アニメ映画「天気の子」から

アニメ映画「君の名は。」で一大ブレイクした新海誠氏の新作、「天気の子」を観てまいりました。

新海作品の特徴である写真のような美しい背景、絵の描写は今作でも同様で、それを大画面で見るだけでも、なかなかの感動があります。

すでに100億の興行収入に至ったと報道されており、いくら「君の名は。」の余韻と期待の影響とは言え、面白くなければこんなヒットはしないでしょうから、多くの人に評価されたのだと思います。

ただ、個人的には、今回の作品にはひっかかる点が多く、総合的には評価を低くせざるを得ませんでした。日本のアニメーションは質が高いものが多いので、アニメ慣れしている者からすると、満足できないところもありました。また、隠された意味なども、推測範囲ではありますが、今回はそれが設定の色づけや雰囲気で利用されている感がありました。

ここからは、映画「天気の子」に関連しつつも、内容(映画の作者の意図や意味など)からは少し離れ、マルセイユタロットとからめつつ、別の話もしてして行きたいと思います。

映画の内容にふれますので、ネタバレも含まれますから、映画が未見の方や、これから鑑賞しようという人は、鑑賞後に読んでください。

新海氏の作品では、大ヒットとなった「君の名は。」でも、巫女(的な人物)の存在が鍵となっています。

今回の「天気の子」でも、天候を操ることができる(映画においては、雨を晴れにすることができる)巫女的な女性が登場し、その能力が物語の根幹をなすと同時に、結末に大きく関与します。

両作とも、神社・社のような場所が登場します。「君の名は。」では田舎の自然に、「天気の子」では廃墟ビルの屋上に描写されていました。

特に「天気の子」では、都会・廃墟ビルとの対比が際立ち、特別かつ異質な場所であることが強調され、しかも、ある意味、見捨てられた存在でもありました。ただし、完全に荒れ果てた社にはなっておらず、誰かがお盆の精霊馬(牛)のようなものを供えていたようにも見えました。つまり、聖なる場所として息づいている、生きていたということです。

私は大学時代、民俗学もやっていたので、こういう場所の意味については学んだことがあります。「天気の子」のあの描写から見ると、「屋敷神」的なものであり、ビル(に入居する会社・人間)を守る神になりますが、映画では、もっと大きな意味合いを持たせていたように思います。そもそも屋敷神も、日本の「家の神」と同様、祖先が神格化したものが多く、そうすると、身近な霊的世界との通路を、あの場所は示していたとも考えられます。

ところで、タロットをするようになって、民俗学で学び・経験したことが、霊的な意味をもって響いてくるようになりました。

現代は科学的な目線と心理的な目線で、民俗・風習を見ることが多くなっています。(それは悪いわけではありません) こうしたもので民俗的なものを考察すると、どうしても、意味合いに現実的なもの(言い換えれば物質的・三次元感覚的なもの)を見てしまいます。

例えば、神社があるから森(自然環境)も守られると見て、それが逆転し、森を守るために神社が機能していたというような見方で、さらに言えば、心理的な意見になってくると、森と神社の区域が継続されていくことで、当然、神社の区域は通常の居住域と違う環境になり、神社に行くだけで不思議な気持ちになるのだ・・・というものになります。

確かにそうとも言えるのですが、それは実益的な目線での機能論的であり、また結果論で、物質中心の考えみたいなものです。

霊的な見方になりますと、実は、本当に神社の存在に現実を超えた理由と意味合い(霊的理由、必要性)があり、その霊域のためには森が必要であるということになります。最初に「霊」や「見えない世界」ありきなのです。

もともと、神(物質次元を超える領域)を感じる場所だからこそ、神社や聖域があるというもので、区別したからほかとは違ってきたというのとは後先が別です。これは、「占い」をデータや統計の結果だと見るのと、もともとの根源的な象徴体系があって、統計から出た法則や結果ではないというのと同じとも言えます。

それはともかく、新海氏の作品で、このところ、立て続けに、巫女と、その巫女の特質による霊的通路を開くというモチーフが見て取れるわけです。

このことは、古代世界では、むしろ当たり前のことで、日本でも普通にあり、沖縄などでは今もって、、地域や家により、その伝統が受け継がれているところもあります。

マルセイユタロットでは、「斎王」(アルカナナンバー2の、普通では女教皇と呼ばれるカード)が巫女に該当します。

マルセイユタロットの大アルカナには、22枚のカードでもって、全体性や統合、完成を示す象徴性があります。数の順霊的成長を表していると言え、「斎王」は二番目という早い段階で登場するカードです。

