幸せはどこにあるのか?

「幸せ」というものの定義は簡単なようで難しいものです。

「幸せ」と一口に言っても、考え方により、いろいろな分け方ができるからです。

その中で、「一般的な幸せ」と、「個人的な、それぞれの幸せ」という分け方、違いがあります。

これは、特にタロットリーダーなど、人の相談をする者にとっては、押さえておきたいポイントです。

個人的な相談をする場合、相手は「個人」を相手にするわけですから、一般論とか多数の幸せというものが基準にはなりません。

その相手・クライアントの望む幸せというのが主題になってくるのです。

ところが、ここが難しいところなのですが、クライアントも、そして相談を受ける者も、どちらもやはり一般的な意味での幸せを無視することができません。それに影響されていると言ってもいいでしょう。

だから、自分個人の思う幸せと、一般多数の幸せ観がごっちゃになって、わからくなっていることもあるのです。

幸せ感と幸せ観の「感」と「観」、「個人」と「多数」の違い、誤解と理解の問題です。

それは誰しも、人としては共通の部分があるからです。

皆、感情を持ち、快や不快、苦痛を避けて快適を望むという反応は、人類という種として同じところがあるわけです。

ただし、その反応の違いにおいて、まさに個性がある(人それぞれである)のです。

ある人はこのレベルで満足や幸せを感じるのに対し、ほかの人では、もっと量や程度が大きくなっていないと幸せとは感じないということが起きます。

また実は一般的な幸せというものでも、地域や時代によって異なってくることがあります。

要するに価値観の相違であり、それが多くの人の概念と、個人の概念の違いということもあれば、時代によっても国によっても違ってくることがあるというややこしさです。

そのため、「幸せ」というものの定義はあいまいで、いつも変化するものだと考えることができます。

もっと言えば、はっきりとした幸せ(といえる定義)などないと極論できますし、また逆説的になりますが、幸せはいつでもそこにあり、思い方次第でたちまち現れてくる(感じられてくる)ものである、とも言えるのです。

ここで、もう少し踏み込んで考えてみましょう。

「幸せ」の実体と言いますか、定義はあやふやで、固定したものがないとわかってきました。

そしてそれはまた、一人一人の感じ方・思い方、言わば、心の中にあると言ってもいいものでした。

ここまでは、よく言われていることですし、すぐわかると思います。結局、大事なのは、まず幸せの感受性(幸せを感じる心の度合い)というのが見えてきます。

しかし幸せと感じるためには、幸せと思える価値の創出が必要です。単なる喜怒哀楽的感情の、喜と楽で幸せだと感じるのは、動物的・反応的・受動的なものです。

これでは快楽や喜びとなる感情状態を、待っていなくてはなりません。

もっと能動的に幸せを感じるためには、どうすればよいのでしょうか?

それがさきほど言った、幸せの価値観の(多数)創出ということになります。つまり、簡単に言えば、先に感情よりも思考で幸せを見てみるということです。

「こういうことは幸せと見ることができないだろうか」「このような幸せ観(感につながる)もあるのだと知る」などのことになるでしょう。

それは新しい体験からもたらされることもあれば、イメージや知的思考の中でも起こると考えられます。

幸せは感情的なものだから、知識と思考では無理だと思う人もいるかもしれませんが、最終的には感情であっても、その感情を動かしたり、満足させたりするのには、知識や思考によって新しい価値観を創ることができれば、その新しい価値観によって、満足と思える感情を生み出すことが可能になるのです。

例えば、ただ見た目で気持ちいい、悪いだけで判断していた美術品において、その見方の知識が増えれば、希少な絵の展覧が近くの美術館であるのを鑑賞することができれば、今まで以上の喜びを得られることでしょう。

また、もし骨董価値とか、金銭的価値の知識を知ると、それを手にしたときの喜びも得られます。

ただいずれにしても、何かの刺激によってとか、不足からの充足での幸せ感情というものは、一時的なもので、それはもともとあいまいだった幸せというものを、もっとうつろいやすいもの(どこまで行っても得ることの出来ない幸せというもの)にしてしまうおそれがあります。

となれば、最初に戻りますが、結局、幸せはいつもここにありながら、その定義は決められない、自分で生み出していない、幸せを感じる能力に至っていないということを思い出すことが重要になります。

はっきり言いまして、幸せは、「探す」という意味では実はどこにもないのです。あったと思っても、それは見せかけのもの、仮のもの、他人の(考えた、創った)幸せです。

本当の幸せは「自分が創るもの」「自分で生み出すもの」と言えましょう。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」が、結構これらの示唆になります。

「幸せはどこかにあるもの」「幸せは手に入れるもの」と強く考えていては、「運命の輪」の中でグルグル回っている動物たちとなります。

大切なのは、この輪から逃れて、上にいる動物(スフィンクスの位置)になることなのです。

この動物(スフィンクス)は、「幸せはない」と知っています。

おかしな言い方になりますが、幸せは探せば探すほど、見つからないのです。それは先述したように、探すものではないからです。

幸せは自分の中に種(たね)として存在し、それを開花させる、生み出すことで見出されます。

自分の中にあるのに、グルグルとほかを探し歩いても、ただ疲れるだけか、幻想の幸せを追い求め続けることになります。

まさに「幸せの青い鳥」のたとえのようです。

奇しくも、マルセイユタロットの「運命の輪」のスフィンクスは、青い空色で表現されています。

幸せと感じられない、ひとつの原因は、あなたが同じ輪の中で探し歩いているからなのです。

この輪から脱却し、次元を変え、幸せが自分から「考え」として生み出され、そしてその「考え」を受けた感情として、幸せを味わことができます。

あなた自身が変身し、気づくことが、幸せの近道なのです。

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