マルセイユタロット、グノーシス会の発足

先日、タロットの受講生の中で、関心のある人が集まり、グノーシスを探究する会を発足させました。

これは、私たちの学んでいるマルセイユタロットに、「グノーシス」と呼ばれる教義・思想が描かれている(と考えている)ためで、グノーシスを探究していくことで、結局、マルセイユタロットの真髄と言いますか、隠された内容も明らかになって行くのではないかと思えるからです。

まあ、グノーシスに興味のある者からすれば、その逆でもあり、グノーシスの資料・ツールとして、マルセイユタロットがあると見て、両者の関係性が逆転します。(グノーシス思想があって、その思想伝達のためにマルセイユタロットがあると見るか、マルセイユタロットを見ていくと、どうやらグノーシス関係のこともあるかもしれない・・・という程度に、あくまで参考とするかみたいな違いです)

しかし、当然ながら、タロットに対しては、いろいろな考え方・立場があり、それはマルセイユタロットにおいても例外ではありませんから、グノーシスと切り離して扱うこともあるわけです。

私のタロットの受講生の中にも、似たような傾向はあっても、それぞれ個性があり、タロットに対するスタンスは一定ではありません。

その人の興味や関心、使い方がある中で、たまたまグノーシスに強い関心持つ人、学びたい人、研究したい者同士の集まりが発足したというのに過ぎません。

私自身も、自分の中にある多数の次元や人格(これは誰でもあてはまることてす、いわばタロットカードの数だけの自分がいると見ていいのです)を尊重し、例えば、これから、占い部門とか、心理部門とか、セクションに分けたグループを作って行ってもいいかもしれないと思っています。

生徒さん向けにはなりますが、今後の学びは、多様性を持たせながら、やはりマルセイユタロットという同じ種類のタロットを学ぶ者同士の統合性も踏まえて展開していきたいと考えています、

そして一般の方にも、マルセイユタロットから得られる示唆や智慧を、もっと広く簡単な形、あるいは楽しい方法などで披露できればとも考えています。

さて、グノーシス会、どんな風になっていくのか、まだこれからのところがあります。

グノーシスについては、おそらく検索してもあまり出て来ないのではないかと思います。それだけ隠された歴史も長く、よくわかっていないところもあるのです。

一言で言えば、「認識」という言葉にグノーシスは置き換えられるのですが、それは何を認識するか?ということであり、その「何」に当たるのが、神(性)、または完全性と言い換えられるものです。

要するに、「人間即神也」「人間すなわち神なり」という、ことわざのような言葉で表すことができるのですが、これは決して、傲慢な思想ではなく、むしろ、私たちが現実世界では、なかなか自尊も持てず、様々な災厄や悩み、苦しみに苛まされることで、ともすれば無力で小さな、ただ運命に翻弄される人間という感じに対して、そこから反転・逆転ともいえる発想を持って考察されたのが、グノーシス思想ではないかと思われます。

神になってえらくなり、人や万物を支配しようというものとは真逆の発想なのです。

神になるのではなく、神であることを思い出すというのに近いです。

私たちが神(完全)であることを忘れ、何らかの原因で、この現実と通常状態の、ただの(ある意味、無力な)人間に貶められているわけです。

貶めたのは、よくある陰謀論のような話ではなく(ただし陰謀論は、物質的見方から離れると、象徴的にはグノーシスとも関係すると思います)、ひとつの考えとして、私たち自らが自分を貶めているとする向きもあります。

私自身はそのほうが見方としては合理的なような気がしています。(自らがもとは完全性の出身であるならば、今の人間である理由も必ず、完全な理由があるはずだからで、それは大いなる神なる状態の自分自身が意図したと考えたほうが理屈が合います)

グノーシス思想は、ナグ・ハマディ文書というエジプトで発見された写本などにより、古い時代の実在性や、かなり昔から流布していた思想であることがわかってきましたが、それまでは弾圧する側(キリスト教など)からの記録からが主で、よくわかっていないところもありました。言ってみれば、昔の都市伝説的な扱いのこともあったのです。

しかし、最近は、学術的な研究も進んでいると聞きます。

そうした学術的な分野は、その道の専門家にお任せするとしまして、私たちマルセイユタロティストが、今の時代に、再びグノーシス(思想)を取り上げているのは、むしろ、現代において必要なのではないかと考えているからです。

