タロットへの質問 いろいろな考え方

タロットへの質問(クライアント、自分がタロットに聞きたいと思っている問い)について、これまでも何度かこのブログで書いてきました。

私の考え方としては、一見、矛盾するようですが、タロットへの質問は、あまり意味を持たない(いらないわけではありません)という立場と、質問の工夫によって、タロットをうまく活かすことができるという立場との両方が混在しています。

アメブロで、1年前に書いた記事が自分のページに提示してくれる機能があり、偶然かシンクロか、ちょうどその1年前に書いたものとしてあがってきた記事が、後者(質問の工夫によってタロットリーディングも変化し、機能すること)について、わかりやすいと思いますので、それを再アップしておきます。

この過去記事では、まず、占い的な「なになにはどうなりますか?」のような受動的な問いより、「なになにする(なになにを実現する)にはどうすればよいか?」という能動的な質問にすることで、創造的な視点に変換できることを述べています。

当然、タロットからの指針も、「運命的にこうなる」というのではなく、自分が思い、行動するためのメッセージ、情報として扱うことができ、主体は自分自身であると自覚することができます。(タロット占いへの依存や、変に神秘性にあこがれるような事態になりにくい)

また、この記事には書いていませんが、質問そのものを絞ったり、具体的にしたりすることで、本来抽象的ともいえるタロットの絵柄とその意味を、現実的なもの、判断のしやすいものに落とし込むことができます。(しかし、これには問題もあり、そのことは後半の記事に関係してきます)

あと、記事では、タロットに質問をするのではなく、タロットの象徴性が自らに問いかけているという「リヴィジョン的な見方」のことも取り上げています。

たとえ、タロットへの質問があったとしても、タロットの意味に質問をあてはめるのではなく、質問そのものをタロットの象徴でもう一度見直す(ゆえにリヴィジョンと言われる)方法です。

これ(リヴィジョン)は、質問を工夫することの一種でもありますが、最初に述べた「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という立場にも近い技法と言えます。

では、その、「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という考えについて、一部になりますが、お話します。

とりあえずは、よく混乱するケースで、見てみましょう。それは言葉の問題が原因のものです。

例えば、「この講座を受けることはよいですか?」というタロットへの質問を行うとします。

そして、出たタロットによい・悪いという意味があったとします。すると、明確に、よい意味のカードが出れば、講座は受けたほうがよいという判断ができますし、その逆に、悪いカードが出れば、講座は受けないほうがいいとなります。

ところが、同じような質問ですが、ちょっと違う言葉(文章)になった以下の場合はどうでしょうか?

この講座を受けるのはよくないですか?(講座を受けるのは、自分にはあまり価値がないことですか?)

これに対し、よい、イエスと思われるタロットが出れば、講座を受けることがよいのか、あるいは、「受けることがよくないのでは?」という質問なので、質問自体に「イエス」と答えているとみて、つまりは、「受けることはよくないですか?」「はい、よくないです」という読み方をしてしまうことも考えられます。

また、カードの正逆と、吉凶的な意味のよい・悪いを入れた見方をする方法を取るならば、ますますこの混乱が顕著になります。というのは、正逆で意味がまったく反対になると見るものがあり、それだと、悪い意味のカードの逆向きはよいことになり、言葉だけで見ていると、質問に対しての答えがわかりづらくなります。

この問題の解決は簡単なことです。第一には、カードを吉凶、よい・悪いで決めつけた見方を採用しないことです。

もうひとつは、要は、否定の問い方をしなければよいということです。「なになにするのは悪いこと(よくないこと)なのか?」「なになにするのはダメなのか?」みたいな否定の問いかけをすると、カードが否定の肯定をしているのか、否定の否定をしているのか、それとも質問内容そのものの肯定なのか否定なのか、わからなくなってしまうわげす。

まるで、バカボンパパの「賛成の反対、反対の賛成なのだ(賛成の反対に賛成する、結局反対のこと)」みたいな感じです(笑)。(ちなみにバカボンパパのこの言葉は違う解釈もあって、意外に含蓄があり、なかなか哲学的・スピリチュアル的には面白いです)

