自立には他者の助けと受け入れも必要

ブログを再開して、主題的には、自立(霊的な意味を含む)ということを底流にして記述しています。

しかしながら、逆説的になりますが、自立には他者の力も必要だと言えます。

何もかも自分でできればいいのですが、そういうわけにはいきませんし、自立していく過程には、人(やモノ・制度等)に頼ったり、助けてもらったりしなくてはならない場合も多々あります。

いや、むしろ、それが普通で、王道なのではないでしょうか。

人の一生を見てもわかります。生まれた時は赤ちゃんで、誰も一人では生きていけません。親の力、または世話をしてくれる人がいてこそです。

これは精神的な面でも、さらには霊的な面でも同じだと考えられます。

精神的な面(自立に向けてのプロセス)については、多くの心理系の方が語っているので、もはや言うまでもないとは思います。

それで、あまり言われないのが、霊的な面でしょう。

おそらくここがはっきりしていないので、下手なスピリチュアルにはまり、余計に(霊的な)自立が遅れ、依存性や停滞、あるいは幻想に囚われてしまう事態を生み出してしまうのだとも考えられます。

ここでいう霊的な面(霊性)とは、英語的に言えばスピリチュアル・スピリットということではありますが、わかりやすく言えば、体と心も含むトータルな面・本質の自分と言えましょう。

日本人的には魂・霊という言い方となります。(厳密には魂と霊は違うものとも言えますが、便宜上、同じようなものとしておきます)

霊性・スピリチュアルとは、目に見えないことや、不思議なことを言うのではありません。世間でいうスピリチュアルという言葉には、悪意も含まれており、それに関心を持つ人・はまる人を軽蔑のまなざしで見ている言い方となります。

ですが、それは依存性をもったライトスピリチュアル(自我の願望・欲求を叶えるため、あるいは、嫌と思っている現実から逃避する方法やその世界)のことで、本当の霊性・スピリチュアルとは異なります。

マルセイユタロットで言えば、最終的には「世界」に象徴される境地に達するものと言えますが、別の表現では「神の家」を構築することとも言えます。

マルセイユタロットにおける「神の家」は、ゆるぎない堅固な建物を建設・完成していくことの象徴性があります。

描かれている天からの光は、その構築された建物(ゆるぎない自分自身)ができて、天から降りて来る(あるいは自分が流入させる)神の意識・エネルギーのようなものです。(大いなる自分自身(宇宙)を自我が受け入れるようなもの)

しかし、そのためには、マルセイユタロット的に言えば、15のプロセス(「神の家」は16なので)が必要となります。

それらは、言わば、「神の家」に積み上げるレンガのようなもので、一朝一夕には築き上げられるものではありません。

物質的にも精神的にも、何かを強固にするためには、何度も繰り返し、固めていくことが求められます。

このように、霊的な成長においても、ひとつひとつプロセスを経て、それを自覚(自分のものとする)ことが大事だと言えるのです。

結局、すべて同じ型のようなものがあり、現実(物質)だから、精神だから、スピリチュアだから、目に見えるから、目に見えないから・・・という区別があるわけではなく、どの分野も本質的には同じなので、それがわかれば、無駄をことをしたり、回り道に誘惑させられたりすることも少なくなるということです。

さきほど、霊的なこととはトータルなことだと言いました。

ですから物質(現実)も精神(心)も含んで「霊」(の全体性)になるわけで、実際の経験・出来事とそこから生じる心のとらえ方、感じ方なども、すべて「霊」の体験と言いますか、霊(の成長・完成)につながっていくわけです。

逆から言えば、霊的(スピリチュアル的)な成長・発展は、現実やモノ、心を無視したり、切り離したりして進むわけではなく、全部関連するので、ひとつひとつ対応していくことが重要になるわけです。

言い換えれば、現実や自分(の心も含めて)としっかり向き合うということです。

逃避的にとか、欲求をかなえたいとかの意味で、スピリチュアル(この場合はライトスピリチュアルになりますが)に関心をもっても、目に見えない領域の神とかパワーとかで何とかなると思い、受動的(時には依存的)になって、本当の意味での霊的自立から遠ざかってしまうことになります。