マルセイユタロットも、作られたのは17から18世紀頃と言われますが、その描かれている内容と象徴性は、数千年の歴史を持つと想定されます。グノーシス思想もその中にあります。

こう書くと、古い時代の象徴性が、今に何の役に立つのかと疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。

しかし、歴史は意外に不思議なもので、昔(古代)のほうが、象徴システム・霊的覚醒プログラムなどが、優れていたこともあるのです。

今の大きな宗教も古い時代にできていますが、いまだ多くの人に信仰されているところに、本質的には、霊的な力があるからだと考えられます。(しかし、弊害もあり、次第に純粋なものは失われ、形骸化していき、権力になってしまう場合が多いのですが)

あと、これは、一見、とんでも説ではありますが、グノーシス的な見地では、私たちが今のような普通の人間状態の前に、神的な人間とでもいう、次元の違う存在でいた時代が過去にあり、それが交互に入り替わって、宇宙システムとして発展していくという考えがあります。(マルセイユロットにも、それはうかがえます)

となれば、(あくまで人間としての地球時間単位で見た場合)に遡るほど、神に近くなっていくという、普通の時間進行の発展・成長とは反対の考えも出ます。(ただし、人間は人間としての科学技術・知識の発展は時代とともに進んできたとは言えます)

簡単に言えば、(かなり)昔のほうが、霊的な面、その全体性としての認識が純粋であったということです。

神を思い出すには、昔の象徴システムのほうか思い出しやすいわけです。

あと、今の時代は、深刻に霊性が物質化してしまっていると言いますか、端的に言えば、お金のようなものに価値の最上が挿げ替えられています。

多くの人は、生きづらさ、行き詰まり、閉塞感、何か世界が無機質で同じ感じ、乾いた機械のようなものになって行っているような感じを覚えないでしょうか?

一方で、何かや誰かに洗脳されたり、陶酔したりして、熱狂的な自分になったり、夢見がちな自分になって、現実逃避を図ったりする人もいます。

狭義の意味のスピリチュアルにはまり、それでいて、自分(だけの幸福)を求め、右往左往する人もいます。また、自分の中にある心理的なブロックのようなものをひたすら探し出し、その解除にやっきになって、ますます泥沼にはまっている人もいます。

これらは、マルセイユタロットの「運命の輪」の中にいる動物たちでも象徴されますが、アーリマンとルシファーと呼ばれる、偏った悪(魔)的構造を示唆しています。(ただそれが悪いと言っているのではなく、それに気づかず、偏った状態に固定していくことに問題があります)

現代社会は、ますます、このどちらかのふたつに傾きがひどくなり、社会全体としてはアーリマン化、個別ではルシファー化が進んでいるようにも見えます。(反対の面も言えるのですが、どちらにしても偏りです)

この傾きを是正するためには、グノーシス(神の認識、そのプロセスとして、自分の中にある二元統合)が必要とされます。

だからこそ、今、またグノーシス思想なのです。

グノーシスは、言い換えれば霊性の復活であり、また科学との統合でもあります。(グノーシスは認識であるので、“神や何かを信じる(信じれば救われる)”という信仰ではなく、冷静に物事を観察し、分析する力と、内的にも浄化・改革を行っていき、自らが気づき、神なる完全性に思い至っていくというものです、言い換えれば、自分自身を知り、自分が自分を救うのです)

グノーシスという言葉ではなくても、日本人ならば、おそらく、なじみやすい思想だと思います。

中東や西洋の国々では、一神教が力を持ち、その信仰者数もすごいものがありますが、同時に支配と権力、そのための争いも世界中に巻き起こりました。今や、一神教のベースが、世界を作っていると言ってもいいかもしれません。

ですが、昔から、その一神教的なものに対抗していた(一神教的なものから弾圧されてもきた)のがグノーシス思想です。

グノーシス思想では、一神教の神を逆に悪魔だとして、本当の神は隠されていると主張していました。あくまで象徴的な言い方・例えにはなっていますが、皮肉にも、それはなかなか、今の世界においても通じることではないかと思います。

本当の神はどこにいるのか、ここまで説明してくれば、もうわかると思います。

グノーシスはその神を再び見つけ出し、世界を変革する(あるべき姿に戻す、次元の上昇を起こす)思想・教義なのです。

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