次に、たいていの具体的な質問は、二元的な判断によるものがどうしても多くなります。それは、人間の現実生活が分離(どちらかの)判断基準を強いられる世界が常だからです。

ですから、生身の質問、現実(生活)の悩みから出る質問ほど、どちらがいいかとか、どうすれば(一般的・現世的な意味で)幸福になれるか(つまり、幸か不幸の)二元的選択の問いになります。また具体的でもあるということです。

ところが、言葉としての問いは確かにそうではあるものの、自分、あるいはクライアントが本当に求めている質問や、知りたいこと、気づきたい内容は別にあることが多いのです。

もう少し違う言い方をすれば、二元的な判断を求める自分も存在しますが、ほかの質問と答えを欲する自分、さらには、答えはもともと知っていて、質問と答えをまるで自問自答、自作自演のようにして楽しんでいる自分などがいるのです。

いわば、複数の自分が内に存在し、それぞれ、求める質問と回答が異なるのです。

そのため、一般的な、よく占いであるような現実的・二元的質問と答えは、確かに、ある自分を満足させはしますが、一方で、ほかの自分は不満であったり、もっと別の回答を求めていたりするので、そうした(別の)存在が自分の中に重要となってきた人には、もはや、通常の質問と答えのレベルでは、違和感を覚えたり、どこか納得しないところを感じたりするのです。

あるいは、別の自分の存在がまだそれほどではないにしても、一般的な質問と答えの繰り返しでは、同じ次元をループするだけのことになり、特に、精神的・霊的成長が望みにくくなります。

言い換えれば、その場限り、一代限りの自分が物質的に満足すればOKみたいなことです。(それが悪いわけではないですが、全体的、中・長期的に見れば問題であり、実は大きく現実的問題にも関係して来るのですが、そのことはいずれ別の記事で述べるとします)

ちょっとわかりにくくなりましたので、カウンセリング的なケースで簡単に説明しますと、例えば、恋愛の質問で「彼ができますか?」という人がて、それに対し、「いついつの恋愛運はよいですから、可能性があります。場所はこういうところで、相手はこのような人です」と占ってもらうことはあるでしょう。

しかし、実際にそのようなタイミングで、希望する人に出会え、恋仲になったとしても、すぐ別れてしまい、また、占い師のもとに、「次の出会い、彼はいつ現れますか?」と聞いて、同じように教えてもらったとしても、再び別れてしまったのなら、このクライアントの問題は、出会いとは別のところにあるのかもしれないことが予想できます。

このクライアント、彼女の質問は、現実的なものであり、彼との出会いについての質問ですが、それにそのまま答えることは、当人はおそらく満足し、実際に出会いがあれば、歓喜するかもしれません。

しかし、先述したように、これまでも、そして今後出会いがあったとしても、恋愛やあつきあいがいつもうまくいかないとすれば、本人の内面や、何か本人も気づていない問題データが残っているからとも考えられます。

このクライアントの質問自体は出会いへの方法やタイミングではあっても、本当の問題解決には、その質問を超えたレベルのものが求められることになります。

これは極端な例ではありますが、このように、当人の質問の言葉(当人が発する今の望みや疑問)をそのままをトレースして回答することは、一時的な満足や対処療法的なことになる場合があるわけです。

従って、「タロットへの質問は、あまり意味をなさないことがある」のも、これでわかると思います。

タロットへの質問はあくまで導入であり、そこから本人の気づいていないところまでアプローチし、最初の言葉とは別のレベルの回答を(本人がタロットリーダーととに)導き出すことも可能なのです。そのほうが、本質的に、タロットリーディングというものに近いと言えましょう。

ただし、必ずしもそれがよいと言っているわけではなく、ケースバイケースであり、現実的・二元的な質問に答える技術、タロット占い、タロットリーディングもありますし、それがクライアントの満足と救いのプロセスに乗せるきっかけになることもあります。

そして、最初に述べたように、質問に意味があるという立場を取ることもでき、それは質問、問い方によって、タロットをより活かすこともできるためで、ひいては、問い方そのものが、自分の人生を決めて行くことすらあると言え、その意味では、質問は非常に重要なものとなります。

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