人は天使になっていく

マルセイユタロットには、グノーシスという思想や背景が隠されていると言われます。

グノーシスについては、細かくなれば、いろいろな考え方がありますが、端的に言えば、自分が神的存在であることを知るという意味になります。

言い換えれば、自分が神(いわゆる外在的な神ではなく、完全性を象徴する内在的な神)であることを認識する叡智の獲得と言いますか、想起(思い出し)、覚醒のようなものです。

私は、マルセイユタロットを学習し、教えているうちに、グノーシスの方向性に自分がひかれるとともに、そこに自他(つまりは全体)の救いがあるのではないかという、確信めいたものを感じ、いわば、グノーシス探究が使命のようなものにもなっています。

さきほど、グノーシスにはいろいろな考え方があると言いましたが、そうなると、実は様々な探求、覚醒の方法があることにもなります。

言ってみれば、スピリチュアルや精神世界で言われるようなことは、皆、グノーシスに関係するとも言えるのですが、そこは、タロットの4組ではありませんが、タイプによって、自分の好みや関心もあり、導かれる方法・技術・論理も、それぞれに違ってくるのは、個性を持つ人間である限り、当然でしょう。

換言すれば、自分の覚醒には、もちろん、全体に共通するものはあったとしても、自分なりの方法があるということです。

この(個性の)違いを認めて行かないと、例えば、(変な)宗教の救済方法絶対論、ドグマに浸食されます。(救いの方法はひとつしかないとか、皆、同じ神を信じないといけないとか)

マルセイユタロットの小アルカナと、大アルカナの、特に一桁の数を持つカードたちは、そうした個性ある世界を象徴しているとも考えられ、どの道の覚醒方法を選ぶのかは、人によって任されている、あるいは各人の特徴(低いレベルでは好き嫌い、得意不得意にも関係します)によって決められるようなところがあると言えましょう。

しかしながら、大アルカナの中盤から後半の数を持つカードたちになってきますと、いくつかの目立った共通点も出てくるようになり、これらは、まさに統合的な存在に進化していくことを象徴しているようにも感じます。

すると、途中から大アルカナのカードには、天使なとの羽をもった存在が出たり、裸の人物たちが多く登場してくることに気づきます。それには、きちんとした意味(絵画的のルール的な意味と、タロットの隠された意味など)があるのですが、単純に言えば、見た目通り、次第に軽やかになって行っているように見えます。

軽さと言えば、、軽薄さとか、チャラいとか(笑)、悪い印象もないわけではないでずが、反対の「重い」という言葉と比較すると、ポジティブなイメージもたくさん出てきます。

だいたい、重いものは、あるところに固定するのにはいいですが、持ち運ぶには不便です。とすると、移動ができにくい、こだわってしまうという意味も出てきます。けれども、軽くなると、移動もしやすく、道具だと数も持てます。

パソコンでも、動きがにぶい時は「重い」と表しますよね。つまりは処理速度が遅くなり、軽いものは、処理スピードが速く、いろいろなことが高度に扱えるようになります。

心の表現で言っても、重い心と軽い心では、苦しさの印象がまるで違ってきます。

要するに、私たちが向上や覚醒を目指そうとすると、軽くなる必要があるということです。スピリチュアル的な言い方をすれば「浄化(による魂の浮上)」ということにもなります。

いくら自分が上昇しようとしても、足を引っ張られるがごとく、なかなか浮上できないのは、重しのような、重たいものをつけているか、気づかない重い何かが残っているからです。

重い・軽いは、苦・楽とも関係するように思います。苦は重さと結びついており、そのため、よい面では、苦によって、重厚で、何ものも動かしがたい信念や決意のようなものも芽生えます。人間としても軽佻浮薄にならず、しっかりした謹厳な人にもなります。

しかし、苦ばかりになると、やはり文字通り、苦しく、つらくなり、心も折れるでしょう。何かにしがみつていないと離れることのできない、重いしがらみを(自分で)抱え、ループのような生き地獄を味わう恐れもあります。

考えてみれば、これまでの普通の歴史(有史)では、人間中心の時代に向かって進んできたと言え、軽く楽しいことも、個々の人ではあったと思いますが、全体としては人間のいろいろなしがらみ・ネガティブなものに悩まされ、重たく苦しいことが多かったのではないでしょうか。

人々の想念は、もしかすると、宇宙の法則では、ネガとポジは半々なのかもしれませんが、今までの人類の蓄積、現在の世界の人々の出す想念は、ネガティブなほうが多いのではないかという気がします。いまだ人類が、そういうレベルにあるという印象です。

