様々な「待つ」ことの意味

マルセイユタロットには、「待つ」ことを示唆するカードたちも少なくありません。

そもそもタロットの象徴自体、大きく分けて二元的なエネルギーの表現をしており、その二元をしっかり把握し、その中でバランスを取る現実感覚とともに、二元を統合して大元に回帰する、いわば空とか無(しかし光であり有の可能性のすべてである)の境地に到達することも示唆しています。

つまりは、現実への認識をうまく調整しながら、この世と経験を楽しむか、現実を超越して、自分自身が天国を創造する(宗教的にいえば 神の国に帰る)かということになります。

本当に私自身、長年マルセイユタロットをやってきて思うのは、「愚者」というカードがあるように、自分の自由性を尊重しているということであり、タロットは自分の選択によって、いかようにでも道を示してくれるという面白さです。

タロットの精霊の形ともいわれる「愚者」と、その「愚者」に寄り添う犬、その犬がいろいろな種類で現れ、私たちが「愚者」になる時、犬は姿を臨機応変に変えるみたいな感じですね。

話を戻しますが、タロットには、進め、変革、GOみたいなことを示すカードと、先にも述べたように、待つ、様子見、保守、ストップみたいなカードのふたつの表現や象徴があるわけです。

後者の代表で言いますと、「吊るし」です。このカードが出るということは、イケイケゴーゴー(笑)みたいなことでは決してないと思ったほうがいいでしょう。(ただし、例外はありますが、それはややこしくなるので、今回は説明しません)

さて、一般的に「待つ」ことで迷うのは、それが受動的か能動的かでも異なるからです。

だいたいにおいて、「つ」と言えば受動的なものですが、これにも、待たされる、待たされているという状態の時と、自分からあえて待っているという状態の時があります。

これが、受動的か能動的かの違いと言えましょう。

そう、受動的と思える「待つ」姿勢にも、よくよく考えると、その中に、さらに受動的なものと能動的なものとに分かれるわけです。(ここにも二元の働きが見て取れます)

能動的な「待つ」の場合は、あまり迷いや悩みはありません。あるとすれば、待つ姿勢を解除するタイミング、ゴーサインを、どう見落とさないかというくらいです。

とは言え、そのタイミングはかなり大事なので、慎重かつ大胆に見る必要があります。「吊るし」と「運命の輪」、「戦車」などが重なれば、このようなことも表すと見ていいかもしれません。

問題は、待たされる「待つ」です。

これもタイミングが重要とはなってきますが、自分から選択できないので、判断や次の行動が難しいわけです。

自分からはわからないのですから、ひとつには、自分が何とかしようとする気持ちをあえて捨てるというのもありです。

言い換えれば、相手や自然に任せることを自分が許し、支持するということです。まさに「吊るし」のように、手も足も出さずに待っているような感じです。

イライラしたり、早く動きが出てくれとあせったりすればするほど、そうできない状況と比較して、心は苦しくなるばかりです。

だから、もういっそのこと、いい意味でのあきらめをして、天や自然のタイミング教えてくれるという感じでいると、心は楽になります。

また劇的な変化を望むのではなく、一見、膠着状態、出口が見えないとあせり、苦しいかもしれませんが、その状況を悲嘆せず、一定期間の膠着状態を経験する必要があると切り替え(もがいても変わらないモードに今は入っていると考え)、やれることだけを淡々としていくというのもあります。

もちろん、今何とかしないと死ぬとか、本当に危機で追いつめられるという状況になれば別ですが、しかし、それも、そのような絶体絶命の大変な状況になっているという「お知らせ」であり、「タイミング」であると言え、ここは動かざるを得ない、変えざるを得ない、本当にあきらめるようなことに、事態は待機モードから変わっているわけです。

