タロットから見る自力と他力

マルセイユタロットでは、すでに結構知られているところではありますが、大アルカナと呼ばれるパートのタロットたちが、数の順に、ある種の成長や拡大を象徴させているという考えがあります。

ただ、これには、様々な見方と解説、秘密があり、それがわからないと、単純に「ふーん、そうなんだ」みたいな感覚だけで終わってしまいます。

まさにタロットがアルカナ(隠されたもの、秘密、神秘などを意味します)と言われるゆえんです。

マルセイユタロットの大アルカナの図は、様様なものが詰まった宝庫といえるもので、これまで私の見た限り、世の中に披露されている教え、教説、概念、思考、パータンなどが、図像としてほぼ網羅されていると見ることができます。

ですから、マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像を観察することは、自らに小さなものから大いなるものまで、たくさんの気づきを与えることになるのです。(ただし、一枚一枚について、知っておくべき知識は必要ですし、先述したように、全体図としての見方のコツのようなものを把握しておくことも重要です)

さて、そうした気づきのひとつとして、今日は自力と他力のようなことをお伝えしたいと思います。

さきほどお話したマルセイユタロットの一枚一枚の図像の印象を辿っていきますと、数の少ないもの(カードに付されている数が小さいもの)は、人物が単独で描かれていることが多く、数が増えれば(大きくなれば)、人は小さくなったり、多数の者(人間とは限らない存在)たちが現れたりしています。

このことから、自力の部分と、他力も必要とされる、何かの違いがあるのがわかります。

私たちは、人生で、自力だけで生きていくのは不可能です。そもそも、生まれてからしばらくというか、かなり長い年月、親や養育者がいないと、人として成長どころか、生存することすらできません。

しかし、普通は自立を求められ、または欲し、庇護者から離れて、独力で生きていくようになります。平たく言えば、成人・大人としての独立です。ただ、最近ではニートの人たちも増え、なかなか簡単には独立することができなくなっている状況はあります。(ニート問題については、一般とは見方を変えた私なりの持論がありますので、いつか紹介したいと思います)

それはともかく、常識的には、大人になれば自力で生活していくことになり、それが死ぬまで続くという感じです。

言ってみれば、人は他力で最初は生きていき、やがで自力に切り替え、人生が終わるというプロセスです。

しかし、タロットの図像で見ていくと、なるほど、最初は確かに自力が中心と見えるような、人物がメインとして描かれるカードが並び立ちますが、数が進行していくに連れ、さきほども言ったように、他者存在というものも現れてきて、むしろ、後半は他力中心のようにも見えます。

もし、カードの順序が、人の一生を示すものだとすれば、これは常識的には逆みたいな印象を受けます。

それでも、もっと深く考えていくと、タロットは表面的な生き方、人生だけを象徴しているのではなく、精神や霊的な部分まで表していると見ると、また意味合いは変わってきます。

例えば、私たちは、確かに大人になれば、自活していくのが当たり前で、自力で選択したり、行動したりします。

しかし、人によっては、それが過剰になり、「すべて自分でやらなくてはならない」と、何もかも自力で処理しようとする人がいます。言い方を換えれば、他人に頼らない、任せない人ということです。

これは、成育歴の中で、そうしなければならなかった事情というものが多分に影響していると考えられますが、とにかく、自分が何とかするという態度に固まり、それによって、異常に一人で頑張ったり、仕事を抱え込んでしまったりします。

本当にすべてを一人でできてしまえばいいのですが、実際には、なかなかそうもいかないことは多いです。私たちは(外的な)神ではないからで、自ずと限界があります。

あまりに自分が頑張りすぎるから、逆に、余計に仕事をしなくてはならなくなったり、場合によっては、本来、他人がすべき仕事や(取るべき)責任まで知らず知らず引き受けて、自分どころか、他人にまで無意識的に迷惑をかけている(それに、自分も他人も気づかない)ケースもあります。

大人になり、自立していくということは、何も、全部自力でできることを意味するわけではありせん。

精神的には、むしろ、自分と他人(できることとできないこと)とをうまく切り分け、任せるものは任せ、自分でできないものは他人にやってもらうという、まさに「分別のつく」状態を意味していると言えます。

そして、霊的な面で言いますと、自分という存在は、他人から見えている単一の存在だけではなく、様々な自分がおり、最も高次なものでいえば、それは神性や仏性ともいえる存在が内在していると考えられます。

さきほど、「人は神ではないから自分ですべてはできない」と言いましたが、それは一般的にいう全知全能的な、外にイメージする「神」です。

それとは反対に、私たちには完全性としての神性なる部分を自分や他人の中に見ることができると言っているわけです。

ですから、反転すれば、自分を自分として自覚している肉体的な自我の部分が、「すべてやらねばならない」と思うのではなく、内なる神性の部分が、すべてをプロデュースしてくれるかのような、任せる、委ねる感覚に変わっていくわけです。

すると、霊的な成長というのは、表面的な自力に頼るのではなく、自分の神性を含む、全体的、統合的な、トータルな他者をも含む自力を信頼するという方向性だと気づいてきます。

ということは、普通に思う自力とは、むしろ自分を信頼していない他力に近く、逆に、本当の自力とは、自分も他者も貫いている、全体性の力を確信して出る力であって、一見、他力に近いようで、とても大きな意味での自力だとわかります。

奇しくも、肉体的にも、私たちは年を取りますと衰えてきます。要するに、年々、自分の肉体的、表面的な力や知識だけには頼れなくなってくるというのが自然だということです。

ということは、それ以外の自分の力(精神や霊的なもの、頭の知識だけではなく智慧のようなものがあげられます)や、他者(これは人間とは限りません)の力も使わないと、生きていくのが難しくなるわけです。

だからと言って、悪い意味での依存、収奪をしてよいということではなく(依存は必ずしも悪いとは限りませんが)、先述したように、分別というのも持たないといけません。自分のできることと、できないことを冷静に観察し、分析する力も必要です。

それでも、いまだ大人になっても、表面的な自力で頑張ってしまっている人は、早く、本当の他力を知り、まずは、無理をしている自分を解除し、実際に、任せられるものは任せてみて、捨てられるものは捨てることです。

ここで「捨てる」と書きましたが、それは、変な押しつけの期待や、依存をしないことにも関係します。(よく恋愛や親子関係には現れます)

それは自分を真に信頼することや赦すことにつながります。(一見、他者への信頼に思えますが、結局は自分への信頼と赦しなのです。それがないから、自分ですべてやろうとしてしまうのです)

楽に生きられないことの理由には、ひとつには社会や現状の集合意識的選択のシステムとしての人類全体の問題がありますが(経済問題や、格差社会、組織的人間関係の問題などに関係します)、まずは、自分自身の生き方の問題もあるわけです。(このあたりは、これまでの自戒もありますが・・・(苦笑))

そして、その自分の問題の多くには、抵抗やこだわりがあったり、ここで述べたような、自力での思い込み(自我としての思いの強さ、自分で何とかしなくてはならない、あるいは逆に自分ではどうしようもできない(しかし救いを信用していない自分)という強迫観念)のようなものが影響していたりすることがあります。

そういう人は、自力から、もっと他力へ切り替え、最終的はに真の自力へと発展、目覚めていくことがよいと思われます。

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