生と死の世界の考察 救済システム

マルセイユタロットを見ていると思います。

平板(停止のような)な世界と波(動き)のある世界があるのだと。

これは言わば、死後の世界と生きている世界の関係なのかもしれません。

ただ、おそらく、どちらにあっても、動きのある状態とない状態というのは、それぞれの世界なりにあり、しかしながら全体的に見れば、やはり現実の「ライブの世界」のほうが流動的で変化が多いのは想像できます。(死後の世界があるという前提ではありますが)

聞いた話によりますと、死後の世界は本来穏やかで、あまり変化のない世界と言われていますが、生きていた時代に強く執着したり、死を受け入れられなかったりすれば、ほとんど生きている時と同じような状態の世界に住むとの話があります。

これは自分で(カルマ浄化のために必要な)世界を仮想的に作り出す場合と、現実の世界に彷徨う場合とがあると言います。

言い換えればそれは、本当に行くべきところ(例えると成仏したあとの世界)に行っておらず、何かしら別のところに留まってしまっている状態と考えられます。

この留まりの世界は、先述したように、自分が作り出す仮想的な狭間の世界の場合と、そこにすら行けず(創れず)、現実世界のままに死を自覚できなくて、あるいは自覚していても強い執着があって、いわゆる地縛霊・浮遊霊として留まってしまうのでしょう。

どちらにしても「霊体」として存在し、生身の体はなくなってしまうわけですから、特に物質的実感を得ることが困難になると思われます。ただし、自らが作る仮想空間に留まっている場合は、すべてがバーチャルなので、実感に近い感覚はあるかもしれません。

現実空間にいる霊体が、もし執着望みが物質的な実感を伴なわなければならないものであるのなら、それを味わうことができなくなるので、満たされることはできず、飢餓感ばかりが感じられますから、それは地獄と言っていいのかもしれません。

物質的な感覚だけではなく、感情や気持ち的なことでも、生きている人の世界、つまり現実の人に自分の存在や思いは伝えようがないので(特別な方法はあるのでしょうが)、これも苦しいままになるのではないかと思います。

あえて科学的に考えれば、死後は生きている時の存在状態から変化するのだと想像され、分子・原子とか素粒子レベルで見ていくと、すべてのものは同じながら、振動状態などの違いにより、固体で三次元感覚(表現)中心の現実世界では、霊体のような状態になると、固体と気体の違いのようなもので、まさに表現世界も違って、生きている時の感覚とは異なってくるのは当然だと思えます。

結局、自分の状態を真に認識する、理解することが、成仏の近道なのかもしれません。しかし、現実に生きている時の私たちもそうですが、案外、自分の過ちと言いますか、誤認、思い込みを正したり、解除したりするのは、難しいことです。ましてや、世界・状態が違うとなおさらでしょう。

現実世界では他人が固体として実在する感覚がありますから、他者からの影響、働きかけ、交流で、思い込みを解くことが可能です。

ところが、霊体になってしまうと、他の霊体も存在するでしょうが、より現実世界より精妙になり、自分と異質なものは見えないと言いますか、感じられなくなるのではないかと思います。よって、ひどい場合には、自分ひとりしか霊体として存在していない感覚のようになってしまうかもしれません。

誰かにコンタクトを取ろうとしても、状態の異質性によって気づいてもらえず、また誰かからのコンタクトにも気づくことができないおそれが強いです。これもある意味、地獄でしょう。

それでも、例えば日本では先祖供養などあるように、昔の人は、伝統的に、状態の違う存在たちに対してコンタクトできたり、影響を及ぼせたりする方法を知っていた(知らなくても儀式として伝承させていた)と考えられます。

ほかに、現実世界でも、霊体の世界を認識できる(つなげられる)特殊な能力者もいますので、そうした人の手を借りる場合もあるでしょうし、生身の人間本人が自覚なくても、心霊的に波長が合う人には、霊体側から憑くなどして(そういう人は霊体側からすれば、存在を感じ取れるのだと思います)、コンタクトしようと試みることもあるのかもしれません。

さて、現実世界に留まらざるを得ない霊体とは別に、成仏の前に、自分でこだわりをなくすための仕掛けを作り、そこで自己浄化を果たすこともあるのではないかと書きました。現実と成仏世界との間に、自分のカルマに応じた別種の世界を創造するようなことです。

これは人によって異なりますから、まさに、千差万別、それぞれの世界が生み出されていると言えましょう。

中には、自分の理想や願望を満たすための現実と変わらない世界を創ることもあるでしょうし、自らの苦悩、後悔などがあって、それが浄化されていない場合は、その設定を再現する世界を創造するかもしれません。天国のような世界とも言えますし、反対に地獄のような、その人自身しか経験しない不思議なバーチャル世界と言えます、

それでもこれは疑似(バーチャル)世界なので、自分の目的が達成されて、疑似であることに気づけば、成仏空間へ昇天していくのだと考えられます。ですから、この疑似的な創造空間は、それまでの、一種のモラトリアム空間(世界)と言えます。

