にあるように思います。それは今までが修行系の考えが多かったのですから、その反動でもあるでしょう。

しかし、ここで修行系とは少し違う意味での、苦行を欲する人たちもいることを指摘しておきたいです。

何と言いますか、皮肉な言い方になりますが、苦しいことを経験するのが楽しみで幸せの人もいるという、ふたつの融合みたいな傾向の人たちです。

そういう人は、自分の成長や発展のためというより、楽しみ・幸せ系のように、まさに自己の喜びのために苦行を選んでいるわけです。

ゲームで言いますと、ノーマルモードや初期状態のゲームではつまらなくなり、ハンディ・障害、隠しごとが複雑にあるほうが面白くなるタイプのゲーマーです。

従って、一見、修行系のように見えますが、魂は困難なこと、難しいシチュエーションを人生に望んでおり、他人が「あなたはもっと楽に生きられる」とか、「幸せから逃げている」というような言い方(特にスピリチュアルや心理系のような人から指摘)をされると、場違い感や反抗的な気持ちが出てしまうのです。(図星だから反発することもあるので、注意は必要です)

しかし厄介なことに、自分の通常意識や感情では、もっと楽で幸せな(一般的な意味での)人生を生きたいと思っている場合が多く、自分の魂部分の求めとは矛盾していることがあるので、葛藤が出ることもあります。

これと似ているもので、根本的に異なるケースでは、心理的な話になりますが、つらい人生を歩んでいることに、自分の個性とアイデンティティを求めている人がいます。

苦しい人生が楽になってしまうと、私ではなくなる、私が今まで苦労してきたことが無駄になると思っていて、これは不幸自慢などをしてしまう人に多いですね。

ハンディのあるゲームを楽しむタイプは、これ(苦しい人生に自分の個性・存在感を見出しているタイプ)とは違うのです。

一般的な意味の幸せを、万人が求めているわけではないということが重要です。それが、この個性ある世界、現実と言えましょう。

ですが、誰しも、魂次元では喜びを求めているという意味では同じなのかもしれません。

すると、修行であれ、楽しみであれ、人生は魂の喜びによって選択されていると見ることもできます。

けれども、これもやはり、ひとつの考えから出ていることなので、人生とは何かについては、つまるところ、その答えは一人ひとりの心の中にあると言えましょう。

すると、あなた(自分)らしく生きるのが、あなた(自分)の人生に一番沿うことになるのです。

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