聖域訪問における特別感について。

スピリチュアルブームもあってか(そんなものがあるかどうかは本当は不明ですが(苦笑))、神社や聖域など、パワースポットと呼ばれるところ訪問したがる人は増えているようです。

いわゆるスピリチュアル傾向にある人は、そういうところに行くと、何か特別なことが起こることを期待している節がうかがえます。

まあ、一般レベルの話で、特別な場所なのだから、まさしく特別なことが自分に起こってほしいと思うのは人情でしょう。

しかし、ここで、特にスピリチュアルを志向する人は、改めて考えてほしいのです。

いわゆる「スピリチュアル」を志向する人の理想・思想的には、人は誰しも平等であり、究極的にはひとつであるというものがあります。

そして分離・葛藤・競争ではなく、共助・統合・平和的な方向性を持っていることでしょう。

ところが、大いなるものにふれて、「人類はひとつ」というような気持ちになろうとする聖域において、逆に自分は(神から)選ばれている、特別な使命がある、自分(だけ)には神からの意志が示された、神からの恩寵・特別な徴(しるし)を見た・・・というようになる人がいます。

やれ風が吹いた、虹が出た、オーブが写真に写った、眷属が見えた、特別な音が聞こえた、天気が晴れた、結婚式があった・・・まあ、実にいろいろなことをこじつけて、自分の身に特別なことが起きたことをアピールします。

これは、「自分」の個という存在と、神という何か大きく、場をすべて支配するような存在とが別々に意識(設定)され、その中で自分という特別な存在が、大きなものから選ばれている、意識されているという視点になっているのです。

有り体に言えば、自分と神との「分離」、自己の「特別」視と「選民」意識です。

これはさきほど述べたスピリチュアル的な思想とは正反対のものになっていることに気づくはずです。

聖域では、むしろ自己の存在を消して、宇宙や自然と一体感を味わうはずのものが、かえって「自己」を際立たせ、自らの分離感・特別感を助長してしまうシステム(仕組み)に、自分からしてしまっているのです。

いや、私自身も聖域訪問などで、そのような特別感を抱いたり、シンクロ的にこれは普通とは違うことが起こったと思ったりすることがあります。(苦笑)

そういう気持ちは先述したように、人として普通にある感情なのです。

選ばれたい、特別になりたいという気持ちです。それは人というものは「個性(一人一人の違い)」を持ち、分離している存在だから、そうなるのは当たり前なのです。

ただ、それは裏を返せば、その感情を抱いてしまうのは、現実(人間としての普通)意識にいることであり、せっかくの聖域に来ている意味とは逆になってしまうのです。

聖域訪問を、ひとつのレジャー・観光という感じで行うのであれば、同行している友人たちとともに特別感に浸ってみるのも、「人間としての楽しみ・喜び」としてはOKだと思います。

選ばれている喜び、愛されている喜びというのは、時に必要だからです。普段の生活ではなかなか選ばれている感とか、愛されている感を持つのが難しいものです。

その点、自然や神という抽象的で大きな存在を仮定し、それを実感できる場所(聖域)において、自分と対峙させた時、何か特別に感じることがあれば、大いなるものから選ばれている感、愛されている感を味わうことが可能です。

それで自分の価値を改めて自身が確認し、平和な気持ちに満たされることもあるでしょう。

ですから、聖域で、特別感・選民感を持つことも悪いわけではないのです。

けれども、さらにそこから一歩進み、結局、神とか大いなるものは自分でもある(個と全の統合・一体感)と考え、それを感じさせるための装置だと「聖域」を見ることで、分離感・特別感が次第に消えていくような心境を目指すとよいと思います。

マルセイユタロットでは、そのことを「神の家」と「星」のカードで表しています。逆に選民感とか特別感は、その前に位置する「悪魔」のカードが象徴していると言えましょう。

「15・悪魔」「16・神の家」「17・星」という数順の並びから見て、自分に対する特別感から、やがて神との一体感、神が自分の中に宿ることを実感する過程が描かれているように思います。

聖域では何も自分に起こらないのがむしろスピリチュアル的には当然と言え、すでにいるだけ、存在しているだけで、すべてが特別であり、反対に普遍でもあるのです。

ある意味、自分を素直に純粋にさせる場所と言い換えてもよいでしょう。

聖と俗、その境界線は、ひとつと多数、統合と分離の線引きであり、普段の日常では俗として多数の「違い」の中で翻弄されながら、反対に自分が取るに足らない「全体」に埋没してしまう、ちっぽけなものとして感じられます。

逆に聖域では、違いのないひとつの存在として、全体=個、いや個の境界線が消失し、大いるなる自身(全体)に戻る場所になっていると言えましょう。

この両方を交替・交流していくことで、自身の俗性と聖性のバランスを取っていく(昔は儀式化・習慣化していた)のだと考えられます。結局意識のメリハリが重要でもあるわけです。

いかに聖域で普遍を意識することができるかで、あなた(というより全員)が特別であることがわかるのです。

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