「手品師」と「節制」から

最近は、アルカナナンバー14、「節制」に関する記事をよく書いておりますが、実際に浮かんでくるカードも「節制」のことがよくあります。

それだけ、個人的にも、また全体(社会)的にも、「節制」のカードの象徴性に、大きな意味がある時なのかもしれません。

そして、今日は、「節制」だけではなく、「手品師」(アルカナナンバー1)も併せて出てきました。

この二枚のカードを並べてメージされたものが、今日の記事の内容になります。

ところで、「手品師」のカードと「節制」のカードは、まったく似ていませんし、一見すると無関係なカード同士に見えます。

しかし、マルセイユタロットでは、どのカードとも連繋をしますし、関係性を持ちます。(これはタロットの種類に限らず、いわゆるコンビネーションでリーディングすると、当然、どのカードも関係性をお互いに持つことになります)

言葉や文章のように、カード同士がつながると、一枚単体の意味だけではなく、新しい意味なども出てくるのです。

私が当初から学んでいた「カモワン流」のタロットでは、視線カードという概念があり、カードの人物の視線の先に置くカードとの関係性を強く読む(意識する)ことが普通でした。

このことは、今の私のカードの見方(読み方)に受け継がれています。

カモワン流の視線カードの技法の良さは、まるで人間のように視線を追うことで、カード同士の関連性を、特別な意味を覚えることなく、物語やストーリーのように視覚的にとらえて、カードからの示唆・意味を見出しやすくすることがあります。

これが、例えば、カードがたとえ複数あったとしても、それぞれがバラバラで、あるいは置く場所が決まっていたとしても、カード同士が離れたところに置かれていると、カードをつなげてひとつのストーリーにすることが難しくなります。

もっとも、一般的にタロットのスプレッド(展開図・展開法)自体が、ストーリーを作るシナリオ構成になっていることが多く、カードが単体で離れていても、ひとつひとつ、置く場所の意味と出たカードの意味とを重ねていけば、物語ができるようにできているので、必ずしも、視線を追わなくてもストーリーは作ることができるわけです。

話題がタロットの展開や読み方の技法の話になってきましたので、元に戻します。

ともかく、「節制」と「手品師」は、二枚を並べると、共通性がないようでいて、よく見ると、ともに局所的なことを示しているのがわかります。

「手品師」はテーブルの上にある手品道具を使って、大道芸をしてお客を楽しませています。

一応、手にも道具を持ってはいますが、基本、道具類はテーブルの上にあり、つまりは、この「手品師」にとっては、テーブル内こそが彼の使える範囲であり、手品が自由になる世界なのです。

一方、「節制」は、天使がふたつの壺を持ち、そこから液体を移し替えている、もしくは混ぜ合わせているように描かれています。

ふたつの壺を持つカードにはアルカナナンバー17の「星」がありますが、その「星」とは違い、「節制」の壺の水は、ふたつの壺の間でしか移動・交流がありません。そういう意味では局所的なのです。

ということは、「手品師」・「節制」の二枚からは、限定的・局所的な意味が強調されることになります。

ここで、「節制」をメインにした場合、「節制」は天使でもあり、詳しくは延べませんが、救済や癒し、サポートに関わるとされるカードです。

そして「手品師」は、手品をする大道芸人ですが、彼にとってはそれが仕事でもあるので、仕事という意味も出ます。あるいは、日々している作業と取ってもよいです。

すると、「節制」をメインとして今考えるわけですから、救済やサポートの仕事、作業をするということになり、さらに前述の両者(二枚)における「限定的・局所的」である共通点を考えますと、その救済は、誰彼なくやるものではなく、この範囲でとか、この人(たち)にとか、自分として本当にサポートできる範囲で施すという意味合いが出てきます。

例えば、親孝行をしたいと思っている人がいて、しかし、自分はお金もない、親とは距離があって会いに行きにくいとか、少しわだかまりが残っている・・・などのことがあって、なかなか思うような親孝行ができていないと考えているとします。