ということは、タロットの作った者たちから見ても、「斎王」の存在がいかに現実の世界でも重要だったかがわかります。

マルセイユタロットでは、「斎王」の視線は、1の数を持つ「手品師」に向いており、「手品師」の作業を見守っているかのようにも見えます。ちなみに、「手品師」は若い人やそのような男性像も表しますので、ここでは女性が若く未熟な男性を見守っている、そういう力があることを示しているようにも感じます。

すると、その場合の巫女的な女性は、地域社会の母親的存在にもなっているわけです。社会的範囲に押し広げれば、男性の社会的・経済的仕事は、女性の霊的保護あって初めてうまく行くのだということにもなります。

「天気の子」では、島から家出をした主人公の少年が、天気を操る不思議な女の子と出会う物語であり、これは島が閉塞的な社会、もっというと、自分を閉じ込める限界的世界、旧世界を表し、それは実は自己を囲い込もうとする自分の母親(実際のではなく、像・イメージ・象徴としての存在)でもあるのです。

しかし、少年は家出をしたものの、新しい世界(東京)では経済的・社会的に困り、その救済の第一歩は、巫女の女の子からされているのです。それは、新しい母親代わりの出現でもあります。しかし、少年は守られることによって、まだ自分の本当の成長(独立・自立)はなされておらず、巫女の少女も、姉的な役割で、実際、映画でも年齢を偽り、少年よりも年上と言って、年下扱いをしていました。

少年の成長には、母性的なものだけではなく、父性的なものが不可欠で、新しい自分と社会に向かって生まれ変わるために、父性的な者からのイニシエーションが必要なのです。

その父性的役割に当たる人が、少年を雇ってくれた編集プロダクションのライターの人でしたが、いかんせん、映画では役割があいまいになってしまい、どっちつかずのような感じ(この人自身もまだ少年と大人の狭間で揺れていたと言えます)に描写されていた気がします。言い換えれば、映画では、現代において自分を強くさせてくれる父性の欠如(あいまいさ・揺らぎ)も示していたのかもしれません。

物語では、結果的に巫女を喪失することで、母親的な保護がなくなり、少年は大人(あるいは女性と対等な存在として)へと、自ら選択せざるを得なくなったようにも見えます。

さて、女性性・男性性の統合によって、真の調和がなされると、スピリチュアルな世界では言われます。

このことは、象徴的にも、実際的も、霊と通じていた古代社会では、多くの人に直感的に理解されていたように思います。

しかし、時代の進化のために、あえて、両性質の分離状態が強まり、これにより、物質的なもの、目に見える世界重視の傾向に、ますます拍車がかかりました。(分けるということは、はっきりすること、個性を持つことにもつながります)

ふたつの分離は、精神と物質、霊的なものと実際的なものの境界を切断し、ふたつはまったく別のものとして見なされ、特に見えない霊や精神の世界は、存在しないものと扱われるようになったのが現代の特徴と言えます。

ところが、しばらく前から、その反転が起こり、霊的なもの、見えないものの実在性を人々は認識し始めてきたと言えます。そもそもふたつは別なものではなく、ひとつであり、見方の違いによって、離れている(違うもののように見えている)たけには過ぎないという理解が、少しずつ出て来たように思います。

古代のやり方をそのまま現代に持ってくることはないでしょうが、少なくとも、かつては感じていた霊的なつながり、その存在性を再び新たな形で見出す必要はあると言えます。

「天気の子」では、一人の巫女的な女の子が、全体の天候の調整のために犠牲になる世界を、少年の少女への思いが変えることにより、別の世界線を選択するという話になっています。

すると、ここでは、多くの人が、主人公の最後にした選択がよいのか、少女を人身御供として多くの人を救う(天候不順を回復させる)ほうがいいのかという、二元的な正義の議論みたいになっています。

前者ではいかにもロマンという感じで、ボーイミーツガール、セカイ系アニメ(二人などの狭い人間関係が、世界全体の危機に直結したり、影響を及ぼしたりする話)でよくある形で、世界がたとえ滅んでも、少女との一緒の世界(瞬間・時間)を選ぶみたいな、これまたよくある感じにもなります。二人だけの恋の選択では、それも美しいかもしれません。マルセイユタロットでは恋人カードの次元の話(選択)です。しかし、言ってしまえば、それはある意味、全体への責任を放棄した、利己的な心中とも言えます。

