人間関係の問題(スピリチュアル)

人間関係は、人の悩み事の中でも、大きな位置を占めると言いますか、多く人が問題とするものです。

タロットリーディングでも、クライアントの悩み、質問ごととして、よくあるテーマです。

それもそのはずで、単純に考えても、自分以外の人間は、世界で何十億もの人がいるわけで、しかも、その一人一人が、自分とは異なる好み、志向、考え方、経験等、いわば個性的世界観を持っているわけですから、普通に生きていれば他人と必ず関わりますので、そこに衝突や葛藤が起きるのも当然と言えます。

とすると、これもまたシンプル(単純)に見れば、ふたつの解決策が考えられます。

ひとつは、この現実世界は、違う人たちの集まりでできているのだから、完全に分かり合えることはないと割り切る方法、もうひとつは、一種のゲームように見立て、違う人たちであっても、理解し、協力し合える道を求めていく(そのプロセスや方法を楽しんでいく)という方向です。

ああ、あとひとつ、完全に他人との接触を断って、一人で生きていくという道(人のいない世界・場所に行く方法)もないわけではないですが、これだけ世界中が開発され尽くした今となっては、他人のいない世界、もしくは他人からの影響を受けない場所などというものは、ほぼない言ってもいいでしょうから、現実的ではありませんね。

それに、この完全孤独の世界で生きることは、修行者みたいなもので、普通の人にとっては、つらく苦しい方法となるでしょう。

しかしながら、話は少しそれますが、現代の普通の世界においても、人との接触・関係をなるべく断って生活する人が増えているのも事実です。それは、いわゆるニートとか引きこもりと言われる人たちです。

もちろん、これにはいろいろな理由があるわけですが、人間関係の意味から見れば、人との関りによって自分が傷ついたり、面倒なことになったりするのを避けていると言え、中には、自分だけではなく、他人を傷つけてしまうことを恐れている人もいるでしょう。

要するに、人間関係の問題について、彼ら・彼女らなりの解決策が引きこもりなわけです。

言ってみれば、最初に述べた解決策・三番目の、「人のいない世界に行く」という道の、現実バージョン(自分が移動するのではなく、自分の環境自体一人にする策)と言えましょう。

このように見ると、引きこもりの人が増えているということは、人間関係のおそれ・不安が増大していると考えられます。

そして、話は戻ってきますが、人間関係の問題は、実は深刻化していると同時に、全体的には別の形で、解決に向かっているのではないかということです。

最初に単純思考から、解決策としては、割り切り(完全に理解し合うのは難しいとあきらめる)か、挑戦(理解への道を、ゲーム攻略みたいに楽しみながら求めていく)かという話をしました。

どちらにしても、根本は、人間には相互理解と相互不理解(無理解)があるからと言えます。

人は、お互いのことが完全にはわからないようにできているものの、理解し合える部分も少なくはないわけです。

ですから、「協力」の文字通り、力を合わせ、一人ではできないことも可能になります。(余談ながら、「協」の字は面白く、「十」の字と力三つの構成で成り立ち、タロット的でもあります。キリスト教的には、十字架のもとに力を合わせるみたいにも見えますね)

ここが現実と人間の仕組みをよく表していると思います。

ところで、マルセイユタロットでも、カバラーの生命の木も象徴もそうですが、神のような宇宙的元型的状態(エネルギー)が、現実としての人や物事に個性的に表現されていく過程が示されています。これを逆に辿れば、人は神・宇宙・原初に戻ることができると考えられています。

一方、降りる、上がるという型ではなく、交互に回転(交替)していくという見方を取ることもでき、そうすると、神と人は、まるで並行次元のように、ただ形態の違う同じ存在というとらえ方ができます。

今の、まさに「人間」として存在する次元や時代があり、同時に、神のような存在になる次元や時代があると見るわけです。

このふたつは、おそらく逆転した世界状態としてあり、なにもかも反対・反転した意味にあるのではないかと考えられます。(この中間に、人間でいう「死」の状態があるとも想定できます)

もしかすると、ふたつの状態・次元を統括する、さらなる大宇宙の意志、存在次元があるのかもしれませんが、とにかく、このようにして見ると、私たちが「ただの人間」でいる状態には(大宇宙からすれば)、必然性があると考えられます。