そのために結局、何も親にはしていない、してあげられないと、苦悶しつつも、放置しているような状態となっています。

ですが、ここで「節制」と「手品師」のように、まさに自分ができる範囲で、自分が許可できることの中でやればよいとなりますから、ただ親のために祈るとか、感謝を心で言うとか、メールや手紙を送るとか、お金ではなく、何かささいなモノでもよいので送るとか、親には買いにくいものとか、ネット関係の情報・労働を提供するとかで、完璧や理想の親孝行というものを一度手放し、限定的でもいいので、とにかく何かやる(パフォーマンスする→「手品師」です)という示唆になってきます。

「手品師」をメインに考えた場合も同じで、「手品師」が仮に仕事の意味だとすると、テーブルの上だけは自分の裁量範囲で自由ですので、狭いながらも、自分が今取り掛かれること、やれること、たとえ制限はあっても何とか自由にできる範囲のことをやればよいのです。

それが「節制」の意味として合わさると、仮に「節制」の象徴性が経済の流れ(壺の水から)、つまりお金(の流れ・扱い)だと見れば、それが局所的・限定的(支払える範囲、使える範囲)ですから、仕事で自分のやれる範囲で投資をするとか、節約しつつも、創意工夫で手品師のように、すでにある手品(仕事)道具・ツールで、うまくお客さんに見せる(魅せる)ことができるはずと考え、実行していくというアドバイスができます。

結構多くの人が、完璧主義と言いますか、全部そろわないと動けないとか、自分の思う理想的な状態がやってこないと実行しないというところがあります。

タロットリーディングなどもそうで、すでにかなり学びをしているのに、自分のリーディングに自信がないと言って、なかなか他人に対してリーディングを実践することをためらってしまう人がいます。(他人リーディングをやってみたいという思いがある人の場合です。もともとそれをやることを求めていない人は別です)

人によって、実行するための条件というのは違います。

条件がすごく緩やかで、簡単な人もいれば、これとあれとそれと・・・と、かなりの条件が整わないとやれないという人もいます。この「条件が整う、そろう」という意味では、不安や心配がなくなるとか、心のブロックがはずれるという意味のことも入ります。

心理的な条件がきつい場合、なかなか実行には至りにくいものです。それは心理的ゆえに、モノや環境が揃っても、必ずしも心理面のブレーキがはずれ、アクセルが踏まれるとは限らないからです。

逆に言えば、心理的ブレーキがはずれれば、条件は完璧でなくても進めるわけです。

そのひとつには、「節制」と「手品師」のように、限定的・局所的でもいいのでやってみるということがあります。

言い方を換えると、自分が許可している範囲、今の自分が自由な扱える範囲でやるということも検討しましょう、ということです。

例えば、瞑想をやると決めても、30分は無理ということなら、今の自分なら3分くらいならできるし、許せるというのなら、それでまずはよしとするわけです。やらないよりましで、「手品師」ではないですが、大事なのは、仕事のように作業化(習慣化・ルーチン化)してしまうことです

私が思うに、現実世界は、形が重視される世界ですので、いかに実際に外に表現し、行動するかに(現実的)変容はかかっていると思います。

もちろん、その裏には精神や心が作用しているわけですが、頭で理解し、心で納得しても、何も外に向かってやらなければ、そのままであることが多いのです。

「手品師」はアルカナナンバー1です。始まりでもあるわけで、完全ではなくても、始めることに意味があるとも言えます。

ちなみに完全を意味するカードは「世界」ですが、これは21のナンバーであり、その間にはたくさんのカードがあるわけです。

いきなり21になる(至る)のは難しいのは当然です。しかし、21の「世界」と1の「手品師」には、明確なシンボルの共通性があり、それこそが、始まり(始めること)が完成の種、エッセンスであることを如実に示しています。

ためらっていること、条件がそろったらやろうと思っていることの中で、限定的でもやれることは表現してみると、その実現への線路に乗ることになるのです

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