学びの良し悪しを見分ける。
今回も学びに関することで、ちょっと前回とのシリーズみたいになりますね。(笑)
さて、自分の学んでいることがどうなのか(よいものなのか)? さらには、学び続けてもよいものなのかどうか? という思いを抱いてる方がいらっしゃるかと思います。
その見分け方と言いますか、判断の材料としましては、実益があるかどうかの点で見るのもひとつの方法でしょう。
実益と言えば、まさに「実際に益すること」になり、平たく言えば、学んで何か効果があったかどうかということになります。投資における回収的な発想です。
たとえばビジネスの知識を学ぶ目的の多くは、自分のビジネスの利益を上げる、拡大するというのがあるでしょう。実際に少しでも学ぶ以前に比べてそうなっているのかを見てみます。
精神的なことであれば、心が前よりずいぶん楽になったとか、考え方が変わったのを実感しているかどうかとなります。
ただ精神的なことでも、心が変われば現実も変わりますので、一向に学んでも実際の変化がないという場合は、自分が行動していないか、やはりその学びが合っていないかということになるでしょう。
特に心理的なこと、スピリチュアル的なことでは、心だけではなく、現実の側面も変化があったのかどうか、精査してみる必要があります。
あと、やはり自分がその学びをしていることで、制約が多くなっていないかも確認してみましょう。
「なになにしてはダメ」「このように思ってはいけない」「こうしなければならない」など、意外に学びによっては自分や周囲の人を逆に縛るようになる場合があります。宗教などでは多いことです。
自分が楽になるばすなのに、学べば学ぶほど自分が苦しくなる、周りの人も「あなた、ちょっと変よ」と言ってきたりするのは、どこか間違っているか、バランスを崩した学び方になっていることがあると考えられます。
ただ、精神的・スピリチュアル的なことでは(肉体の健康面においても)、膿出しのように、溜まっていたものを解放・浄化する過程で、一時的に苦しいことやつらいことを経験したり、運が下降したかのように感じたりすることがあります。
大きなジャンプのためには、一度助走のために戻るようなものですね。
その区別は難しいと言えますが、やはりよいもの(自分に合っているもの)は、つらくても自分の奥底で、「これはきっとよくなる前触れ」という感覚、階段を上がっている感じ、そしてある程度の経過があれば、すっきりとしたものが見えてくる、感じてくるはずです。
それからこれがとても大切なのですが、学びには普遍的(全体的)な部分と個別的な部分を持ちます。
そのためにどの学びでも、一般論と特別論があり、つまりは万人に共通するところと、個人的に合う合わないのところが存在します。
ですから、誰かがよかったと言っても、必ずしもあなたにそれがよいとは限らず、その逆もあります。また学びの進度・理解度・表現方法にも個性があります。
一言でいえば、人それぞれの学びの相性、学び方があるということです。
私の伝えるマルセイユタロットで合う人もいれば、別のウェイト版タロットのほうがやはりしっくり来るという方もいます。
また同じ種類のタロットでも、Aさんから伝えられるのと、Bさんから教えられるのでは異なりますし、それに応じた学ぶ側の合う合わないもあります。
しかし基底では、その種類のタロットとして、どの方から教えられても共通の部分があります。
先程、「表現方法」ということにもふれましたが、実はこのことはあまり学びに関しては言われることが少ないです。
学びと言えば「受け入れる」ばかりのように思いますが、本当は自分から発信していく、表現していくのも学びのうちです。両方セットで初めて「学び」だと言えましょう。マルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」です。
その表現方法にもまた個性があるのです。
書くことで表す人もいれば、話すことで行う人もしますし、心で表現する人、行動で示す人などいろいろです。
自分と人とを比べてもよいのは、先述した学びにおける「共通の部分」「普遍的な部分」「一般論」です。
あとは個別のところが大半を占めますので、基本的に学びにおいて、期限の決まっている学校などでは仕方ありませんが、人と比較するものではないです。
以前の自分と比べてどうなのか(どうなったのか)、これが学びでは大切なのです。
結局、良し悪しの判断は、自分との絶対比較(他人との相対ではなく)であり、自分と学びの(事柄との)相性みたいなところがあります。
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