自分を出す時代 光と影
スピリチュアルの世界では、これからは統合や霊的な時代になっていくと言われています。
そのことは、このブログでも、特にここ最近、よく書いているところです。
しかし、その前には、それぞれ、個としての確立も求められることも指摘しておりました。言い換えれば、いきなり、全体が統合されるのではなく、一人ひとりが自分としての個性を成り立たせて、成熟させたうえで、そうなると考えられるわけです。
ビジネス的なサービスの面でも、どんどん個人に対応したもの、皆さんの個性に合ったものが提供されてくる傾向にあります。
同時にそのマイナス面として、理不尽とも言える個人の要求をするクレーマーとか、わがままとも言える個人的対応を当然とするようなふるまいをする人も増加してきているように思います。
求めるほうも求められるほうも、より個性化(心理学用語のものではない、単に個人化するという意味で)の時代になっているとも言えます。
個人を進めていくと、全体との確執もまた現れてきます。
その全体というものが、何を指すのかが難しいところですが、「大勢の意見」とか、「一般的な常識」とか言われるようなものになるのかもしれません。ただ、そうなると、心理学的にはスーパーエゴ(超自我)となって、自我の確立に対峙してくる存在にもなります。
そのようなことは、以前は、個人の中(の成長の過程で)起きていたものが、スピリチュアル的に見れば、それがひとつの(時代の)流れのように、全体としても起きていると言えるのかもしれません。
ところで、マルセイユタロットの中でも登場しますが、「巨大な人間像」として、アダム・カドモーン(カドモン)という存在があります。
アダム・カドモーンについては書くと長くなるのと、象徴性において、思想的に意見が異なるケースが多いので、深くは言及しませんが、あえて単純に言えば、ひとつに集合したモデルとしての意識人間体のようなものと例えることができるでしょう。
私たちが(理想的に)イメージする人類全体の統合人間像みたいなものと言えます。
このアダム・カドモーンに私たちは今なろうと、全体の流れがそういう方向性に来ており、しかしながら、そのためには、一人ひとりが自分がこの巨大人間のどの部分になるのがもっともよいのかを見極めている状況とも言えます。
ちょっとスピリチュアルな物言いになっているので、よくわからないかもしれません。
何が言いたいのか言いますと、おそらく、今もそうですが、これからもしばらくは、自分らしさが追及されてくる世界になり、悪く言えば、より目立ったもの勝ちみたいなことのようにも見えるでしょうが、それも大きな視点で言えば、進化の方向性でもあるということです。
そして、誰しもが、自分自身を表現していくことに対し、もっと自然なことになっていくでしょう。
だから今、自分を押し殺している(抑圧している)人、他人や周囲の目線、自分で勝手に作っている「全体」とか「みんな」とか「親」とかの言葉(実在というより、自分で思い込んだり、イメージしたりしている仮の存在)に、それこそ忖度(笑)してしまっているような人も、そこから解放する衝動、自分を出したい欲求というものが増幅してくると考えられます。
当然、その過程では葛藤や対立も表面化してきますが、それでも、以前は抑え込まれていたり、我慢や妥協で何とか穏便に済ませようとしたりしていたものが、そうも行かなくなって、問題の本質と向き合い、対処することが加速されるように思います。
このことは、マルセイユタロットの数でいえば、5と1に関係すると考えられます。
ところが、自分を表現していく、個性としての自分を出していくということが、多くの人で行われるようになると、先述したように、個々の間の人間同士で対立も起きますし、中にはわがままな欲求をすること、人に自分の思いを押し付けることが自分の表現だと勘違いしてくる人も増えるでしょう。すでに世の中はそうなっているとも言えます。
だからこそ、ここがもっとも重要と言えるのですが、もし、あなた(自分)の表現が、周囲の多くの人を傷つけたり、不幸にさせたり、怒りを持たれたりするようなことになるのなら、それはたいてい、単なる自分勝手な個人的欲求を爆発させているに過ぎないことを認識しなくてはなりません。まるで、駄々をこねる子供の表現と同じです。
もちろん、自分の表現が、必ずしも他人に、全部とか、スムースに受け入れられるわけではありません。
しかし、自分の個性的な表れが、他人にとっても好ましいこと、受け入れられることであるのが理想で、お互いに好ましく自分を表現し合えることが増える状態が個性の成熟度を示すとも考えられます。
そのためには、まずは自分を抑圧し過ぎず、自分としての意見を述べたり、表現をしたりすることは大切で、そうすると自分は楽になってくるはずです。
逆説的になりますが、相手の個性を認めるには、最初の段階として、自分の個性を出す、自分自身を認めることが重要になります。
他人に気遣い、自分を殺していては、他人の個性だけを無条件に受け入れることになり、それは一方的なことなのです。これは別のわがまま(自分を認めず、必要以上に抑圧し、自分を殺すというわがまま)であることを理解すべきです。
その次には、自分のわがままになり過ぎていないか、単に利己的欲求の充足と個性の表現を誤解していないかをチェックし、自分を出すなら相手も出すことを許すことができるかの段階になって行くでしょう。
自分から発信していくツールが、現在、山のように出てきた理由は、当然、機器とソフト面の発達もありますが、霊的に言えば、統合のための個の確立を促進するための流れと見ることができます。
とは言え、何事もマイナス面はあるものです。
個の発信が誰でもできるような時代になってきて、それらの弊害も多く出ているのも否めません。
ですが、すでに述べたように、ある種の意図が宇宙的にはあると見ると、もし、あなたが自己の表現や自分からの発信にためらっているのなら、勇気をもってやってみたほうが、全体の流れには合っていることになります。
そして、反対に、別に今あるたくさんのツールで自己表現、自己発信することが、あなたの「個性」ではないというのなら、それもまたひとつの「個性」であり、その選択も流れには合っていることになります。
要するに、自分らしくあればいいということです。(自分らしくある時は、自分が苦しい状態ではないはずです、もし自分らしくしているつもりでも、苦しくつらいのなら、どこか間違っていることになります、ただし、成長の過程ではつらさ・苦しさは当然あるものですから、ずっと楽であることはないと言えます)
一番まずいのは、ただ惰性的、衝動的、低次の欲求充足のためだけに自覚なく生き(自覚ある場合は、特殊ではありますが、有意義なこともあります)、みんなの意見とか、常識とか、大勢に迎合し、自分の意見を持たずに他人を攻撃したり、自分を抑圧したりすることです。
自分の選択においても、感情と理性、低次と高次、その葛藤は普通にありますが、どちらがよいというのではなく、その葛藤、悩みから何を学び、得るのかという、いわば自分を超えた第三の視点から見てみることだと思います。
マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードと「神の家」の接点を見るような感じでしょうか。
皆さん、一人ひとりの成熟した個性の確立、そこから来る祝福を願っております。
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