その悩みは自分にふさわしいか。
悩みはつきないものです。
ひとつの悩みに、人は結構長いことつきあわされる人もいます。
いくら考えても出口や突破口がない。よい方法が思いつかない・・・そして堂々巡りの繰り返しが続きます。
けれども意外な観点で、一気に悩みが解消することがあります。
その一例としてご紹介します。
それは、「まだそのことで悩むレベルに自分は至っていない」ということに気付くことです。
たとえば、自分は何か大きなことをしたい、いったいどうすれば、と思っていたとしても、まず大きなことをする前に今身近なことすらできていないこともあります。
いいパートナーと巡り会えない、理想の人に出会えないという前に、今いる人たちとの間でよい関係を築いていますか?ということもあるでしょう。
私も実はタロットの仕事を続けていくかやめるべきかで、ほんの最近まで悩んでいました。
それはタロットが精神的なものを扱うことが多いので、報酬をもらう仕事という面でなじむのかどうかという、いわば哲学的課題でした。
しかし、よく考えてみると、自分がまだタロットを一人前の仕事として扱っていない前にその悩みをしても、レベル的に低次元のことであり、たとえ答えが出たとしても、やはりその低次元での回答でしか得られないと気付いたわけです。
これは自分の中にある一種の傲慢さを自覚したということでもあります。
もちろん低次元といえど、「そもそも論」として悩み・葛藤する意味はあります。
しかしながら、私自身はもっと自分のレベルを上げたうえで、再びそのテーマを思い起こそうと考えたのです。そうすると自分のことだけではなく、より普遍性も出るからです。
また、こう考えることもできます。
悩みは必ずしもとはいいませんが、多くは、あることとあることの葛藤です。
その両者を対比させた場合、本当にどちらとも取れない、あちらを立てればこちらが立たずというような同レベルの悩みならば、真の葛藤だといえます。
けれども、よくよく分析してみると、片方のレベルがもう一方の葛藤の要素とは違っていることがあるのです。同じ重みではない(重みに達していない)といえばわかりやすいでしょうか。
そうすると、その葛藤は自分が生み出している「幻想」であることに気がつきます。
「なんだ、こちらの方が重くて大きいじゃないか」とわかれば、葛藤は均衡を保てず、どちらかにたちまちのうちに傾き、悩みということではなくなるのです。
これをタロットで象徴してるいのは「月」のカードといえましょう。
皆さんも今一度、「その悩みをするのに自分はふさわしいか」という観点から見てみると、意外なことに気がつかされるかもしれません。
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