アクセルとブレーキ 「戦車」

よく物事のたとえとして、車のアクセルとブレーキを同時に踏む・・・みたいなことが言われます。

これ、実際の車では、まずやることはないですが、象徴的に言えば、意外に人はよくやるんですよね。

マルセイユタロットで言えば、ちょうど乗り物の象徴でもある「戦車」というカードがあり、この「戦車」の図柄には、二頭の馬が描かれていて、それぞれがまさにブレーキとアクセルの役割にもなっています。(必ずしも、そう読めるわけではありませんが、馬の違いを見れば、二頭が、何らかの意味で、別種の表現をしていることはわかります)

この馬が、それぞれの思いのままに暴走してしまったら、車は転倒したり、壊れたりする危険性が高まります。

それをうまくコントロールするのが、馬上の御者となります。戦車のカードにもそのような人物が描かれています。

「戦車」の絵柄には、手綱のようなものはないですが、おそらく彼は、二頭の馬を巧みにコントロールして、目的地に到達することができ、「戦車」の名の通り、戦いに勝利することもできるのでしょう。

当たり前ですが、車も人も、とにかく動くものには、ただ無暗に前進しているだけはダメで、ブレーキさばきと言いますか、ストップ&ゴーの扱いに長けていないと、うまく進むことができません。

もっとも、まっすぐな道で、何も障害物がなければ、前進あるのみで行けますし、そのほうが到達が早いのも確かです。

しかし、人生にたとえてみますと、人生は平たんな道のりばかりではありません。山あり谷あり、川も、落とし穴や罠(笑)さえも待ち構えています。

何も問題や障害のない目標達成とか、前進というものはあり得ないと言ってもよいでしょう。

だからこそ、アクセルとブレーキの扱いをないがしろにはできず、アクセルだけとかブレーキだけとか使えても、それもおかしなことになるわけです。同時に、進路や岐路をきちんと選択できるハンドルさばき、手綱さばきも要求されます。

「戦車」の人物は、またある意味、リーダー的な要素も持ちます。(乗り物に乗っている人の責任も持つと考えます)

このリーダー的人物のさばき方・コントロールが未熟で誤っていれば、たちまち乗っている人を危険や事故にさらします。

だから私たちは、自分の車の扱いに気をつけ、特にアクセルとブレーキの同時踏み込みのようなことは、自覚なくやっていることもあるので、注意したほうがよいでしょう。

内部に大きなエネルギー、欲求があるのに、それを無理やり抑え込んでいては、内燃機関の暴発のごとく、エンジンが焼き切れてしまいます。

つまりは、やりたいことがあっても我慢を強いていたり、進みたいのに進めない状況の葛藤をそのまま放置していたりすると、自分の中のエネルギー消費が過剰になったり、暴走したりして、心か肉体の調子を狂わせることがあるのです。

また矛盾した命令を受けていると感じる部下、あるいは、上の者でも、自分自身が矛盾していると思いつつも、何かのために仕方ないと思って強引に進めているような時、これもアクセルとブレーキの同時踏みのような感じで、葛藤から来るエンジン暴走、焼き切れみたいなことが起きるおそれがあります。

日本の職場では、結構このような事態があるのではないかと想像します。

余談ですが、政府が「GO TO キャンペーン」という旅行を推進させる施策を実施するようですが、新型コロナウィルス感染の拡大が再び巻き起こっている今に、「感染に注意しながら、どんどん旅してください」とはこれいかに?の、まさにアクセルとブレーキを同時に踏めといわんばかりのことをやろうとしています。

ともあれ、日常的にも、私たちの多くは、このような矛盾状況にさらされ続けているのですから、心と体が調子が悪くなるのも、ある意味、当然かもしれません。

そうすると、エネルギーを内部で使い過ぎて(暴走を抑えるためのエネルギー消費でもあります)、鬱になるなど、カードで言えば、「吊るし」として(まさにドック入り、メンテナンスみたいなもの)、心身の保全のために体が動きにくくなることがあります。(休ませるために調子が悪くなる)

ではやりたいことをどんどんやればよいのか?みたいに思いますが、そもそもアクセルとともにブレーキも同時にかけてしまうのは、アクセルをふかすと、恐怖や不安も起こってしまうからです。