そして、話はまた、人間関係に戻ってきます。

人間状態にある今の時代(次元)では、神状態とは違い、相互理解がなかなかにできにくい状況になっているでしょう。それは肉体と個性(自我)を持って、強固にその中にいると思い込まされる仕組みがあるからだと考えられます。

従って、私たちが、他人・相手のことが理解できず、人間関係に葛藤や悩みを起こすのは、心(人間性)の問題というより、人間自体の(霊的)構造の問題であると言い換えることができます。

この理屈からすれば、最初に述べた解決策のひとつ、割り切りを取るのもあながち、間違いとは言えません。しょせん、人はわかりあえない構造を持つからです。

割り切り法を取れば、話しが通じる相手、相性のよい相手を中心に人間関係を形成し、自分とは合わない人、考えの違う人などと、極力関わらない、あるいは、ビジネスライクにその場限りの対処でつきあっていくということができます。

ここで大事なのは、割り切り法は、自分も相手に理解してもらおうと過剰に求めないことです。相手には相手の考え・世界があり、話し合うことはあっても、無理矢理、お互いの世界を共通させることはせず、それは押しつけも、押し付けられもしないという意味になります。

一方、人は分かり合えない構造を持つのであれば、なおさら、それに挑戦していこうという立場も出ます。創造的対策とでも言いましょうか。

おそらく、このように理解しにくい個別の世界観を持つ人間たちであふれる次元が作られているのも、ゲームで言えばハンディがあるようなもので、最初から全員分かり合えていたら、何も新しい創造が生まれないという欠点を補うためではないかと想像できます。

違う考え同士の者がぶつかり合うことで、そこで妥協もあれば、両者が統合した第三のアイデアも生じる可能性もあります。

完全に分かり合えなくとも、一部の協力で、何かが新しく生まれることもあるのです。また、わかり合えない構造を補助するために、機械や装置も発明されるかもしれませんし、違う考えや文化、言語間のコミュニケーションの方法も、実際、様々に開発されてきました。

そもそも、男女の結婚というのも、まさに人間ならではの特徴と言え、最初は違うもの同士が和合するわけですから(やがて別れることもありますが)、相互理解へのチャレンジ、創造と言えましょう。(二人から子供も生まれますし、共同生活の過程で、一人の時には思いもつかなかったことが現れます)

人間関係の問題は、断ち切りや割り切りも、重要な対策と言えますし、違う世界観・考え・経験を持つ者同士、何とか理解しよう、協力し合おうとする挑戦の道は、苦しさがあっても、それ以上の喜びももたらせます。

これも、人間だから味わえることと言えます。私たちは、なぜかはわかりませんが、神ではなく、人間としての時代に存在しています。その理由は今はわからなくとも、必ず合理的な(宇宙的)理由があるのだと思います。

ただ、すでに時代は神への方向へ交替しつつあるように感じますし、上下型で言いますと、多くの人が下降ではなく、上昇への梯子を、かなり無意識下においても登り始めている気がします。

引きこもり現象も、一見、人間関係からの逃避のような、ネガティブなものに見えますが、一方で、もはや「人間」の型における、相互理解の難しさのピークの結果として現れているのではないかと思います。

いわば、人間としての構造の限界であり、人間経験の終了、物質次元での個々の理解や交流を何とかしていこうとする、挑戦の時代が終わりを迎えようとしているからではないでしょうか。

神的な存在になっていくと、おそらく、個々の意識はありながらも、集合的で巨大なひとつの意識に統合されていくと考えられ、すると、以心伝心的になり、言葉や行動で語らず(示さず)とも、お互いのことがわかるようになっていくはずです。そのような構造に人が変わっていくとでも言いましょうか。

こうなると、もはや今までやっていた人同士の(チャレンジ的な)交流の方法は古いものになり、また割り切り的な方法も、意味がなくなってきます。

引きこもりを全面的に肯定するわけではないですが、これまでの社会の仕組み・状態、人間関係の構築のやり方が、根本的に変わろうとしているのかもしれず、そのひとつが引きこもりの人たちを生んでいる(異質な見せ方でありながらも、時代の移行を象徴させている)可能性があるということです。

今は割り切り法、挑戦の方法など、それぞれの人が人間関係で採る道は混沌としています。

ただ、人間性や人格ばかりにフォーカスせず、人の構造自体に思いを馳せ、自身の愛を広げ、優しい世界をイメージしていくことは、重要だと思います。

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