時代の変化とスポーツ興行

6月になりました。

このHPでも「メッセージ」として、毎月「ソウルカードアドバイス」を書いていますので、今月の指針や参考にしていたたければと思います。

当たる当たらないで見るものではないのですが、意外に、この毎月のアドバイスが「私の状況とぴったり」「いつも自分のことに当てはまるので驚いています」というようなご感想をいただくことがあります。

タロットは何らかのシンクロ性をカードで示しますので、当たると思うこともありますし、逆にまったくハズれていると思う方もいるでしょう。人によってフォーカスする部分が違うので色々です。

とにかく、「こうなる」というもので読まずに、テーマとか、そういう視点もありかという感じで見ていただければと思います。

たとえメッセージが「当たっている」と思える人でも、その当たっていると思うそのこと自体が実は重要だという見方をすれば、自分のこだわりとか偏見性、問題性に気づけるでしょう。

話は変わりますが、今年もコロナ禍が続いていることもあって、様々な問題が逆に浮き彫りになっているように感じます。

そのひとつにはスポーツとビジネスの構造、いわば癒着・利権的な問題性が多くの人に明らかになってきていることです。

五輪問題が顕著ですよね。

もしコロナ禍でなくて、普通に東京オリンピックが昨年開催されていたのなら、多くの人はこの巨大スポーツの祭典に酔いしれ、感動を選手たちからもらって、五輪を楽しんだことと思います。

しかし、それでは、五輪の今浮上してきている構造性の問題に気づくことはできず、またぞろ、同じパターンで招致合戦が繰り返され、開催地をもとに、いろいろな利権とお金が動くということが続いたでしょう。

オリンピックは今や、完全に巨大な利権ビジネスになっています。

もちろんマイナースポーツも含めて、アスリートたちにとっては最大の目標にもなっていますし、五輪があるから存続している競技もあるでしょう。五輪やワールドカップなどによって、選手たちの技術向上も進んでいくものと思います。

それでも、その頑張っている選手・アスリートを見世物のようにして興行している人たちがおり(興行自体は悪いとは言えませんが)、そこに巨大な利権やお金が動いているのも、多くの人が知ることになりました。(私論ですが、マルセイユタロットの「月」のカードの示唆からは、巨大スポーツ祭典を動かすのは、単にお金とか権利だけの意味ではない理由があると考えられます)

さて、最近話題になったことに、大坂なおみ選手の全仏オープンテニス、記者会見拒否問題があります。

大坂選手の言動に対していろいろな意見もありますが、うつ病(うつ状態かもしれませんが)ということがご本人から話され、この問題自体はうやむやみたいになってしまいました。

ここで考えたいのは、やはりスポーツというものが選手・アスリート、そして一般のファンのためというよりも、興行ビジネスでの側面か重視されてきている問題性です。

とはいえ、スポンサーがいて、お金があって初めて運営もでき、選手たちに報酬や賞金などを支払うこともできます。プロスポーツが成り立つには、そういう仕組みでないとできないところもあるでしょう。

けれど大きな時代の流れ、転換的視点で見ますと、大坂選手の投じたことは、今の時代だからこその特別な意味があると言いますか、やはり世の中の仕組みの変化・変容が始まっていることが実感できます。

大坂氏個人レベルで言えば、プロだからこうあるべき、仕事だからうまく処すべきという意見が当初は多く、その後に、うつ病告白で手のひら返しのように、まるでアンタッチャブルな存在に仕立てあげるかのように多くの人の態度が変わりました。

どちらにしても、個人レベルか競技レベル、道徳とか、これまでの常識とか固定観念、仕組み・制度のもとで考えられている対応です。

ここでは、単に一選手のわがまま・ナーバスなメンタルがそうさせたと見るだけのではなく(そういう面か皆無とも言えません、うつ病を経験した私からすると、厳しいプロスポーツ世界で勝ち抜けるほどのものがあった大坂選手はうつ病ではなく、メンタルの不安定さや、それによってうつ状態になることがあるというものだと見えます)、むしろ個人より、全体的な時代の流れを読み取り、五輪も含めて従来型のスポーツの興行的在り方、もっといえばこれまでの経済社会の仕組みの見直しが始まっているという観点も持つとよいのではということなのです。

大坂選手個人の意思とか目的とは別に、そういう役割の人になっていると見るわけです。すると、感情的にならずにも済むでしょう。

このコロナ禍は、ひとりひとりの個人の自由や権利と全体の福祉・公共の利益とが、どう共存・統合できるのか、私たちに本当の成熟した大人社会への変換を突き付けているように思えます。

スポーツの分野だけでも、アスリート・選手、そしてそれを見る私たちが奴隷的扱いを受け、大きな組織とか一部の権力者たちに、いいようにされてしまう「道具」扱いから脱して、本来の自由性を一人一人が獲得していく方向性(見直し)が必要のように思います。

同時に、一人一人が自分の権利や意見ばかりを主張して義務を果たさず、他人を思いやることなく、わがままに自分を押し通していくというエゴを肥大化させることに対しても、コントロールしていくことが求められるでしょう。

そして、意外なことかもしれませんが、このように外側の世界の大きな話題を見ることで、実のところ、自分の心の内を顧みると、自分が決めているルールとか価値観がわかってきて、その浄化・変換に向かうことができます。

やるべきことは外の現象に対して賛成だの反対だの、あるいは繰り言などをぷつけるのではなく、時代が新規の在り方を要求してきているのに沿って、自らの内にある固定観念、旧来の信念(まずは一人一人の個別レベルでの信念)のようなものの見直しなのです。

それが進むと、おそらく時代の変化は、外側においても顕著に見えてくるでしょう。

カードで言えば、まずは「恋人」で描かれる選択から始まるみたいなものです。

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