現実の肯定

マルセイユタロットの大アルカナで、現実的なことをもっとも象徴するのは、おそらく「皇帝」かもしれません。

もちろん、ほかのカードでも言えますし、そもそも、22枚(細かく言えば78枚)による完全性の象徴だと取ると、あらゆることは22枚に分かれ、表現されることになります。

ですからその意味においては、「現実」についても、言わば、「月」の現実もあれば、「13」の現実もあるのです。

と書いてみて、ちょっと面白いので、その続きを書きます。

さきほど「月」の現実と言いましたが、皆さんはこの表現で何を思い浮かべるでしょうか? 月のような現実をイメージすれば、はかない現実、淡い幻のような現実、夢としての現実・・・こんな印象が出るかもしれません。

とすると、それは現実と言うより、幻想に近いものとなりますが(苦笑)、人によっては、他人が幻想だと思うものでも、その人にとっては現実と認識しているかもしれないのです。

ある人にとっては、とても現実的な重要事項であっても、他の方から見れば、夢・幻、幻想を追っているようなことは意外にあるものです。

たとえば、最近の話題では、自粛中にパチンコに行ってしまうような人と、それを見ている一般人という構図にもあてはまるかもしれません。

パチンコに行く人にとっては、それは現実であり、彼らの現実においては大切なことだと本人は思っているわけですが、他の人には幻か夢を見ている人のように映るわけです。

というように、現実ひとつ取っても、22枚で検証すると、いろいろな見方ができます。

今日の話題はそれではありません。(前置き長くてすみません(笑))

だしゃれ(苦笑)ではないですが、「皇帝」と「肯定」、そして「現実」(の生活)のお話です。

私たちが、現実の生活をしていく中で、イキイキとして、楽しく暮らしている人と、いつも悩んだり、辛かったりの気分で過ごしている人との二種類があると思います。

いや、多くの人は、そのはざまに位置するのかもしれませんが、まあ、言ってみれば、明るくポジティブに生きる傾向の人と、物事を深刻にとらえ、ネガティブ気味に生きる傾向の人と、大分されるところはあるのではないかと思うわけです。

それは、実際に自分の状況が現実的によいとか、順調であるとか、恵まれているとか、先天的・後天的環境要因に左右されることがあるのも確かです。

しかし、やはり持って生まれた性格と言いますか、思考・感情のスタイルによるところのほうが大きい気もします。

そういう性質の違いのほかに、もうひとつ、現実をどれくらい肯定できるかによって、運や生き方、ひいては人生の楽しさも変わってくるのではないかと思います。

逆に言えば、現実を否定すればするほど、現実の神から見放されるかのごとく、自分が追い込まれ、苦しい状況になっていくところもあると考えられます。

これは、実は当たり前のような話で、この世、現実が否定されるのであれば、当然その中で生きるのもつらくなり、幸福や満足度、充実感を味わうことは少なく、難しくなるでしょう。

現実が肯定できれば、何よりも、自分の存在も肯定でき、この中で精いっぱい生きること、表現することもいとわず、それが楽しくもなるはずです。

最初にマルセイユタロットでは、現実をもっとも象徴するのは「皇帝」のカードだと言いました。ならば、「皇帝」を自分のものにすれば、現実はもっとしっかりとしたものとして、自分の中に立ち上がり、「皇帝」による肯定が行われるでしょう。

言い換えれば、自分を認め、自分自身を治める自立でもあります。

現実否定は、奥底には自己否定と心理的には関わっている部分もあり、自分を認め、確立することで自分が「皇帝」となり、現実を治める存在として自信が持てるようになって、現実(自分を取り巻くもの)は肯定されてきます。

自分が否定されると、その自分のいる現実の世界も否定され、居場所がいなくなり、現実は空虚なものとなります。それでは、現実が充実することはなかなか困難です。

自己批判、自己否定だけではなく、反対方向の、他人批判、他人否定も、現実否定につながり、つまりは現実肯定から遠ざかりますから、幸せ感も少なくなります。

現実肯定には、実際的なモノやお金の充実、自分の地位や名誉の向上などで、肯定感を増すことが考えられますが、それはある意味、危険であり、常に他人や量での比較に悩まされる代償も伴います(際限がない)。

しかし、それが一時的には効果的な人もいるので、方法論としては、人によってはありかもしれません。

心理的には、先にも述べたように、自己肯定感が持てるように自己の内面をクリアーにしていくことが求められますが、自分(の内的)方向以外にも、外方向に、少しずつ、愛するものを増やしていくということも考えられます。言い換えれば、自分がその存在を肯定できるものを増やすということでもあります。

愛の低次には、「好き」という感情のものもありますから、好きなものを増やすという方法でもよいですし、もっと狭めたやり方で、嫌いなものは多くても、ひとつでもよいので、とことんあるものを好きになるということを極めていくのも方法だと思います。

また、嫌いなものをフラットな感覚(好きでも嫌いでもない)に戻すということも一方法でしょう。

とにかく、「このために生きている」というモノ・対象・人、何かを見つけると、少なくとも、現実はそれがある世界ですから、肯定感が出ます。

それでも、もともと現実は否定されるような思想、考えを持ってしまう人はいます。

原理グノーシスなどでは、そういう、根本的な現実否定の思想と言えます。

そこで、これは私自身がそうなのですが、あるレベルの現実を肯定することは無理でも、この現実の中にある、ほかの現実を見出すという意識を持てば、あながち、この世界も捨てたものではないという肯定感が出ます。

この現実世界に隠された本当の現実世界を発見する目を持つとでもいいましょうか。(こうなると、一般に思う通常の現実は現実ではなく、むしろ幻想であるという考えになってきます) ゲームのクエストような感覚にも近いです。

現実を否定しながらも現実を肯定する、いや、新たな現実を見出す、創造すると言ったほうが正しいかもしれません。

いずれにしても、実際の人生を幸せにするためには、現実の肯定感というのは、とても大切なのではないかと思います。

それが純粋に持てる人は、世の中の状況や環境がどうあれ、いつも希望を持ち、明るく活き活きとして、そのために、実は現実のほうがそれに引き寄せられ(作り変えられ)、幸せな状態(環境も)になりやすいという仕組みもあるように思います。

言ってみれば、世界はよいもの良い方向に進んでいると素直に信じるような人と、そが実現する現実との関係です。

ですが、人にもいろいろなタイプがいて、性格も違います。

ひねくれ者や、天邪鬼な者、自分や現実がなかなか素直に肯定できない者、地球の長い支配的な歴史・状況の様相にどうしても合わない者もいると思います。私なども、こちらの部類が多分に性質としてあります。(苦笑)

それも役割と言いますか、選んだ個性であり、必ずしも悪いものではないでしょう。

それでも、現実にいる理由、肯定感が少しはあったほうが、自身の生きる意味も肯定されるはずです。

あなた自身が否定しても、親が、子供が、友人が、動植物が、自然が、地球が、果ては宇宙や神が、とにかく何者かがあなたを肯定しているのです。

なぜならあなたが現実(と人々が思っているこの世界)に存在するからです。

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