選び、選ばれる存在 生きる価値

私たちは本来、何者でもないのだと思います。

これは色で言えば、色がない、ある特定の色ではないという意味に近いです。

つまりは、個性がないということです。しかし、それはまったく何もないという「無」の状態ではなく、限定した個ではないという意味で、言い換えれば「すべてある」「すべての個が含まれる」というものです。

要するに、「すべて」だから「ひとつの限定した者」や、何か「特定なものである」と言うことができないのです。それが「何者でもない」という意味です。

しかしながら、現実世界で生きると、個性を誰しもが持つことになります。そもそも肉体としての姿かたちが、もうすでに個性(一人ひとり違うもの)ですから、当然です。

従って、現実世界では、「私は何者なのか?」ということが、まさにこだわりを持って追求され、語られます。それ(個性)こそがひとりの人生と言ってもいいかもしれません。

人と違う人生を生きている、私は私であるという実感を強く持てれば、その人(の人生)は充実するのですが、皮肉なことに、人との違いは競争や比較をもって見られることが多いですから、優劣、持てる・持てない(モノや人気)などの感情を持つことも普通になります。

そして、それにより、自分が他者より劣っていると感じたり、無個性(強い個性をいい意味で自覚できない、持てない)を感じ、自分の人生がつまらないもの、取るに足らないものに思ってしまうきらいもあります。

強い個性のためには、人と違わなければならないわけで、多くの場合は、それはポジティブな賞賛を勝ち取ることで得ようとしますが、中にはネガティブな評価や見方をされることよって、それ(個性)を得ていく人もいます。

後者では、犯罪などの潜在的要因になっていることもあるのではないかと思います。

さらに、日本では、むしろ個性を出すことより、皆と同じでいることが無意識のうちに強要されるような社会でしたので、その矛盾性はねじれとなって、深層心理に根付いているのではないかと思います。精神を病む人が多くなるのも当然かと思います。

それでも、時代が進むにつれ、自分から発信することが容易になってきましたので、個性を出すことが、昔よりかは機会もツールも多くなったと思います。それによって、個性を出したくても出せない人や、個性がないと思っていた人が、今は生き生きとしている場合も増えました。

その反面、個性を認めてくれという承認欲求的なものも過度に膨れあがり、個性の表現と承認の応酬が激しく繰り返されている状況でもあります。

もちろん、そうしたもの(応酬パターン)に入らず、淡々と生きている人もいるでしょう。ただ、個性を出しやすくなった分、そんな中でも自分の個性を表現できない、他者から個として強く意識されないというのは、以前よりも深刻になり、自分の価値を小さく感じている人も、かなり多いのではないかと推測しています。

先ほども述べたように、この現実世界では、いかに自分に個性があり、人と違った「自分(他者と違う自分という存在)らしい人生」が過ごせるかによって、充実度が決まると言ってもよいので、自分の価値(個性としての)がないと思えば思うほど、自分の人生の意味は薄く、生きている実感も弱くなります。

セラピーなどでは、自己の価値を高めること、自尊の大切さが謳われますが、それは確かにそうではあるものの、こういう個性こそが現実みたいな世界のシステムの中では、自己の無価値観、空虚さが出やすくなるのも、致し方ないところがあると思います。

まあ、逆にいえば、だからこそ、自尊ができる、自己の価値を取り戻せるセラピーというものが、普通の人にとっても大事になりますから、生きづらさ、空しさを感じている人は、自分の価値を高めるためのセラピーや心理療法を受けるのはよいことだと思います。

そして、セラピストや人の相談をしている方は、その個人の悩みや問題を解消するだけではなく、実は、そうした人々へ自分自身の存在価値を高める仕事をしているのだと自覚することも重要です。

これは私の考えですが、個人の特定の問題や悩みも、その人の個性を訴えているものであり、言ってみれば、「私はここにいる」「私は生きている」「私は無視される存在ではない」「私はよく生きたい」というものの現れでもあると思っています。ですから、その訴えを解決するのももちろん重要な目的ですが、何よりも話を聞くことが大切なのです。

 

さて、もうひとつ、こういう現実のシステムの中で、少しは楽になる方法があります。

それはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが示すものです。

このカードでは、三人の人物がいて、真ん中の人が、どちらかの女性を選ぼうとしているように見えます。

このことから、「選択」というキーワードも出るのですが、これが私たちの人生を形作っていると言えます。すなわち、私たちは、毎日、一瞬一瞬、あることを選択しながら生きているわけで、特に人間関係の、選び・選ばれで、自分の人生の色合い(彩)が決まるようなものと言ってもよいでしょう。

私たちは、生まれるのも親のもと(親たち自身の選択)からですし、誕生以降、関わる人によって、自分の存在も決められてきます。もちろん、自分の意志はありますが、まったく人に無関心、関わりなく生きられる人は、特に現在では皆無と言っていいでしょう。