いい意味で解釈すれば、人のことより、自分の幸せが大事だ、自分を犠牲することがよいこととは言えないという、他人や外側に忖度して(笑)、自分がどうしたいのか、どう生きたいのかを忘れてしまう人が多い今の警鐘とも考えられます。ですが、先述したように、わがまま、自分たちさえよければいいという自分勝手と紙一重です。(苦笑)

少年少女の純愛的なものでは、「交響詩篇エウレカセブン」というアニメがあり、「天気の子」のシーンとよく似ていたところがあって(物語の構図も似ています)比べてしまいますが、エウレカセブンのほうは、50話も描き続けた二人の関係の積み重ねがあり、なおかつ二人の選択が自分勝手とは言えず、多くの人を救い、愛を波及させるものであったので、主人公たち少年少女の恋愛に、胸を打つものがありましたが、「天気の子」は、正直、それほどでもなかったです。

では少女が人身御供になればよかったのかと言えば、これも「魔法少女まどか☆マギカ」ですでにされているように、ひとつの解決ではありますが、やはり、犠牲というのはつらいところがあります。古代社会においても、いけにえという儀式があり、それはそれで深い意味があったとは思うものの、ほかのやり方もあるのではないかという気がします。

言ってみれば、特別な能力の者に、特別な役割を担ってもらうということなのですが、イレギュラーに頼るそのやり方は、全体として覚醒がなされていないから、ということもあります。イエス・キリストの磔刑の型にそれを見ることも可能てす。

多くの人の目を覚ましたり、それこそ世界全体にまで影響を及ぼしたりするためには、特別な者の命の犠牲もやむを得ないところがあるのかもしれませんが、もっと別の解決策がないのかという思いが出るのも当然でしょう。

もしかすると、新海氏は、どちらの選択も問題があることをあえて示し、私たちにもっと高次の(創造的な方法の)見方を促したのかもしれません。そう見ると、「天気の子」も面白い作品となります。

「天気の子」の中のセリフで、「この世界はもともと狂っている」というような言い方が出ます。

これはある意味、グノーシス的な言葉と言えます。

私たちはこの狂った世界で、深刻にならずに、タロットで言えば「愚者」のように気楽に、自分の幸せを求めて生きて行こうじゃないかという人生の応援歌のようにも聞こえますが、グノーシスの見地に立てば、そんな能天気なことにはならないのです。

ですから、私から見れば、グノーシス的でありながら、反グノーシスなのが「天気の子」です。

「天気の子」では、雨が降り続く世界を選択したせいで、東京の街はかなり海に沈んだようになっていました。まるで、エヴァンゲリオンのセカンドインパクト後みたいな感じです。

それに対して、あまりにも以前と変わらない、能天気な人々が描かれており(そもそも、その前にも雨が続きすぎる天候では、あんな平常感ではいられないはずです)、災害続きの日本人の感覚では、おそらくありえないと感じた人も多かったのではないでしょうか。

映画の話は創作であり、どのように描かれても、それは自由です。

ここで言いたいのは、映画の話ではなく、現実の私たちの世界と選択のこです。

今の世界観や常識の中で、選択や方法を模索しても、堂々巡りになったり、何かの多大な犠牲を払わねばならなかったりします。

ここには、物質と精神(霊)が隔絶された世界観による、二元的な悪循環が根源的な問題となっています。

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中の二匹の動物状態です。

私たちが、ふたつに分かれた両者を統合できる視点を持てた時、「運命の輪」(その時点でのどちらかの世界・選択)を超えることでき、新しい世界に(次元)に移行します。

「天気の子」でいえば、ラストのどちらの選択でもない世界です。それは登場人物の思いが共有でき、しかも、特別なものの犠牲なく、霊的・社会的に進化した世界と言えます。(作品としてそれを描くかどうかはまた別の話であり、あえてすっきりしない終わり方をするのも、アートの世界の表現としてはありだと思います)

狂った世界であるのなら、狂っていない世界に戻す(戻る)知性と感性を働かせる必要があります。

私たちは、その試しを受けており、奥底には狂っていない世界に戻る鍵を誰しもが持っているのです。それが特定の誰かとか、特別な能力を持っている人のみとかではなく、私たち全員がそうである可能性に気づかないといけない時代になってきたのです。

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