選択を「手品師」と「恋人」で見る

人生は選択の連続と言ってもいいものです。

毎日、何を着るか、何を食べるかに始まり、どう仕事を片付けようか、どう人と相手しようか、何をして楽しもうか、何を学ぼうか・・・それこそ山のように選択事項はあります。

ただ、毎回毎回それを意識のうえに上らせていたら、たまったものではありませんので、たいてい、ささいなこと・ルーチンなことは、無意識のうちに(無意識に近く)自動選択するようになります。(深く考えずに選ぶ)

しかし、それでも、選択にとても悩むシーンは出ます。それはたいてい、どちらかを選らねばならないと思っているような、二者択一的な場面です。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナで、「選択」を象徴するカードといえば、真っ先に、「恋人」が挙げられるかもしれません。

本当はいつもほかの記事でも述べているように、あるテーマそれ自体に、カードそれぞれで象徴させることができるので、「選択」ひとつとっても、もちろん、「恋人」カードだけで表せるものではありません。それでも、テーマに関係性の深いカードというものは出ます。

選択では、「恋人」がまずそうなのですが、ほかにも、今回は「手品師」も取り上げてみます。そして、この両者を見る(比べる)ことで、選択に関わる重要なこと(段階)もわかってきます。

では、最初に「手品師」の絵柄を見てみます。

「手品師」は、テーブルの上に、その名の通り、手品道具を並べて、ある手品をして、大道芸人として観客を楽しませています。

彼の手の持ち物やテーブルの手品道具は、タロットの全体構成で言うと、小アルカナと関係し、彼自体が大アルカナになろうとしている表現だと述べることもできます。

それはともかく、小アルカナと大アルカナの関係は、一言でいえば、現実性と超越性の違いともいえ、簡単に言えば、現実のフィールドを中心として見るか、心や精神、霊的フィールドまで含むかの認識レベルの差です。(いろいろな考え方があるので、これはあくまで見方のひとつです)

となれば、「手品師」は小アルカナの世界を扱おうとしていると見ることができ、それは選択の意味においては、現実フィールドで重要視したり、価値を持たれたりする基準によって選ぶ意味になります。

講座の中では詳細な説明をしていますが、「手品師」のテーブルと彼が持つものには、いろいろな象徴性があり、それらひとつひとつには、現実における選択肢の本質を表していると考えることができます。

さて元に戻りますと、私たちが悩むシーンでは、どちらかを選ばなければならない状況でのことが多いと言いました。それは、結局、現実生活における良し悪しを、なかなかその条件と選択の時点では甲乙つけがたく、判断できないことになっているからと考えられます。

詳しく要素を見れば、お金などの経済的効率・損得、自分の気持ちが満足するかどうか、やりがいや見返り(人からの評価、達成感・貢献感など自己満足も含む)があるかどうか、自己の学びや成長・拡大につながるか、確実性がある(目的のための成果や効果がある)のはどちらか、などで条件が拮抗しあい、迷っているわけです。

どちらかを選択した場合の未来が読めない、わからない、予想が今の時点ではつかないからというのもあるでしょう。

そして、今書いたこれらの現実的諸条件(悩んでいる要素)が、「手品師」で言えば、テーブルの上の小道具であったり、持ち物であったりするのです。

一方、「恋人」カードを見ます。

「恋人」では、手品師のように、道具・モノではなく、人が3人いて、真ん中の人が、両端の女性のどちらを選ぼうか迷っているようにも、すでに心が決まっているかのようにも見える描かれ方をしています。

そして、人間たちだけではなく、上空には、天使あるいはキューピッドのような、人間ではない異次元の存在も現れています。

「手品師」では、一人でモノを選択しようとしていたのですが、「恋人」になると、モノではなく、人そのものの選択が入り、それは逆に、人から教えられたり、示唆されたりして、選択を支援されているようにも見えます。

さらには、「恋人」カードに天使が現れたことで、通常の次元、現実や常識の選択レベルを超えた何かが、この実際の世界にも関与するのだということ、常識を超越した選択の方法や見方があるのではないかということが、わずかですが、示されてきたとも言えるでしょう。

