恐ろしい自分の基準になっていませんか?
こんな話を聞いたことがあります。
ある二人の男性との交際をどうするか悩んでいる女性がいました。どちらにするか決めかねているわけです。
きっとどちらもすばらしい男性なので、迷っているのだろうと思いますよね。
そして女性当人も、「一人に決めないと自分も誠実な態度ではない」と考えているようです。
こう聞くと、「もてる女性だけど、それでもきちんと一人に決めようとしているいい人だな」と感じるかもしれません。
実はこの話にはオチがあります。
その二人の男性というのが両方とも奥さんがいるのです。つまりどちらをとっても不倫状態です。
誠実どころの話ではありません。ところが、恐ろしいことに、女性本人は不倫ということよりも、自分が二股かけることの不誠実さ?を悩んでいたというのです。
そして女性は、そもそも幸せな結婚を望んでいたとも聞きます。
結婚とは一対一の誠実な交際から始まるものと思っていたのかもしれませんが、それにしても、その相手が不倫関係となるのでは本末転倒ですよね。
ここまで極端ではないにしても、人は何かに迷っている時、信じられないような自分の基準で悩んでいる場合があります。
それは悩みというものは、人のことであっても結局自分の心に悩みが生じるからです。
いい意味では自分を見つめ、考えるきっかけにもなっていくのですが、自分にこだわるあまり、自らの狭い世界の中のルールにはまって苦しむことにもなります。
特に恋愛は「恋は盲目」というように、「好き」という感情が通常感覚の目を奪い、色メガネをかけさせられた状態ともなりがちですので、大きく曲がった自己判断になるおそれも大きいのです。
このことを考えるのに、タロットカードでいえば「恋人」カードに「正義」のカードを持ち込むとわかりやすいです。この二枚を関連させて見るのです。
恋人カードでは、恋に悩む青年が二人の女性を相手に迷っている姿が描かれています。いわば自己世界での判断の迷いです。
この状況では、上に描かれている天使の矢が、どこに刺さるかわからないくらい不安定なものです。時には自分を死に至らしめる危険性さえあります。
しかし「正義」のカードの人物の、裁判官のような客観的な目を持つことで、この天使の矢がぶれずに選ぶべきものに刺さることがあるのです。(または発射されない)
このように一枚だけではわからない意味も、二枚だと意味がはっきりすることもあります。
つまりは、カードのことに限らず、自分の世界にはまっていると盲目になりやすいので、違う人や物の観点を持ち込むということを述べています。
最初の女性のたとえでも、「あんた、それ、どっちを選んでも誠実じゃないですから!」とツッコミを入れてくれる人がいればいいわけですね。
(まあ、たぶんこの女性は「なんで?どこが?」と最初は聞き返すでしょうけれど。それほど自分世界への没入は怖いものなのです)
また、過程ではなく、目的(何をしたいのか、どうなりたいと思っていたのか)を思い出すと、案外独りよがりになっていた自分の判断に修正が加えられやすくなります。
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