このようなものが本当にあるのかどうかはわかりません。本で読んだり、人から話を聞いたりしてイメージしたものです。

また、創作の世界、特にアニメには、このモラトリアムの世界を描ているものが少なくなく(例えば「Angel Beats!」など)、もしかすると、そうした世界の記憶やシステムを、イメージの世界から情報として受け取っているのかもしれず、創作物に接していると、実在性を感じることもあります。

ここで最初の話に戻りますが、固定された状態というのは、このように地獄(人によっては偽物の天国)でもあり、そこに何らかの動き、流動性が生じることで、救済の可能性が出てくるということです。

いわば、違い(同じことが続く中でのイレギュラー)が救いを呼ぶのです。ところが、矛盾するような話ですが、異質(違い)過ぎると、そもそもコンタクトや交流ができず、存在さえ認識することができなくなるのです。

従って、救いのためには、何らかの形で異質なもの同士を同調させる仕組みが必要となります。(マルセイユタロットでは「節制」の象徴性)

言ってみれば、携帯電話を通して別の場所にいる者同士を会話させたり、翻訳機(通訳者)を通じて、違う言語同士を訳したりするみたいな話です。または、見えないものを形にする工夫、例えば絵にしたり、音にしたりするようなこととも言えましょうか。

生の世界と死の世界、生からすると死んだら終わりと思われがちですが、ふたつの世界をシステム的に思えば、両方の世界の必然性も見えてきます。

そのひとつが、今述べた、救済のシステムです。(成長のシステムと言い換えてもいいです)

生の世界、つまり生きている現実の世界は、常に流動する変化の世界で、逆に、死後の世界は、モラトリアムであれ、成仏的な世界であれ、どちらかと言えば、本質的には同じ世界、固定された世界と言えます。

一見、現実世界のほうが残酷に見えますが、もし、死後、ある状態で変化もなく、延々と同じことが繰り返されるのならば、「涼宮ハルヒの憂鬱、エンドレスエイト」の世界ではありませんが(アニメネタばかりで恐縮です・・・)、非常に退屈で、人によっては地獄になります。(繰り返しが平穏であれば、人によっては天国でもあると言えますが、ずっと続くと飽きてしまうでしょう)

その状態に救いをもたらすのは、ライブの世界、変化のある現実です。だからこそ、私たちは輪廻転生するのかもしれません。

逆に、変化や動きが多すぎても疲れてしまいます。ドキドキワクワクは楽しいかもしれませんが、悪く言えば、ハラハラの意味でのドキドキもあり(笑)、現実世界はなかなか気が休まることがありません。この世は生き地獄という人もいるかもしれず、生老病死、苦しみはつきものです。

そこで、死、死後の世界という固定的な世界に移行することで、私たちはひとときの平穏や浄化を経験します。そうして準備ができれば、あるいは退屈すれば(笑)、また現実の生の世界へと旅立つのでしょう。

これは、まるで、タロットで言えば、「愚者」の旅をしているようなものです。

マルセイユタロットでは、「愚者」が私たち自身を象徴し、一枚一枚、カードごとに体験の旅をしているという考え方があります。よく見ると、カードもまさにいろいろ、同じものがなく、これらの象徴を体験することは、変化そのものと言えます。

ただ、そうしたいろいろなカードたちではあっても、ある性質に分類することができます。それが大きくはふたつになります。

すると、ここでも、固定と流動、穏やかさと激しさ、光と影のような、二種の経験があり、旅が円滑に進むよう、活動と休息が交互にやってくるよう、設定されているように見えます。

さきほど、生と死の世界で、救済や成長のシステムが行われていると述べましたが、それをタロットに持ってきますと、タロットの描くところ(「愚者」の旅)は、現実世界だけではなく、死後の世界も象徴しているのだと思うことができます。

生と死というシステムの中では、私たちは両方を実際に体験する必要があるのですが、もっと別の、大きな宇宙的進化の視点で見れば、もしかすると、この生と死も統合されて、また新たな状態の二分による成長や救済のシステムに移行していくのではないかと思います。

カルマ的な表現で言えば、人類全体の旧カルマの浄化を終え、新しいもの(新しい形態の人類、存在)に変化する行先です。

もし進化した宇宙人や天使のようなものがいるとすれば、それは、私たちの今までの生と死の状態を超えた存在になっている者ではないかと想像します。

マルセイユタロットも、生と死の世界を描くだけではなく、それを統合した新しい状態を示唆していると考えらます。生と死を超越すれば、それは永遠の世界(命)で、いわば神でもありますが、その神にもレベルや段階はあるのでしょう。

進化的には、固体(肉体)と霊体というふたつの、かなり異質な状態に分かれる私たちの生と死が、半霊半肉みたいになり、やがて素粒子的な本質、つまり霊に戻る(成長)していくのだと考えられます。

とすると、現実の生の世界にいる中でも、霊的な世界、死後的な世界の状態を感じ始めることが増えていくのではないでしょうか。

変化や流動が過剰になって、疲れている人、止まろうとする人も増えるのかもしれません。マルセイユタロットで言えば「吊るし」であり、そのカードが「13」という死や解体、変容を象徴するカードの前にあるのも意味深です。

ダイナミックに動くだけが成長とは限りません、私たちは、一度立ち止まり、自他ともに救済モードに入る必要もあるのだと、今の時代、感じます。

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