大きな存在を仮定すること。

昨日のNHKスペシャルでは、例のチリ落盤事故からの生還について、3人の方のインタービューや地下で撮影された影像をもとに救出までの話が語られていました。


その中でも興味深かったのは、最初は細い生命線ともいえる穴が貫通するまでは、皆必死の思いで生きることだけだったのが、穴が掘られてからは食料や娯楽のものなど、どんどんと地下での生活に向けた便利なものが送られてくるようになり、ついにはテレビ電話で家族とも会話できるようになってきたことで、人々の間に欲が出て、いざこさやトラブルが起こるようになったということでした。


そして、それに対処するため、一人のリーダーのもと、神への信仰の時間(祈りの時間)を毎日持つことで、自分(の欲やわがまま)を見つめて穏やかな心を保つよう心がけるようにしたということです。


やはり人間、物質ということがきっかけとなって、わかちあうという心よりも独占したいという思いが出てきてしまうということです。いわば悪の心みたいなものですね。


しかしこれは考えようによっては、物質(形、目でみえるもの、感覚で実際にわかるもの)が与えられることで、他との違いが明確になってきたということでもあります。つまり、違いがはっきりしていくことで、全体の中に埋没していたものが、個性を持つようになるという意味でもあるのです。


ただそれが行きすぎる(個も全体の中のひとつであるという意識や認識を忘れる)と、問題となってくるわけです。


その状態からもう一度バランスを取り戻すには、神への信仰のような、より大きな視点が必要になってくるのだといえましょう。


自分(たち)を超える大きな存在を感じたり、観点を持つなどのことにより、全体性を回復できるのです。


その時、自分の小ささを知り、再び大きなものへと自らをゆだねる気持ちになっていきます。


そうして改めて全体から個としての自分を見た時、今度は自分の個性が全体にどのように役に立つのか、貢献できるのかといった視点に転換していくことにもなります。


だからこそ、高次の意識や存在(それは「神」でも「宇宙」でも「ハイヤーセルフ」でも何でもいいのです)を信じたり、仮定したりするだけでも人にとっては有意義なことだといえるのです。


もっといえば、物質・形あるこの世界に生きるためには、個としての自分を発揮していく(全体に活かす)ことと同時に、物質に振り回されないように(欲の追求だけで生きてしまわないように)、大きな存在への信仰が必要なのだということかもしれません。

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