超えられることと普遍性
私も曲がりなりに、一応タロットの講師をしております。
ということは教える立場であるということです。
タロットに限らず、何かを教える先生・師匠的な立場の人(私自身は決して師匠的な人間とは思っていませんが・・・)は生徒さんに自分を超えられることを恐れている人がいます。
実は告白しますと、たぶん私も以前は潜在的に、自分でも気がつかないところで、そういう思いがあったと言えます。
そもそも、私は誰よりもカモワン版マルセイユタロットリーディングができる人物になりたいと望んでいたところがあり、恥ずかしながらリーディング技術を競うような目線で、学びの時でも他者を見ていたところがありました。
つまりは実際はそうではなくても、「自分が一番リーディングできなければならない」という強迫観念や思い込みがあったのです。
次第にその気持ちは講師への道を歩むことで消えては行きましたが、それは完全に浄化できたわけではなく、講師になることで自分の中でバランスの崩れたプライド・奢りが生じ、それによって潜在的に押し込められていたと感じます。
ですから、今度は生徒さんに自分を超えらることの恐れのような気持ちとして、どこかに見えない形で残るようになっていたのではないかと想像しています。
そうすると技術の出し惜しみのような形や、どこかいつも上から目線になってしまうことが生じます。そして、そのことで逆に自分で自分を縛ることになるのです。
なぜかと言いますと、潜在的に自分を超えることを恐れているので、無意識的にセーブした教えしかできないことになり、つまりは自ずから「拡大」にブレーキをかけていることになるからです。
私自身は気持ちとしては、タロットの生徒さんには全員、本当に普段の自分とは思えないような「愛情」が自然に出てきて、慈しみ的な思いをもって講義では接して来ました。これは真実です。
しかしながら、よくよく深くを探っていくと、奥底には先述した超えられることの恐れや抵抗感もあったのだと気がつきました。
それは他人よりもうまくリーディングしたい、それによって人から認められたいという欲求からも来ていたのです。
自分を超えられると、自分が否定されたように感じ、自分の存在が危うくなると心の奥では感じていたのです。いわば、それはまだ自分に本当の意味で自信のないことろがあったということでもあります。
このことはタロットを通じた自身のワークによる気づきからによります。もちろんヒントを与えてくれた方は何人かいらっしゃいます。
そして、その後、さらに私は気がつきました。
自分一人が満足して技術を持っていても、あるいは究極的に自分一人がたとえ悟りに至ったとしても、人類全体としては何の意味もないに等しいことを。それはやはり利己主義で、傲慢なものでしかないのです。
ですから、自分を超えていただくことは当たり前で、何も怖いことでもなく、むしろ自分にとって有り難く、全体からすれば大きな進展になるのです。全体の進展は逆に言えば、自分自身の進展でもあります。
まあ、そんなことを言うことすら、自分にはおこがましいほど、実はまだまだの人物なので、自分を超えるうんぬん以前の話ではあるのですが(笑)。それでも、先生的なことをされていらっしゃる方のために、何かの参考になればと思って、恥をさらしつつ(^_^;)、シェアさせていただいている次第です。
さて、時に天才的で優れた能力を持つ方が誕生し、ある技術や方法を生み出したとします。
それ自体はとてもすばらしいことなのですが、その技術や方法をほかの人にも伝え、また伝えるだけではなく、誰しも同じように使えるように体系的にわかりやすく教えられるとなおよいでしょう。
残念ながら、初代の考案者は得てして普遍的な技術に落とし込むことができず、一代限りの天才芸で終わってしまうことが少なくありません。
私は初代の考案者や発明の天才にはなれませんが、それを体系化し、普遍的(一般的)なものとして伝えていくことのほうはできるかしもれないと思っています。
私自身もまだまたタロットの研鑽は必要ですが、講座を受講していただく皆さんには、是非最初は私を超えていただき、また私は私で、タロットの技術や知識を普遍的に誰しも一定で使えるようにまとめて、伝えていきたいと思っています。
そうして多くの人によって、タロットによる智慧で、自分や他人の人生をよりよいものにしていただければと願っております。
コメントを残す