マルセイユタロットと年代の象徴性

マルセイユタロットのカードは、時代をも象徴していると言われています。

例えば、一枚が一世紀とか、ある期間を表しているという話があります。

またそれらの一枚が束や組になり、宇宙的・長期的とも言えるスパンを表現していると見ることも可能です。

大アルカナは22枚あり、それらが仮に100年単位だとすれば、全体で2200年になりますが、構成的に大アルカナは「愚者」とその他21枚のカードに分かれますので、「愚者」を除いての21枚が期間を示すとすれば、2100年、まあ、端折っておよそ2000年のスパンを大アルカナが表していると見てもいいのかもしれません。

そして、「愚者」は数を持たないカードですから、その人物の絵姿からしても、ほかのカードで示す時代を渡り歩く旅人という感じになるでしょうか。

約2000年のスパンは、占星術的にも意味がありますし、歳差運動から来る、いわゆるプラトン年の1/12プラトン月のスパンにも該当しそうです。

ということは、「愚者」はプラトン月を移動する主体で、私たちのひとつの時代を形づくる意思とか魂のような集合体かもしれませんね。

21枚のアルカナナンバーを渡り歩いたのち、ひとつの時代の完成を見て、まさに、“ある「世界」”に行き着くのでしょう。それがふたつのミレニアム(1000年)期を重ねる(一枚が100年とした場合)というのも興味深いことです。

宇宙の本質は一元的なものといわれますが、そこから二元分離の運動や相違が芽生え、つまり二元的になることで、見るものと見られるものの世界が現れるようになったと考えられます。

それは言い換えれば、実体として把握できる主体と客体を持ったとも言えます。要するに、観察できる世界が現れたということです。

逆に言えば、分かれた(ように見える)二元が一元に戻る(統合される)、そこにさらなる高次の宇宙、元の世界に移行するとも言えます

いずれにしろ、ふたつの、本質的には同じではあるものの、表現の異なる別のものをもう一度経験することで、完全性になるという示唆がうかがえます。

ということは、先ほどの、ミレニアム二回でひとつの時代期間を経て、ある世界の完成がもたらされるという考えに妥当性が出てきます。

面白いことに、マルセイユタロットでは、小アルカナの数カード(数札)は、10枚ずつの構成(4組で40枚)になっています。

大アルカナは22枚なので、ふたつのグループに分けることができるのですが、先述したように、「愚者」は特殊なカードですから、「愚者」を除くと21枚となり、割り切れません。

しかし、ある考えを導入すると、「愚者」と「世界」を例外にして、20枚でふたつに分けることができます。

このふたつのグループが、ミレニアムの二回を意味するとあてはめることができ、さらに小アルカナの数カードをこれらに振り分けた構造で見る(10枚ずつなので)ことも可能です。

ともあれ、タロットを用いて、時代の流れや象徴性を読み解くというのも、面白いかもしれません。

もし、大アルカナの一枚がおよそ100年を表しているとすれば、今はどのカードと言えるでしょうか?

普通に西洋暦をあてはめた場合、現在2022年ですから、すでにひとつの時代は終わり、新しい時代の最初の100年(次のバージョンの「手品師」)を進んでいると言えましょう。

ただ、西洋暦はキリスト教的なものですから、それではない紀元というものを見れば、また今の時代は違うカードになるのかもしれません。

さらに言えば、一枚が100年を示すのではなく、10年かもしれませんし、50年かもしれません。

大事なのは、そうした細かな具体的年数設定ではなく、本質的な型(周期パターン)のようなものを、タロットと時代の象徴から見て抽出するということだと思います。

その同じ型・パターンのようなものが見えた時、巨大な時間の流れから、中間的なもの、個人的なものまで、実は一致したものになっていることに気づくでしょう。

宇宙時間、地球時間、国時間、個人時間など、いわば次元・レベル別とも言える時間や成長の流れはあるものの、それらは実は同じ型を経験しているということです。(カードで言えば、「運命の輪」が無数にあるものの、同じ回転をしているというような印象です)

こういうところは、シュタイナーの宇宙発展論に、とてもよく似たものになりますね。

そうやってみると、やはり私たちは単独や個人で生きているのではなく、ある意味、宇宙の意思と言いますか、呼吸のようなものがあり(ということは生命的)、それらが全体と個を動かしているように思えてきます。

古代の宇宙天球論の感覚がリアルになり、それぞれの惑星に回転を与えている第一の存在、「第一動者」という象徴性も理解できてきます。

そして回転そのものが、次元やレベル違いを生み出ししているものであり、私たちに均衡やバランスをもたらしつつ、その次元に閉じ込めておく(閉じ込められる)感覚と、脱出する(覚醒する)ヒントを同時に与えているように思います。

このあたりは、古代のグノーシス論の本質に迫ってくるものだと感じます。

本当に、マルセイユタロットは様々なものを多層・多元的に考えさせてくれる、優れたツールだと改めて思います。

一般的に、タロットは個人的な占いに使われることが多いですが、このように、本来は(本来かどうかはわかりませんが)、長期的なものや、個人を超えたレベルや次元を考察したり、その感覚を想起させたりする意味で作られている(または使う)ものなのかもしれないのです。

ただ、漠然とタロットを眺めていても、そうした感覚は芽生えないでしょう。

当然、占いで使い続けても、占いの精度が上がったり、当たる神秘みたいな不思議さを思うことはあるでしょうが、今の時代感覚(または今の自分の思考レベル)だけに終始するものとなりがちです。

やはり、タロットの象徴性を、知的に、そして感覚的に同時に学び、検証していくことで、まさに象徴の図柄としてのタロットの力が発現するのだと思います。

そして、その使い方に適しているのは、マルセイユタロット(の精巧にできたタイプ)だと個人的には思うわけです。

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