そして、これまで述べて来た、個性が人生という(他者評価と自己評価が結びつくシステムの)意味においては、選ばれる・選ばれないとう視点が出てきます。

つまり、選ばれる自分こそが優れている、よいことだと思うようになるわけです。たとえ自分が選ぶのだとしても、相手がそれ(選ばれたこと)を受け入れないと双方向にはなりませんので、結局それは、相手から選ばれるかどうかという意味にもなるわけです。

こうして、自動的に、私たちは、選ばれるという意識を強く持つようになってしまいます。しかし、当然ながら、選ばれることがすべて自分の希望通りには行かないのが現実でもあります。むしろ、自分が選ばれることのほうが少ないと言えます。そのため、自分から選ばれるように、アピールする人もいるわけですが・・・

この仕組みを理解したうえで、「恋人」カードの上部に描かれている天使(キューピッド)を思います。この位置は、三人の人間たちとは違い、俯瞰した視点になります。言ってみれば、選ばれる・選ばれないの次元ではないのです。

この天使的視点を持つと、一番最初に書いた「私たちは何者でもない(裏を返せばすべてである)」という状態を思い起こすことができます。

天使目線になると、選ばれる・選ばれない、選ぶ・選ばないという人間たちの行為が、言い方は軽いものになってしまいますが、一種のゲームのように見えて来るのです。

選ばれることが大事ではなく、関係性そのものが自分の色をつけ、さらには色を変えていることがわかってきます。個性は色付けもされ、脱色もされ、さらに塗り替えもされるのです。

「何者でもない」のは、実はもう「何者でもある」ということと同意義であるのだと気づいてきます。

あとは、この理不尽とも皮肉ともいえる現実システムの中で、いかにゲームを楽しむか、味わうかになります。

否応なく、ゲームの世界に来ているのですから、イベントに参加しているのに、自分は無視を決め込むというようにしていても、もったいないと言いますか、それではますます空しくなるばかりです。

天使の視点を持つということは、傍観者になれと言っているのではないのです。ゲームに放り込まれたら(あるいは進んで参加したのなら)、ゲーム設定の世界を味わうしかない、それ(ゲーム)をしたほうが面白く過ごせるのは必然だということです。

ただし、もうひとつ道があります。ゲームであると知ったのなら、ゲームをするのではなく、ゲームの仕組みを解き明かす、ゲーム世界からの脱出(可能かどうかはわかりません、通常は死をもって一時離脱となりますが)を目指すのも、ひとつの楽しみ方(笑)でしょう。

話を戻しますが、結局、個性というものは、この現実世界においての特徴的システムであり、それは仮のものでもありつつ、人間関係のつけ方によって、結構可変的に組み替えることができるのだと思えば、個性を他者からの評価によってもらうループ地獄に、はまり過ぎることは少なくなるでしょう。

心理学的、あるいは霊的に言えば、セルフアイデンティティ(自意識)は、他者評価がすべてではないということであり、もうひとつ、「別意識」によってもセルフアイデンティティは構築されていることに気づくという点です。

その別意識とは、「恋人」カードでは、天使に描かれている領域であり、他者視点ではない世界、つまり、自分の奥(本当の自己)の世界、霊的な空間といってもいいものです

古代や伝統的な社会では、それは神聖なものと呼ばれるものでした。従って、昔の人は、聖域や神聖な場所を、日常と並行して持っていたのです。

こうしたところにつながる機会を持つことで、私たちは他者目線の世界で自分が評価されるオンリーの仕組みから、逃れていたと言えます。いわば、自分で自分を評価する世界観です。(高次の自己が、低次の自我を統合していく瞬間)

すると、生きていることと生かされていることの両方の感覚が出てきます。

また、現実世界においても、選ばれることで誰しもが自分の評価を得ているのなら、あなたが誰かをよい意味で選ぶことで、その人が個性を自覚し、生きる実感を増す(自己価値を増す)ことかてぎます。しかし、現実的・物質的価値に傾きすぎた打算的な選び方では、それは脆いものとなるおそれがあります。

「恋人」カードの天使の矢のように、天使的な、いわば愛の視点で相手を選ぶと、それは強い絆となり、相手にとっても自分にとっても強い個性をもたらすことになるでしょう。

何者でもなかった者が、相手にとってかけがえのない確かな存在、愛する人、愛される人となるのです。色がなかった人に、生き生きとした色がつくようなものです。それはよく例えられるように「バラ色」と言えるかもしれません。

恋をすると世界がカラーになり、生き生きとするのには、そうした理由があるとも考えられます。

他者から求められ、評価される世界の喜びも味わいつつ、それがたとえ少ないものであったとしても、天使目線でいると、人や社会との関係性そのものが自分の個性を作っていると見えてきて、その選択のゲーム性を楽しむことができるでしょう。

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