小アルカナとリーディングの二方向

マルセイユタロットでは、大アルカナと小アルカナ(のうちの数カード)の絵柄はかなり異なり、特に小アルカナ数カードは、その記号的な絵柄もあいまって、なかなか読みにくいということがあるようです。

残念ながら、日本では、マルセイユタロットはいまだマイナータロット(苦笑)ですので、マルセイユタロットに関する読み方の本はとても少なく、独学は不可能に近いかもしれません。

また、マルセイユタロット使い・講師の方でも、旧タロット大学で学習した関係者、その方々からの流れの人が多く、いわゆる「カモワンタロット」のリーディングメソッド(カモワン流)が広まっていることがあるのですが、カモワンメソッドでは大アルカナが重視される傾向があり、小アルカナの扱いと読みについては簡略されていたところがありました。

私は旧タロット大学出身で、カモワンタロットから入りましたが、だいぶん前に独立して、オリジナルな道を進んでいます。

そのうえで、自分なりに小アルカナの読み方の方法を探求、実践してきました。その中には、おそらく、どの講座でも言われていない方法があると思います。

それはさておき、小アルカナにも、実は読み方としては、ふたつの方向性があります。

そのふたつの方向性は何かと言えば、昨年、同時期に書いたブログ記事に詳しいので、再掲しておきます。

「タロットリーディングの二方向性」

つまり、タロットリーダー側がタロットの象徴性や意味を当てはめて読む方向性と、タロットの側からタロットリーダーに向けて、まるでタロット自らが、問いやテーマとして語りかけてくるかのような方向性です。

タロットを見るか、タロットから見られているかの方向性の違いと言い換えてもよいでしょう。

これを小アルカナにもあてはめることができます。

しかしながら、特に数カードは、記号的な図柄になっていますので、タロットからの方向性を想像するのは困難かもしれません。

私の生徒さんにも言っておりますが、小アルカナのリーディングには、まず慣れが必要です。

簡単に言えば、小アルカナと仲良くなる意識と言いますか、感覚です。

人間でも、相手のことで苦手意識があれば、あちら側に伝わり、ますますコミュニケーションが取りにくくなります。

ですから、小アルカナと親しくなり、日常使いできるようになっていくのが大事です。それは読むのではなく、慣れるということであり、何かメッセージを得ようとか、リーディングして意味を見出そうとか、意識を向け過ぎないことです。

それより、最初は、戯れのように、小アルカナと遊ぶことがいいのです。

そして、4組ごとのイメージを持つようにします。具体的には、数カードならば、剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)の10枚セットごとに、それぞれの組(つまりは四大元素になりますが)を全体でとらえるようにします。

すると、先に挙げたふたつの方向性のうちのひとつ、タロット側から見られている意識のようなものが、数カードからでも浮かぶようになってきます。

大アルカナでは、カードを使ったタロット瞑想というのは、割とメジャーですが、小アルカナを瞑想することは、あまり言われていません。

でも、小アルカナでもいいわけです。

私は小アルカナをアクティベートすると言っていますが、小アルカナを活性化しないことには、なかなかリーディング、いや、リーディングすること、読むことを、カードが助けてはくれません。

タロットリーダーとして、忘れがちなのは、タロットの声を聴くという感覚であり、学習してタロットに慣れてくると、思考と論理性、つまりカードの意味を問いに当てはめようと、ガチガチになってくる傾向があります。

むしろ、最初の頃の感覚、タロットとお友だちになろうとしていた時のあの感覚を思い出すことです。

また、絵がないとイメージできないというのは早計です。

それは視覚を強調しすぎるからでもあります。人間には、五感としての視覚以外の感覚もありますし、第六感といわれるような、不思議センサーもあると言われます。

もちろん、タロットは図像ですから、小アルカナと言えど、視覚から入るのが当然です。

しかしその視覚から入ってきたものを、別の感覚に置き換えることで、絵からだけではない何かをつかむことができます。

小アルカナの数カードは、視覚にウェートを置きすぎる感覚をバランス化したり、調整したりすることにも役立つのです。(ゆえに4組に分けられています)

自分がタロットを見て、必死で読もうとするのではなく、何も浮かばない、意味がわからない・・・といった状態に陥った時、方向性を反転させて、タロットから自分が見られているという感覚・空間にして、タロットが自分(タロットリーダー)全体を包み込むかのような雰囲気にすると、あなたはタロットの世界に参入したようになり、カードの声を聴きやすくなります。

それは顕在意識の停止・死のような感覚であり、自我というのもを手放すのにも似ています。平たく言えば、読み(読もうとする意識)のあきらめ、お任せみたいな感じです。

しかし、矛盾するような話ですが、だからと言って、まったくの無知識では、何も機能せず、ある程度の理性・知識があってこそ、そうした通常の思考方法とは別の世界があることに気付くようになるのです。

言ってみれば、光のためには闇が必要であり、そのまた逆も言え、二元性質の理解(きちんとした区分け)によって、一元(二元の統合次元)が見えてくるわけです。

だから、別のものを分離する認識力は、知性から生み出されるのです。

要するに、ただタロットを眺めていても始まらず、ある程度、勉強しないとだめですよ、ということです。(笑)

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