人間関係の問題

相談ごとで多いもののひとつが、人間関係の問題です。

タロットリーディングでも、やはりこの問題を扱うことがあります。

タロットの場合、タロットそのものを人間と見立てて、関係性を客観視することもできますし、その関心の方向性や内容についてまで、タロットの象徴性を利用して、本人にはわからないことも推測することができます。

これは恋愛の好き嫌いの状況判断から、家庭、学校、職場のリレーションシップまで、タロットで見ることのできるもの(ただし、あくまで象徴とタロットからわかる予想の範囲で、です)は幅広いです。

それはともかく、人間関係の問題は、人がひとりで生きているわけではありませんから、人間である限り、ずっといつもつきまとうものです。

ですから、実践的にも、心理的にも、いろいろな方が様々な方法・対処の仕方を人間関係の問題において考えられ、披露されています。

それらを読むだけでも、実は結構な指針となったり、解決の糸口をつかめたりすることがあります。

人間関係の問題は、人が人たるゆえんに起因しており、それは、簡単に言えば、人はだれかと一緒にいたい、他人に理解してほしい、分かち合いたいという共同や共感、愛着の欲求がある反面、一人にしておいてほしい、パーソナルスペース(自分のスペース・平穏)を乱さないでほしい、人とは違う部分で一目おいてほしいという、相反するような欲求もあるからです。

まあ、言ってみれば、ひとりだと寂しいのに、自分という個人、一人を尊重してほしいというわがまま性が、誰にでもあるからなんですね。人間とは困った存在です。(笑)

結局、そのため、たいていのアドバイスとしては、人間関係を割り切る(区別する)か、愛をもって自分と他人をあまり区別しない方向に持って行くかのふたつの方法がメインとなってくるのです。

前者(割り切り)は、仕事のためとか、たまたま集められた人たちだとかと思って、自分を守るために他人とは区別してつきあい、必要以上にお互い干渉し合わないという方法です。

意識としては、自分の方に強く向いていて、ひたから「自分」のスペースの快適さを、心の内から確保していくというやり方です。

後者は逆に、自分と他人とは違う存在ではなく、痛みとか喜びとかを共有できる同じ「人間」だとして扱い、平たく言えば愛をもって、他人に接するというような方法で、できるだけ、自分と同じ部分を他人のうちに見つけていくことで、共感を得ていくというやり方です。

これは意識では、自分よりも他者に向かうという感じで、ちょっと修業的なところもなきにしもあらずですが、うまく行けば、人類みな兄弟という感覚になり、他人がどうあれ、自分の心理(気持ち)としては、理想的な環境を得られやすくなります。

どちらがいいかですが、通常は、前者の道を選択するほうが楽だと思います。

自分が壊れてしまえば元も子もありませんから、他人に気に入られようとするより、自分が安心安全であること優先して、まずは自分の身を守ることをするわけです。

だからと言って、別に他人に冷たくしたり、孤独でなければならなかったりというわけではなく、公私混同をなるべく避け、一緒に活動することが円滑にできるよう、礼儀と必要な関係構築だけはしておき、それ以上のプライベートなことに関わったり、親密になろうしたりするようなことは、自分が嫌ならば、特にしなくてもよいということです。

それでも、他人からいじめを受けたり、理不尽な関係性を要求されたりすることはあります。自分で自分を守れない時は、ほかの誰かに助けを求めることも必要となります。

そしてこれも割り切りの道のひとつですが、関係性があまりに苦痛な場合は、そこから立ち去るということも選択に入れます。

確かに、仕事とか住居の場合、なかなか転ずることは難しいこともありますが、それでも、自分が壊れるよりましで、思い切って移動してしまうということはありかと思います。

兵法でも、有名なことわざ、「三十六計逃げるに如かず」と言われるように、逃げたもの勝ちという場合もあるのです。

生き方や過ごし方は、自分が思っているより、いろいろな方法はあるものです。もしかすると、これまでのあなたの生き方よりも、もっと楽でよい道があることを、人間関係の悪さで、天が示してくれているのかもしれません。