ですから、これからのことを思うと、なるべく軽いほう(軽薄という意味ではなく)、簡単なほう、楽なほうを思い、選ぶということが、タロットの絵図からしても、よき方向性ではないかと考えられます。

ただ、すでに述べたように、羽をつけただけでは、自分が重たいままだと飛べません。

自分自身の重しを軽くする、落としていく作業が必要でしょう。

そのために、今後、地球全体としても、また、個人個人として、すでに羽をつけて飛んでいるに近い感覚の人はともかく、まだ重たいものをつけている多くの人には、一層の浄化、重し落としのような出来事が加速度的に増えていくのではないかと想像しています。

重しを落とすには、それを破壊するくらいの衝撃、重しをぶつけるという方法が、ひとつには考えられるため、その場合は、苦や大変なこととして、自分の身に起こるかもしれません。(少しずつ、水が浸透していくかのように、内部から破壊していく方法もありますが)

もしかすると、今まで肉体的・精神的・経済的・人間関係的なことなど、様々な理由で苦しいばかりだった人は、自ら浄化役を人類の蓄積分も背負って、知らず知らず勤めてきたのかもしれません。こういう人は、非常に感謝される存在ですし、また、希望的観測で言いますと、浄化が全体で進む分、このような人は、ある日を境に、急激な上昇・(霊的)覚醒を起こす可能性があるようにも思います。

常識とは違う観点ですから、実際に苦しく、大変な人に安易なことは言えませんが、そういう人は、天使的な意味(地上的な意味とは異なる意味)で、「幸い」に近い人だと言えるのではないでしょうか。

ひどく落ち込んだり、絶望したりするような状況も人生ではあります。

それでも、光を見ることをあきらめず、自分の苦しみが、すでに実は備わっている自身の羽によって飛べるように、身を軽くしている(浄化していね)のだと思うと、光の存在が少しずつ見えてくるように思います。苦しみによって、確かに重たさを感じますが、だからこそ、逆の軽さ、楽しさの世界を志向することができるのです。

マルセイユタロットでは、光は(象徴的に)至るところに表現されていますが、「隠者」というカードでは、具体的なランタンの光のような形で登場します。この「隠者」の光は、一見、見えづらく、絵でも光っていませんが、まさに進む道を照らす光明として、あなた次第で、輝きを見ることができるようになっています。

「隠者」自身も、その名の示すように、耐え忍び、隠れている存在です。それがために、かえって、彼は光を持つ(見る)ことができるのです。

あなたの羽は、この時代、すでに羽ばたき始めていると思います。あとは、本当に飛べるように、あなたの重たい部分を軽くしていくことです。

それには、楽しさや軽やかさを、現実的な世界で求めていくことが向いている人もいれば、浄化役として、つらさも受けながら、成長していくような人もいらっしゃるでしょう。

それでも、全体的には、もっと軽く、もっと楽しく、もっと希望を持つこと(あきらめず、堕落せず、自暴自棄にならず、そうした思いが出る道、方法を探すこと)がよいように思います。ただ、人類全体の蓄積の影響か、なかなか明るく、軽く、楽に思えない人も少なくありません。それも個性です。

ですが、「蓄積」といったように、蓄積には蓄積が効果的でもあります。少しずつ、自分のネガティブな思いを払拭できる環境、心境、状況へと、瞬間・瞬間でも(たとえわずかでも)移行していくと、その積み重ねは、やがてあなた自身だけではなく、人類全体の蓄積にも影響し、クリーニングされ、重さは軽さに書き換えられていくことでしょう。

おそらく、どんな苦しみにあっても、象徴的な言い方をすれば、皆、統合されたイデア的・天上世界には向かっているのだと思います。あとはその実現のリアリティさの問題でしょう。人のリアリティ(現実感)は、つまるところ、人それぞれの感覚によりますから、希望を持つ想念の状態は、現実的にも大きな影響を持つと考えられます。

自分自身で希望が持てなくても、励まし、夢、応援、明るい未来図などを描けたり、提案したりする人と関わったりすることで、自分の中の光も消えずに済むことがあります。自分では見えない光も、他人には見えていることがあるからで、その逆もまたしかりであり、だからこそ、シェアし合うこと、助け合うことで、希望は出ます。

マルセイユタロットの「節制」の天使は、シェアや共有、助け合い、交流も意味するのです。一人では運べない重さも、二人三人と、天使の羽が集まれば、重たい人も飛べることが可能なのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top