知りたいと思うことで世界が成り立つ。

昨日の記事 と少し関連することを書きます。


私たちは結構「わかったふうになる」ことがよくあります。


人から話を聞いたり、何かの講義を受けたりしても、「ああ、それ知っているよ」「そんなことはわかっている」と思ったりします。


また実はあんまり知らないのに、知らないことがかっこ悪いと思って、さも「知ったか」のように演じてしまうこともあります。


何かを知ること、知りたいと思うことは人にとって大きな関心事なのでしょう。

人というのは誰でも好奇心に満ちていて、知りたい欲求、知的好奇心がとても旺盛な生き物ではないかと感じています。


知るために生まれてきたと言ってもいいいかもしれません。


ですから逆に知らないというのは、いろいろな意味で自分にとってマイナスなことと考えるのでしょう。


けれども、一人の人間が何もかも知っているなんてことはあり得ません。


確かに知識や経験がとても豊富で尊敬できる方は、この世界には数多くいらっしゃいますが、そのような方でも、やはりすべてをご存じというわけではないのです。


またもともと生まれた時からその人たちが天才だったわけではなく、当たり前ですが、誰もが赤ちゃんで無知だったわけです。


そこから努力の末か機会を見つけて好奇心を満たすなどされて、今のその人になられているのです。


つまり、誰も完璧ではないので、自分の足りない部分や知らないことなどは、他の人から学べばいいということになります。


だから早い段階から「知ったか」になってはいけないのです。まだまだ知りうることは、世界の人たちの誰かが持っているのです。


ここに、なぜ人それぞれが個性を持ち、興味も様々なのかという理由のひとつが隠されているような気がします。


「バラエティに富む(富んでいる)」ことそれ自体が「」であり、限りない宇宙や神からの恩恵だと言えます。


だからあなたは人と違ってもよいのですし、もしまだ自分が足りないと思う部分、知らないと思うことがあれば素直に誰かから進んで学べばいいわけです。


従って知らないことを恥じる必要もなければ、中途半場に知っているかのように演じなくてもよいのです。そのまま放置していることがもっともまずいと言えましょう。


そしてあなたが知っていることや経験したことは、ほかのそれを知らない誰かに伝えればいいことにもなります。


こうして、一人では限界のある学習や経験も、やはり世界の誰もが生徒になり先生にもなることで限界は突破され、全体として完全に近づくのです。


というより、おそらく全体ではもともと完全なのだと思います。(タロットカードの「世界」を参照ください)


結局、伝えあい、響き会うことであなた自身も世界も成長していくのです。


そう考えるとまさしく、「会い」「遭い」は「愛」となるでしょう。

コメント

  1. 中途半端に知ったふりをしていた自分がいます 知らなくて 教えてもらえばいいのですもんね。
    子供達が大きくなり学校で習った事をいろいろ教えてくれます 今になり学校の勉強も楽しいのだと感じますね。
    先生はどこにでもいるんですね(^O^)
    いつもありがとうございます。

  2. >占い師☆ム-ンさん
    そうなんですよ。
    ホントわからなければ教えてもらえばいい、ただそれだけなんですね。せっかくたくさんの人たちが個性を持っているのですから。私も変なプライドとかで、もったいないことしてきていたなぁと遅ればせながらやっと気付いたところがあります。(^_^;)

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