高齢者の運転問題

最近、法改正されたように、高齢者の自動車運転免許の問題が再び、社会的にクローズアップされています。

実は、私の父もこの問題に直面している一人です。

父はすでに認知症と診断されたので、免許は取り消しか自主返納するしかないのですが、それまでは、車の運転には当人は自信を持ち、一生運転すると言って、家族からの返納の申し出も、まったく聞かない状態でした。

しかし、事故を起こしたことで、警察が入り、状況が変わりました。

今はようやく、なんとか車も売却し、物理的にも免許的にも運転できないことになって、少しずつ、父も理解しはじめているところです。

とは言え、認知症なので、なぜ自分が運転できなくなったのか、そのこと自体を毎日のように忘れるので、再び説明して、納得してもらわねばならないという苦労がつきまといます。

いろいろと調べますと、もっと大変な状態の親御さんもたくさんいらっしゃるようで、運転をやめさせるための、ご家族の労苦が偲ばれます。

実際、高齢者の運転問題については、当人にやめさせればいいとか、強制的に法で支配すればいいという、単純な話だけでは解決できないと考えられます。

言ってみれば、マルセイユタロットでは「戦車」の象徴性に関係する話です。

マルセイユタロットの「戦車」は、馬の乗り物(馬車)なので、現代的に解釈すると「車」とも言え、まさしく車の問題とリンクします。

次に、タロットの「戦車」は、ふたつのものという象徴がいくつか見受けられます。

特徴的なのは、二頭の馬、台についている両輪、「戦車」の人物の肩にあるふたつの顔と言ったところでしょうか。

そして、高齢者の運転問題に戻りますと、これは高齢者自身の自覚とか行動だけでは、とうてい解決できない問題と言えます。

確かに、年を取りますと誰しも、運動能力、判断力、記憶力、空間認知能力、反応速度等、車の運転に必要な能力が衰えてきます。ましてや、認知症を発症する(した)ような方ならなおさらで、運転うんぬんの以前の問題です。

そう考えますと、高齢者当人の能力的な問題(衰え、病)によって、運転しないように持って行くのは、ある意味、社会的には必然と言えます。

しかし、車がないと生活できない地域にお住まいとか、仕事で必需という人もおられます。さらに、高齢者であるからこそ、若い時のように簡単に歩いたり、他の交通機関で移動したりはできにくいのです。

体が言うことを聞かなくなってきますから、簡単に楽に移動したいのが高齢者なのです。そういう移動手段の問題が、高齢者にはあります。

ということは、当人自身の判断の問題だけではなく、社会的・物理的な移動の問題性も一緒になって解決していかないと、なかなか自主的に免許を返納したり、運転をやめようという気になったりはしにくいということです。

まさにこれが「戦車」の両輪とか、ふたつの顔みたいなものです。

加えて、別のふたつの観点を持てば。車の運転に関しても、高齢者(高齢者に限らずですが)の物質性と精神性のふたつの問題があげられます。

物質的なほうは、移動手段としての問題、精神性のほうは、楽しみとか生きがいとしての問題です。

特に後者の、精神性については、あまり言及されません。

すなわち、人はただ移動のためだけに車に乗っているのではないということです。

高齢者の中でも、田舎などに住んでいるので、移動手段として車は必須で、乗り続けるしかないという人がいる一方、都会においては、代理手段があるはずなのに、それでも運転をやめない人がいます。

後者の人は、当人とって、まさに車(に乗ること)が生きがいであり、車を運転している自分が健康で社会的であることの証明と、衰えてない自分への自負となっているのです。

こういう高齢者から車を取り上げると、認知症でなかった人でも認知症になってしまうなどの危険性があるようです。

それは、上記のように、やはり、車が当人の精神性の健康増進、生きる意欲に結びついているからだと考えられます。私の父など、まさにこのタイプと言えました。

ということで、高齢者の車の運転問題については、「戦車」ではありませんが、両輪、ふたつの顔の観点から少なくとも考えないと、なかなか解決の方向に行かないと思います。

そして、本当は、車自体が生きがいという人は少数で、車を運転して向かう先のもの(移動しての先にあるもの)が、本当の当人の生きがい(趣味の場所とか、人間関係など)であるケース、あるいは運転していることへの自己評価、自信(誤解ではあるのですが)などがあると推察されます。

さにに言えば、昔は宗教(お寺など)と地域で補完しあっていた高齢(衰えや死)への準備と言いますか、精神的な助けとか備えがあったところに、現代はそういった機能がほぼなくなり、一人一人孤独であったり、せいぜい身内による関わりくらいであったりという状況が多くなってきたことも、遠因としてあると思います。

年を取ると、できなくなることが多くなるのが当然ですが、それが忘れられ、現代の便利なモノの生活に慣れて、高齢者が心身の状態の変化を(病気以外で)認識することが、少なくなっているという事態です。

まあ、昔は、心身が衰える前に、亡くなる人が大半でしたので、問題が起きる前に済んでいたという実情もあるでしょう。

けれども今では、医学や便利な道具の発達とともに、逆に問題があとになって起きることになって、社会問題化していると想像できます。

高齢者の運転問題の解決に向けては、なかなか難しいですが、これまで述べたことを整理しますと、

●運動性、認知性、判断性などの検査問題(一斉的なチェックの設定、年齢制限等)

●移動性の問題(気軽かつ、簡単、経済的にも負担にならない交通手段の確保)

●精神性、生きがいの問題(車以外の楽しさ、車で移動しなくても生きがいの持てる生活)

●準備性の問題(体力や機能の衰え、欠落してくことへの備え、車が運転できない生活へのイメージと備え)

を検討していくことが必要かと、「戦車」的に思います。

少子高齢化と言われる現代、車の運転問題だけではなく、これから様々なことが表面化してくるでしょう。

何事も、自分自身が当事者にならないと、現実感が出ないかもしれませんが、問題の直面性というのはそういうものであり、当事者以外は他人事です。

また別の機会に書きますが、それでもいいのです。

経験する当事者の問題性が、ひとつのデータとか社会への提議になり、仮に自分がその問題と向き合うようになった場合には、当事者の方の経験とデータが役に立つからです。

やはり、時代は助け合い、マルセイユタロットでは「節制」に象徴される世界に移行することが大事だと思います。

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