「世界」と、私たちの構成とのシンクロ

この世の中は理不尽なものです。

しかし、多くの人が、公平な社会になるよう尽力し、運動しています。それには敬意を表しますし、人類の歴史は、ある意味、矛盾さ、理不尽さをなるべく解消し、真の公平な世界になるよう努力してきたとも言えます。

おそらく、スピリチュアル的な意味では、もともと人は本当の意味で(完全に)公平で平等であると考えられます。それはもう、私たちの思う「人」ではないのかもしれまず、すなわち、神、神性と呼ぶ概念のようなものと言えそうです。

それを私たちは、どこかに記憶しているのでしょう。だからこそ、それ(真の状態)を目指して(モデル・イデアとして)、世界をよくしようと頑張るのだと思います。

もし、最初からすべてが公平で、何の理不尽さもない完璧な状態だったら、それは停止と同じであり、何もしなくてもいいので、それでは宇宙の拡大・発展(というより、バラエティさの実感)には足りないのかもしれません。

ゆえに、私たちは、不公平ともいえる現実の世界に、皆、人として生まれてくるとも考えられます。

マルセイユタロットを見てますと、タロット(カードの象徴)は、実はその現実世界の色々さ(いい・悪いの両面)を示していて、同時に、そこを超える何かも表していると見ることができます。

おかしな話に聞こえるかもしれませんが、タロットは本当は意味のないものであり、タロットから離れることこそが、真の世界・状態への回帰になるのだと、以前に気づくことがありました。

しかしながら、私たちの意識が人である限り、タロットは逆に大いに意味あるものとなるのです。

従って、現実世界でタロットを学び、タロットの示唆や象徴を活用していくことは、無意味どころか、原点(宗教的な言い方をすれば天国)に戻る有用な地図みたいなものとなるわけです。

ところで、マルセイユタロットに流れる思想に「グノーシス」というものがありますが、それによれば、人間は大きく分けると、三つの部分によって成り立っていると考えられています。

スピリチュアル的な見方においても、人間は見えない体と言いますか、エネルギーのようなもので示され、それによると数種類の部分(性質)でできていると言われています。

まあ、普通の人には肉体部分しか見えず、常識的に、それが人間のすべてだと思っている人が多いわけですが、ただ、一般的にも、心の部分は肉体とは別にある(肉体の中にあっても肉体そのもとは違う)と思われていますよね。

ともあれ、そういういくつかの部分・性質のうち、一番崇高ともいえる「霊性」の部分が人にはあると言われます。

それは他の肉体とか、心とか(霊性は心や感情とかとは別だとみなされています)とは違い、なかなかわかりづらく、感じることもできにくいのですが、誰にでもあり、いわば神とダイレクトにつながっている部分と言えます。

コンピューター的例えであえてすると、メイン(神・大元)につながる端末(人の中の霊)でありつつ、メインとシンクロし、データの共有ができ、時に入れ替え可能なものと言えるかもしれません。

しかし、通常、なかなか人はその端末(霊性)を意識することができにくいということでしょう。また、普通はスイッチが入らない(オフにさせられている)と言い換えてもいいかもしれません。

それで、現実生活においては、ほかの性質・部分が支配し、つまりは意識の中心として働くようになっていると考えられます。

まさに、霊以外の部分たちに動かされる毎日と言ってもいいかもしれません。

ここで、量・パーセンテージで見れば、(霊ではない)他の部分のほうが多いわけなので、私たちの通常意識では、量が多いほうが圧倒すると思う傾向がありますから、そちら(霊以外の部分)が優れている、よい状態と錯覚するわけです。

しかし、エネルギーの「」として、もし見ることができれば、量は少なくても強いパワー、影響力があるとわかる場合もあります。

翻って、私たちの現実生活では、質で見ることは意外に少ないことに気がつきます。

特に経済では、端的にお金・利益がたくさんあるほうが勝ちみたいになっています。

勝ち組・負け組的ニュアンスも、まさに持てるものが勝ち、持てないものが負けみたいなところがあります。

その大きな要因は社会の仕組みにあるのですが、スピリチュアル的に見た人間の構造から考えると、人間の中で多くの部分を占めてしまうものに私たちは支配されがちなので、自ずと、物事の見方・価値観も、多いほうの勝ちとなってしまうのではないでしょうか。

もし少ないパーセンテージでも、極めて良質ともいえる人の中の部分を、各々が認識することができるようになれば、その本当の力に気づき、ただ多いだけが支配したり、よいとみなされたりするわけではない、質で見る価値が浮上してくると思えます。

ほとんどは、量的な領域・部分で動かされているからこそ、私たちは、理不尽ともいえる世界を作ってしまっていると言えます。

そう、世界(外側の状態やシステム)が私たちを規定しているのではなく、私たち自身の人としての構造を量的に感じてしまっている(価値を置いてしまっている)から、世界をそのような価値観で見て、それに準じる社会を作り上げてしまうのだということです。

スピリチュアル・心理系ではよく言われる、私(自分)が世界を創造しているという意味にも近くなってきます。

最初にも述べたように、私たちは、もともとは神として、完全で平等で公平な、理屈の通る世界を知っていて、それがために、世界の改革・発展を望むと考えられるわけですが、その記憶を忘却させられ、ただ多いほうの部分で動かされるロボットのような存在になると、ますます矛盾や、一部の者が得をする世界を生み出していく(保持していく)ことになるのです。

ですから、普段からロボット化されないように、霊的記憶へのアクセスを思い、崇高で純粋な、いわば魂の世界にリンクさせていく必要があると考えられます。

その鍵が、量だけの世界に毒されるのではなく、質を見極める観点です。

多数決は民主主義の原理として働きますが、必ずしも、多数がよいというわけではないのです。

少数派にいても、負け組と言われる者であっても、そこにいるのは、実は、少ないながらも良質なものを思い出し、指向している存在なのかもしれません。

多数にある悪魔性に気づき、少数と言いますか、個であっても、その中の輝きを発見することです。もちろん少ないからいいというわけでもなく、量が必要なこともありますが、重要なのは質・本質です。

一見、量的には少なくとも、実は大きな力と真なる世界とのつながりを導く人の中にあるそれは、マルセイユタロットの中に描かれているものでもあります。

現実(現境や今の社会システムの中での暮らし、個人の人生)をよくする観点も大切ですが、それを超えた世界、自分自身が真に記憶している大元の世界への変質・回帰を意識することが、量から質へと変換する、ある種、錬金術的な世界変容とへとつながるのだと、マルセイユタロットを見ていて思うものです。

やはり、私たち自身が高次になること(レベルアップ・価値観の変容・アセンション)が、世界や社会を、より平和で公平なものへと変えるのだとわかります。

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