学びの方法。先生、師匠。
何かを習ったり、学んだりするということは、何らかの自分の向上・進展のためだと思います。
この時、学習するのには書籍や、最近ではインターネットなどの情報からというのもありますが、時代は進んでも、まだまだ「人から」ということを無視することはできません。
やはり今でも一番効果的なのは、人から直接学んだり、教えてもらったりすることでしょう。
そうなると、人対人のことになりますので、そこに感情が間に入ったり、人間的な利害関係がからんだり、純粋な学びだけではないものが交流することもあります。
気持ちとなると、お互いの尊敬、信頼、愛情などというよい面もあれば、依存、嫉妬、支配、敵意、卑下、萎縮、高慢など・・ネガティブなものも存在します。
そこで、前にも書いたことがあると思いますが、人に学ぶ時は、その学びたい技術や知識習得のみを目的とするのか、先生の人格とか人となり、生き方・考え方もトータルに学びたいのかということを区別したほうがよいでしょう。(その中間ももちろんありますが、意識的に分けて見てみるというのは大切です)
前者の場合は、教わりたい知識・技術以外には目をつぶり、人格などは無視して割り切り、ただ内容を習得するのだいう姿勢で学びます。いわばその人を、物理的なテキスト扱いするようなものです。
そんな人間味のない・・とか、そんな打算的な・・と批判する人もいらっしゃるでしょうが、たとえば何かの専門家という人は、結構変わっている人も多く、だからこそ極めているところもあるのですが、だからといって社会的・人間的に尊敬できる人かどうかは別です。
その人のすべてを学ばなくてはいけないということはありません。学校の先生でも、その教科以外のことが優れているとは限らないのです。
もし教える人があなたより経験の少ない分野のことを話すとすれば、あなたより劣っていると言っては語弊がありますが、経験・知識不足のことは当然あるはずです。
しかし、あなたが学びたいと思っているのは、あなたが習得したい分野においては優秀であったり、知識や技術があったりするからでしょう。
そこに人間的感情を入れすぎるので、誤解が出たり、学習の効率が悪くなったりするのです。
また、その技術そのもはとてもよいものなのに、教える先生との相性や、人間性が今ひとつであったばかりに、学ぶ内容・技術さえも嫌になってしまったということはあります。
学校時代でも先生が嫌いだったから勉強も嫌になったという人や、逆の、先生が好きだったからその教科はよく勉強して成績も良かったという人もいらっしゃるでしょう。
好き嫌いの感情がモチベーションにつながることはありますが、教えてもらう内容と混同してしまっては、せっかくの機会も失うことにもなりかねませんので、冷静な峻別も時に必要です。
さて、では一方の人間性も含めてトータルに学びたいとなれば、これはマルセイユタロットでは「隠者」的なお人から学ぶ・・と言え、いわば「先生」と言うより、「師匠」になります。
※ただとらえ方によっては、「先生」のほうが人格も学べそうな雰囲気で、「師匠」というほうが何か特化した技術のみに優れているというニュアンスもありますので、自分の納得する言葉で考えてください。
とはいえ、現代社会においてなかなかトータルに学べる人というのは少ないと思いますし、それこそキリストとかお釈迦様みたいな人物を想定しないといけないかもしれません。
それでも全てとは行かなくても、なかなか人格的にもすばらしいという先生もいます。で、意外にその人が「技術が一番」というわけではない場合に悩むわけです。(またその先生とは違う技術も学びたい場合)
その時は、その先生の生き方・考え方・人間性を自分にも活かしたい、目標やモデルにしたいとあなたが心から思うのならば学び続けていけばよいでしょう。
ただどうしても技術が気になるのでしたら、先述したように、技術部分は自分で割り切って、ほかの優れた先生に学ぶということもあります。
人格的に優れている先生ならば、その旨、正直に話せば理解してくれると思います。
いずれにしても、どんな人でも実は学べる部分はあるものですし、反対に、この人が絶対であると思わないことです。先生も師匠も人間です。尊敬はしても、依存や崇拝対象ではないのです。
また先生自体も変化しますし、もちろん学んでいるあなた自身も変わっていくからです。

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