人間関係に限らず、ひとつ(ひとり)だけにこだわるのは、苦痛の原因となることが多く、ほかの場所や方法、人間はいくらでもある(いる)のです。たまたま、今のあなたには合わない場所、人がいたということだと思えばいいでしょう。

※ただし、心理的・霊的には、パターンやデータとして、自分の中に根源の問題があって、それに気づくために、同じような問題がどこにいても起きる場合があります。

とはいうもの、実際には割り切るのも簡単なことではありません。

それは、今、特に人間関係に苦しんでいないか、他人からどう見られようと大丈夫だという強い自立心を持っている人くらいが、「割り切ればいい」と簡単に言えるのです。

特に注意したいのは、若者、学校に通っている子どもたちに対してです。

「学校で友達なんかいなくていい、一人で淡々と過ごしていればいいんだ」みたいなアドバイスをする人がいますが、それは大人からの視点だからできるのです。

思い出してください、学校にいた頃を。自分は一人でいいと割り切って過ごすことが、どれだけ困難なことであるかを。

今もどうかはわかりませんが、体育の時間とか授業においても、いろいろな場面で、人と組になったり、グループを組まされたりします。それも、子どもの自由性を尊重しているのか、「自由に好きな者同士で組みなさい」とか言われることがあり、それはいじめを受けている子、友達がいない、作りにくい子には地獄のような仕打ちです。

そもそも周りの視線が気にならないくらいなら、人間関係で悩むようなことはないのです。それは大人の場合でも言えるでしょう。

友達を作らなくていいのではなく、「・・・しなくてはならない」という観念の縛りを解く説明と理解(認識・自己改革)がいるのです。

先述したように、人は誰でも、共にいたい、自分を人に理解してほしい、愛し愛されたいという気持ちがあるので、誰も友達や話す相手がいないということは、それだけでつらいものなのです。

安易に「友達は必要ない」という助言は、言い方を慎重にしないと、学生には、特に誤解されるおそれがあります。

そういう意味では、やはり、ひとりひとりの心のケアや、自己と他人のバランスのために、学校以外、仕事以外でクオリティが発揮できたり、尊重されたりする時間・空間、人間が必要かと思います。

また、割り切る方法(自分と他人の責任と自由性の範囲を正しく理解する方法)を実践的に教えてくれる講演・セミナー、話し手、その心境を構築してきた経験者から伝えられる機会が、学生時代からあればいいかと思います。

個人的には、中二病のようなことも、精神衛生上では、時にはあってもよいかと考えています。あれは一種の自己防衛でもあるのです。

大きな話で言えば、おそらく、人間は個として自立したり、強くなったりする必要性が霊的な流れとしてあり(つまり分離の流れ)、それが確立したうえで、今度は統合に進むのだと考えられます。

人間関係での衝突・悩みは、私たちが個性を持つがために(成長の意味でも)起きることで、まだ認識が低いレベルでの自分と他人というもので止まっているからだと推測されます。

マルセイユタロットでも示されているように、統合の前には、分離として、それぞれの性質を深く認識できる状態が前提となります。

私たちが人間関係で苦労しているのも、大きな理由で言えば、人類の進化のための過程で起こっていることだと考えられます。

しかしながら、すでにその流れはそろそろ反転していてもいいかと思います。

その意味ては、割り切りの対応もいいのですが、そろそろ、自他が融合するような、愛の方向性で、人間関係も変わっていくとよいかなと願っていますし、きっとそうしたものに、今後はなっていくものと思います。

もちろん、ただ放置するのではなく、ひとりひとり、自他の調和を心がけることも、その進化の度合いを加速するうえでは重要かと考えます。

つまりは、現実的対処(それはそれでOKで緊急の場合はよいと思います)のさらに奥の、高次で霊的な視点の目覚めが求められてくるように思うのです。

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