とはいえ、最初に述べたように、そんなことはわかっていたしても、人は現実の生活で悩み、苦しみ、迷う存在です。

だからこそ、実は神なる次元・レベルからすると(これも便宜上、神と表現しています)、この私たちの通常認識の現実世界において、救済過程を用意してくれているのです。

それが他者の力を借りる、援助してもらういう意識と実際の効力です。

私たちは無力感にとらわれてしまうことがありますが、それは、自分の力が足りないという不足感、劣等感のようなものに起因しているところがあります。

この世は、人と比べてしまう、ある意味、不公平な世界です。

誰一人として同じ人はおらず、だから他人と比較して、反対に自分という個性、アイデンティティを自覚する仕組みになっています。全員が全く同じなら、それは個性のない(自分と他人の区別がない)世界ですから。

これが悩みの原因にもなっていますが、一方で、同じ人はいないのですから、逆に、自分の問題は自分では解決できないところも当たり前に生じることになります。

自分とは違うのが他人ですから、自分で無理な場合、誰かほかの人ならば解決してくれる可能性が高まります。

このように、実のところ、この世は助け合いが必須と言える構造になっています。

一方で、スピリチュアル・霊性の(ひとつの)完成には、自分の完全性(神の性質は完全性)を認識するということが求められます。

しかし先述したように、この世は一人一人が完全ではないので、ほかの人の助けで補い合うということが必要になります。

霊的に一人の完全性が求められつつ、不足ある自分を常に現実では思い知らされるこの世で、この矛盾を統合(理解)していく智慧・認識が生まれた時、次元が上昇し、世界(現実)は大きく別のものへとシフトするでしょう。

それは自分の不足感・不完全性の経験をして、他者と補い合う体験をし、自分と他者の間に不変と普遍のもの(言葉では愛と言えます)を見る時、完全性のヒントが生まれると言えましょう。(ちなみに、これはマルセイユタロットの「恋人」カードに大きく関係します)

簡単に言えば、よくスピリチュアル系の人が言うような、自分=他人みたいな感覚の想起です。(本当は感覚ではなく、高次の思考というべきものに近い)

ただ、それに至るには、自分(たち)の不足感を味わい、自分だけではできない経験もし、他者から素直に助けてもらったり、逆に自分ができることで、他者をサポートしたり、そういう交流をしていくことで、完全性が何かということを次第に知って行くことになるのだと考えられます。

また別の記事でいずれ書きたいとは思いますが、今日言いたかったのは、霊的(トータル)な自立のためには、現実や心と向き合う必要もある反面、自立の過程として助け合っていくところもあり、一人で悩み、苦しんでいても、余計つらく、迷路に彷徨うことにもなるので、助けてもらうこともありだということなのです。

単純な自己責任論に終始したり、現実や自分自身と向き合えと強く言われたりしたところで、不足感のある状態(自信がない、自分なんて取るに足らない者だと思うなど、多くの人は程度の差こそあれ、そう思う時はあるでしょう)では、余計につらくなるだけで、逆に依存性や逃避性を高めてしまうおそれもあるのです。

弱い段階の自分がいきなり強くなれるわけではありませんし、人には個性があるので、同じ体験でも、へっちゃらだと感じる人もいれば、心が折れてしまう人もいます。

ですから、自分を必要以上に貶めず、できない自分、弱い自分を責めず、そいう個性段階(自分固有の基準で見る、成長していく段階や過程)にあると思い、でもあきらめずにコツコツと、できることからやっていき(あれもこれもと完璧を思わず、本当にできることだけにまずは集中する)、助けを受けられるものは広く利用していくということも(ただし特定のものに依存せず)、結局それが、自分自身の救済と自立への過程になっていくということなのです。

今悩んでいる人は、せめて、物事をバラバラに考えるのではなく、すべてはつながり、トータルな意味で起こっているという姿勢を持つといいでしょう。そして、行動は逆に全部を考えず、自分が今できる簡単なことからやっていくのがよいです。

言わば、心はトータルに、行動は分けてという感じです。

トータルに見ていくと、つながりの糸が少しずつわかってきて、まさにスピリチュアル・霊的な意図としての自覚も始まり、現象としての物事(あなたが経験している事態)も変わって行く(やることもわかってきますし、シンプルになっていく)のです。

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