つまり、私たちは、選択に迷い、悩むことで、次第にステップアップし、肉体・現実次元だけではない自分や世界に気づいていくことになるのです。

それは目に見えない部分も含む、統合的・霊的成長と言えましょう。もし霊的なことというのがうさんくさい、なじまないというのであれば、心理的成長と言い換えてもよいです。

心の中は目に見えない次元でありますから、そうしたものまで開いて(受け入れて)自分を見ていくことで、選択の見方・仕方も変わってくるのです。

「手品師」のところでも述べたように、「手品師」レベルの選択は、現実での常識的な損得とか、一般感情レベルの満足、具体的(他人から見ての)評価が得られる条件のもとでの視点(選択基準)でした。

「手品師」が大道芸人であるだけに、人からの評価は、自分の人気、ひいては食い扶持にも影響しますし、対人的に敏感で重要なものになるのもやむを得ないところがあるでしょう。(生活の基盤のため、快楽や喜びのための選択基準)

しかし、他人の目線や常識的価値観ばかりで自己の選択を行っていると、本当の自分を抑圧する選択の方法が習慣になり、自分自身の成長が止まってしまうおそれもあります。

そこで、他人との相談、コミュニケーションを取りつつ、自分と人の違いを認識し、自らが真に望むものの選択を見極めていくようにします。

ここで大事なのは、自分自身を発見したいからと言って、殻に閉じこもっていては(孤独ばかりを選択してしまっては)、結局、自分の個性がわからなくなってしまうので、他人と関わることで、他人に依存したり、流されたりせず、自他の違いを認識しつつ、自分をきちんと持つという過程が望まれるということです。

それが「恋人」カードの三人の話し合いのようにも見えます。

そうした中で、やがて、選択の条件やレベルというものが、現実世界で言われている「よいものを選ぶ」という観点だけが正しいのではないとわかってくる時があります。

自分の心は本当はどう言ってるのか? なぜこの選択で迷っているのか? ふたつの選択のどちらでもない選択というのもあるのではないか? そのこだわっているものに、本当の価値が自分にあるのか? ・・・

カードで言えば、新たな視点は、「恋人」の天使目線で生じてくるとも言えます。いわばそれは内的な声とも言えますし、神性的な発動による気づきの選択でもあり、また、魂の求め(ここにはギリシア的にいう「ダイモーン」のような、善性と悪性の両方の神的悪魔的存在からの介入、誘惑も含みます)によるものもあります。

これらのことから、迷って決められない時は、正解を求めようとしないのが正解という、面白い考えをしてみるとよいでしょう。

どちらかに決められないのは、まさに決められないものだからであり、あなたの視点を今の価値と条件から、はずすか(違う視点と条件で見てみる)、もう、どちらもやってみる、あるいはどちらも選ばないという両極端のような発想の転換を図るか、さきほど述べたように、大変に迷う段階で、すでにその選択肢のどれかを選ぶという意味での正解はないのだと認識し、こだわりを捨てたほうが楽になるでしょう。

神・天使的な目線に立てば、現実界での結果よりも、すべてのプロセスに意味があり、おそらく、どちらの、どの選択肢を選ぼうとも、そこに優劣はないと見えるはずです。優劣があると考えるのは、現実視点での条件・価値で判断しているからに過ぎません。

「手品師」で言えば、テーブルにあれだけ色々と道具が用意されているのが現実世界です。その道具をどう選び、どんな手品をするのか、それはあなた次第で、神目線では、手品そのものの評価より、たとえどんな道具であっても、手品をしたこと自体が評価されるのではないでしょうか。

また、あまたの手品(道具)を選んでやってみる、そして観客からそれなりの(いい・悪いの)評価を得るというも、現実世界に生きる人生の面白さとも言え、選択で悩むということは、それだけワンダーランドな(道具がたくさん用意されている楽しい)世界(に生きていること)でもあると考えられます。

ということは、悩むことは贅沢で豊かなことなのです。

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