ここで、悪い意味での能動的な「待ち」についても言及しておきます。

それは、やるべきことがあるのに、できないことの理由を自分が作り、それで「待つ」という状態にしている場合です。

何が能動的なのかと言えば、動かない理由、待つ理由を作って、能動的に「待っている」ことです。言ってみれば、動かないことに能動的(笑)だというわけです。

私自身にもよくありますが(苦笑)、人は不思議なもので、やりたくない、面倒だと思うようなことに対して、何かと理由を作って、それに取り掛かかれない(着手・完遂することに向かわない)ようにします。

それはそれは見事で、自分どころか、他人に対してさえも、論理的で正当だと思えるような理由を創造してしまいます。

本当は感情的なものなのですが、そこに論理性(屁理屈ですが)をつける能力は、意外にどの人にもあり、相反しているとよく言われる論理(思考)と感情でも、蜜月関係(笑)になれば最強であることを、ここに見ることができます。

まあ、平たく言えば「言い訳づくり」で、それは職人芸の域にあるみたいなものです。

さらにこれがひどくなると、自分の中での言い訳がパワーと権力を持ち、カードで言えば「正義」となり、また「悪魔」とも結びつき、自分の行為を正当化して、誰の声も聞こえなくします。

ライトスピリチュアルや心理系の誤解では、「心の声」とか「ありのままの自分」という錯覚さえ起こすことがあるので、注意です。

そうなる前に、「待つ」ことの状態をもう一度振り返り、それが本当に苦しいことなのか、つらいことなのかを確認してみましょう。

待つ、何もしないということが一見楽なようでいても、それが自分にとっては本当は心苦しく、つらいことである、気になって仕方ないことであるのなら、自分の心や成長したいという気持ちに嘘をついているのかもしれません。

そのつらさは、動きたいのに、変わりたい(元に戻りたい)のに、状況・環境的にそうできないというつらさとはまた別です。

このままではダメだとわかっているのに、動かない、ずっと待っているほうが楽だからと、何かと理由をつけてそうしている、でもそれは本当は苦しい・・・というのならば、どこかで一歩踏み出し、厳しくても本心に即した行動に向かうほうが、結果的にはつらさは消えていくことになります。

やるつらさ、何もしないでいるつらさは、同じ(つらさの)ようでいて、まったく質は違うのです。

マルセイユタロットでは、ナンバーの前後や、ある並びの絵図が、ひとつのカードの問題性を解決したり、癒したりする場合があります。

「吊るし」の場合でも、詳しくは言いませんが、「法皇」や」太陽」とも関係し、そこからしますと、父性的なほかの力や段階が働いて「吊るし」の救済があると考えられます。

よって、自分一人で膠着し、出口が見つからない待機モードになってしまった人には、その問題を整理し、上の段階や別の見方から助言をしてくれる者(あるいは考え)の存在が打開の可能性を持ちます。

止まっている理由、止まりたい理由は、抵抗・ブロックでもあり、実は自分にとって大切なこと、大事にしていることでもあるのです。それを切り捨てられたり、否定されたりすると、余計にかたくなになってしまうおそれもあります。

誰かに相談する場合は、これらをきちんと見てくれたうえで、「吊るしモード」を解くことに、勇気をもたらしてくれる人がよいです。

また「吊るし」が長引いている人自身においても、よき方向に変わりたいことを心の中で宣言し、その支援を天や神(これは内的な高次の自分というように考えてもよいです)に本気に頼めば(祈れば)、事態はそれに見合うものに変化してくるでしょう。

それに見合うというのは、人によっては、まだ「吊るし」として「準備」、浄化・調整としての期間が必要な場合もあり、必ずしも、自他が物理的に、今、変化する必要があるわけではないからです。もちろん、必要な人には、そういうことが「神の家」として起こることもあるでしょう。

いずれにしても、自分を貶めないことです。言い訳モードの待機でも、人は安心安全でいたい気持ちがあるのが当然ですから、それも責められることではありません。

自分のことを尊重していけば、動かない理由をつけて自分を守っていることが、逆に自分を貶めていることにも気がつく時がやってきます。言い訳している自分を責めても、自己尊重とは逆のことをしているわけですから、本当の気づきは訪れにくくなります。

このあたりは、タロットを学んでいると、きっとわかってくるでしょう。

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