「やりたいことをやればよい」というのは簡単ですが、それでもやれないからこそ、あるいは、やろうとしても、不安や恐怖、ブロックが生じてしまうから問題なのです。

スピードを出すと速いのはわかるけど、同時に怖いという心理です。

ではスピードが出ても安全だとなればいいのですが、それには車自体の安全性を高めるか、スピードの出し方・コントロール制御を修練する(つまりは運転技術を高めて、経験と慣れでスピードの安全な出し方を知ること)か、車に乗らない、車から降りて別の方法で行くかになってきます。もうひとつの裏技としては、車自体を別の車や乗り物で運んでもらう(笑)という策もあります。

これらを人の精神や肉体的なことに置き換えれば、車の安全性を高めるということは、すなわち自分自身を高めることにほかならず、肉体的精神的に成長や強化を図っていくことになるでしょう。

スピードコントロールとなってきますと、自身のマインドコントロールとか、内面や気持ちをもっと知り、緩急をつけたり、自分の気持ちと外側からのもの(世間体とか、自分を支配するもの、ルールなど)とのバランスを図る術を身に着けたりして、向上させていくことにあるでしょう。

また単純に運転技術は経験によっても上がるように、いろいろな(または専門の)経験を積む、物事に慣れていくということも、手のひとつです。

車自体をほかのもので運ぶというのは、例えば、他者の支援とか、組織・団体・次元やレベルの違うもののサポートを得るということでも考えられます。

車から降りるというのは、自分の目標や夢を疑ってみる(あきらめるというより、本当にそうなのか、もう一度見直すような感じでしょうか)、別の目標や目的を持ってみる、これまでとはまったく別の観点で見てみる今までとは違う人生や価値観で生きてみる、実際に転職する移住をしてみるみたいなことが言えるかもしれません。

車のコントロールには、何もブレーキとアクセルだけがあるのではありません。最近はナビが当たり前にありますし、ハンドルも当然あり、シフトレバーも備わっています。未来では自動運転が当たり前になるとも言われています。

アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのなら、それらを同時に離せば危険は去りますし、バックしたり(「隠者」などではそれが表現されます)、回転したり(「運命の輪」)することもいいかもしれません。

「戦車」の御者に手綱がないように、実は自分の中の高度な操縦マニュアル、いわば神性なる叡智によって、無理に操縦しようとせずとも、自ずと進めることができるのかもしれません。

いわば、自動運転に次第に近づくわけです。

マルセイユタロットで例えれば、「世界」のカードに向かって、できるだけオートマチックにスムースに車が運べるように、これからの時代は進展していく(そうした進化を全体が目指している)ように感じます。これまでは必死に地上(物質的)にあるものをマニュアルにして、車を動かしてきました。

それはそれでよかったのかもしれませんが、車も進化し、車と人が一体化し、指令から制御されて自動運転が安全に行われるように、大元(神や宇宙、大いなるひとつ)からの誘導のもとに進んでいく道に入る気がします。

つまり、自我(エゴ)中心での運転から、統合的・共同的・神性的自己の運転への切り替え、自動でいながら自分の意思も反映できる、楽しむ運転モードへという印象です。

そうなると、私たちの社会や人生も、例えると、わがままな割り込みとか、おあり運転とか、交通事故とかもほとんどなくなり、スムースなものとなっていくでしょう。

ところで、マルセイユタロットのリーディングメソッドのひとつには、アクセルを踏むべきなのか、ブレーキをかけるべきなのか、あるいは、ともに踏み込んでしまっているのか、カードの展開によって論理的に判明できるものがあります。

相反エネルギーのこと(の扱い)は、なにも「戦車」だけの話ではないのです。そもそも、この地上(現実)世界の表現として、分離的・二元的なものがデフォルトなので、世は矛盾に満ちている(ように感じるのが自然)と言ってもよいのです。

みんな、いつでもどこでも、アクセルとブレーキのかけ方に悩んでいるようなものです。

だからこそ二元的なものの扱いを巧みにしていくことで(判断していくことで)、世の中をうまく渡って行けるようになるとも考えられるわけです。(ここでいう世渡りとは、一般的に言われている世渡り上手という意味ではなく、物事の見方・感じ方が大きくなり、悩みにくくなる、あるいは回答や気づきを得やすくなるということを言っています)

そのコツは、マルセイユタロットでは、カードの図柄・デザインにあります。こういうところがマルセイユタロットの面白さでもありますね。

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