変化したい心と、変化したくない心

自己改革と言えばかっこいいですが(笑)、人は自分をいい意味で変えたい、変化させたい、向上させたいという思いが誰しもあるものです。

たとえ、世間から悪人のように思われている人でも、おそらく自分なりの価値観に基づいて、今の自分より変化させたいと思っているでしょう。

それは、一般人から見ると悪を強めている、堕落させているように見えて、本人自体は、その人の思う強さ(破壊であってもそれにつながります)、変化と思ってやっている者が多いと想像されます。

ということは、人間にはずっと同じ(自分)でいること、それに抗うような、そんなプログラムが施されているのかもしれません。

この現実世界が束縛や困難が多い反面、それだからこそ自由や楽しさを追求できたり、多様性に満ちて変化に富むことを味わえたりするのも、そういう理由があることが考えられます。

しかし、一方で、皮肉というか、面白いことに、まったく正反対の志向も人間には備わっています。

それは、変わりたくない、このままがいい、安定したままでいたいという思いです。むしろ、こちらのほうが、通常では強い力が働いていると言ってもいいでしょう。

その一番大きな理由は、たぶん、人間の体の仕組みにあると思います。恒常性と言われるように、人間の身体は、体温とか心臓などの動きを一定に保とうとする働きがあるのは知られています。

そうしないと生命が維持できないですし、太古の昔にさかのぼれば、環境的にも変化の多いむきだしの状態が多かったわけですから、生命を守り、維持・安定させていくのには、多大な機能とエネルギーが使われていたのは、容易に想像がつきます。

それが遺伝子的に記憶されているのであれば、直接的な命の危険がほとんど去った現代であっても、何かのことで、その機能がオンになってしまうことも十分に考えられます。

こうしたものが過剰反応となり、まるで免疫機能がおかしくなって攻撃しなくてもよいところに攻撃(防御の意味の攻撃ですが)して、体がおかしくなるような状態に似て、本当は変化してもいいのに、いや、むしろそれが望まれるのに、ずっと前(今)のままでいようという働きが起きてしまっている人は少なくないのではないと考えられます。

また、変化を決意しても、三日坊主で終わったり、躊躇や恐怖が出てしまったりするのも、このような理由のせいもあるでしょう。だからある意味、変化ができないのは、自分のせい(意志の弱さなど)ではないのだと、慰めることもできます。

やはり、何事も、無理に何かをしようとして、その力を強くすればするほど、当然それに対抗する力、抗おうとする力も増えてきます。

車でいうと、アクセルをふかそうとすればするほど、動かせまいとするブレーキの力も強まり、両者の力が激しくぶつかりあえば、機械が壊れるおそれが高まります。ひどい時は爆発してしまうかもしれません。マルセイユタロットでは、「戦車」のネガティブ象徴みたいなものがイメージされます。

それでも、最初に述べたように、人には、変化したいという欲求もありますので、厄介なものです。

変わりたいけれど変われない、変わりたくないけれど変わりたい・・・この振り子作用で、莫大なエネルギーが消耗されて、結局、何もできないどころか、心が消耗し、また変化して自分の意識や資源(収入や、よき人間関係など)を拡大することなく、悩んでしまう人がたくさんいるのだと思います。

ですから、この両方の相反する思い、欲求というものをうまくコントロールしていく必要が人生ではあると言えます。これもマルセイユタロットの「戦車」のカードの象徴性に関わることでもあります。

ふたつをうまく扱うには、まず、やはり、相反するこのような欲求とでもいうべきものがあることを、素直に自分に認めることからでしょうか。(変化できない自分を責めたり、安心安全を求める自分を否定したりしない)

そして、たいていは変化の欲求のほうを叶えようとする時に、問題性や危険性が増しますので、変化したいと思った時にはチャンスでもあるのですが、無為無策では危ないです。

同時に、状況は明らかに、どんどん悪くなっているのに、変化しないでいるのは、安心安全の変わりたくない欲求の奴隷になっている可能性が高いです。

だからと言って、変化を急激にしようとすると、抵抗の力もそれだけ増大するという作用反作用の仕組みも、考慮することです。

まあリスクが大きければ、得られるのも大きいのでしょうが、自分のタイプ(冒険に向いているタイプか、石橋をたたいて渡るタイプかみたいな傾向)を知り、人がうまく行ったからと言って自分がうまく行くとは限らないことと、その反対に、人はダメでも自分はうまく行くこともあるという、個性の把握も重要です。

マルセイユタロットからの示唆でもありますが、変化の際には、非常識を常識化していくステップも大事です。

それは情報と行動による、自分にとっての非日常化から日常化への変化と言い換えてもいいのですが、無理だと思っていること、自分の常識外のことに、自分の世界を移行させていくことなのてす。

しかも、それが安心安全の逆方向の欲求とあまりにも相反しないように(抵抗の力が増大しないように)、安心と思う部分を残しつつ、変化の過程を踏んて行くのが望ましい(冒険を好み、恐れがもともと少ない人は、それをしなくてもジャンプできますが)と思います。

このステップを踏むには、独力ではなかなができません。

安心安全保持機能により、自分の世界観が今のままで強固になっているからです。それを崩すには、安心安全部分をだませる(笑)くらいの他者の力や、自分の非常識がすでに常識になっている人からのアドバイスや助力が必要なのです。(実際に、今の自分の世界外に、その人が安心安全で存在していることを実感すれば、自分の安心安全の縛りはむしろ弱まるわけです)

マルセイユタロットにおける杖(火)の存在でもあり、剣や鷲(風)の存在の重要さでもあると言えるでしょう。

例えば、お金で言いますと、月収20万円の人が、50万になる常識の世界、100万になる常識の世界、300万になる常識の世界・・・みたいに、ある種、世界そのもの(情報空間)の認識が違うわけです。

いきなり、月収500万になるぞ、と引き寄せイメージしても、そもそもその人には月収20万円の常識世界が限界ですから、それを安定させようという知識や行動は出ますが、そこからかけ離れた世界に行くのは、ブロックがかかる(そもそも情報がない)のが当然なのです。

自分の夢と現実化というのは、かけ離れ過ぎていると、今に安定(現状維持かそれ以下に)させ、留めさせる力のほうが強く働くことが多いでしょう。

従って、変化や上昇のためには、自分の世界観を、安心安全(の欲求)に配慮し(本当はそうではないとしても)、一部でも説得させながら(笑)、徐々にステップアップ(世界の移行)を図るほうが、一般の人には有用だと考えられます。

それは、一人ではなかなかできないことでもあるのは、前述した通りです。

私たちは、マルセイユタロットていえば、「吊るし」と「愚者」を繰り返しながら、成長していく存在なのかもしれません。

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