感じることをどうとらえるか。

これは結構私自身にも言えることなのですが、自分の感覚をいきなり疑うところから入ってしまうことがあるのですね。


感じ、感情、感覚、タロットをする前はこういうものに興味と関心を抱きながら、あふやふやなものは否定するか疑問符をつけて無視しようとする傾向がありました。


しかし一方で都合のよい感覚は信じようと固執するところもありました。


感じるということは実は人間において基本的な当たり前のことで、原始では生存のためには、おそらくこれが最優先された判断材料だったと推測されます。


いわば本能に基づいたものともいえるかもしれません。それゆえ、タロットカードで感情をもっとも表現している「」のカードでは、本能部分を象徴する「ザリガニ」が描かれています。


しかし、次第に蓄積された経験による判断というものが重視されるようになると、それが口伝えになったり、本になったりしてデータや情報とされ、やがて知識となって物事の判断の重要なファクターになったと考えられます。


現代はその最たるものかもしれません。


そして逆に感性や本能的な感覚といったものは排除され、非合理なものとして扱われることが多くなりました。


タロットをやるようになって、私は次第に気がついてきました。感情・感覚というものはすべての中のひとつであり、判断の重要な要素でもあるのだと。


これは知識が正しくて感覚が間違いとか、感性を重視して知性はあとでよいとか、そういう優劣の問題ではないということです。すへでは等しく、ある表現や次元での違いでもあります。


このことは四大元素を理解していけば自然とわかってきます。


それと、さらに大切なことは、私たちは感じることを許可していないことが多いという実態です。


実は感じていることに評価を下すからおかしくなるのです。それはタロットでいえば杯(カップ)を剣(ソード)で理解しようとするようなものです。


感覚に評価をしようとする癖になると、やがて最初から感じない自分にする傾向になります。


なぜならもし感覚が間違っているということになれば、不安や恐れが強くなるばかりか、行動も結果も間違っていると自分が思うことになるからです。


怖い、いやだと感じている自分の感覚を認めると、自分が痛んでいることを認めてしまうことになるからでもあります。


時には相手がいる場合は、自分がいやだと思っていると、逆に相手にいやなことをされているということになり、相手を否定することにつながるので、相手が親やパートナーなど通常社会的に否定できない人であるケースには葛藤が生じるので、それならば最初から感じないようにしたほうがよいという選択をします。

ここのあたりは難しい話にはなってきますが、やはり自分が感じていることそのものに許可をしていくことが自分の解放やノーマルな自分に戻すためにも必要なことではないかと思います。


人間はいろいろな感情をもった生き物です。喜怒哀楽、状況や人に感じていくのは当たり前なのだと思うことです。


自分が感じることを許す、許可する、このことが感性や感覚を鋭くし、さらに自分を解放していく第一歩なのかもしれません。


大事なのは、自分の感じていることに評価(いい、悪いと決めつけること)をしないという態度でしょう。


ただ感じるている自分がいるのだと思うだけでいいのです。


感覚に悪いという評価することも問題ですが、いいと評価するのも決してよいことばかりではないのです。


この感覚は正しいと固執するようになると、傲慢になったり、それこそ得体の知れない信仰を信じ切ったりするような危険性があります。


私も目に見えない世界の感覚をつかむのもいい悪いからではなく、感じていることを許すのが最初だと教わりました。いいか悪いかは、さらにその上の境地や次元にならないと判断できないわけです。


これは「運命の輪」というカード(マルセイユタロット)に描かれている犬と猿にいる間は、いいも悪いも判断できないということと同様です。つまりはスフィンクスになるための過程と考えるのです。


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